閑話休題②

Claudeと遊ぶ——言語の紡ぎ手——①

 蒼い夏草が茂る丘の上に、小さな村がたたずんでいた。風が吹けば、波となって草が踊る。村人たちは牧畜や農業を生業とし、昔からの慣習に従って平穏な日々を送っていた。

 村で暮らすリンダはまだ十七歳の少女だった。

 彼女の一日はいつものように始まった。

 朝日が差し込む家で目を覚まし、朝食の手伝いをする。家畜の世話をしてから、畑に出て村人たちと共に農作業を行う。そういった日課は変わらず、季節の移ろいにしたがってごく自然に過ぎていった。


 その日の昼下がり、いつものように山羊を放牧していたところ、その内の一匹が村の外れの森の方へ逃げていってしまった。

 リンダは村中を探し歩くことになった。目には見えないなにかに糸で引かれるかのように、歩みは止まることなく、自然とどこかへと導かれていった。

「……ここ、どこ?」

 気がつくと見知らぬ場所にいた。木々の合間から村はかすかに望めるものの、随分と遠い。いくらか高台になっているらしく、ここからなら確認できるが、戻ればすぐにまた村は見えなくなる。日が暮れれば正確に方角を見定めることも難しいだろう。要するに、迷ってしまったらしい。

「……まあいっか」

 リンダには不思議と不安はなかった。むしろ、今までの村の単調な生活から少し外れ、非日常への期待が微かにあった。好んで危険を冒すような性格ではなかったものの、好奇心以上に彼女を魅了するものはほかにない。

 見知らぬ森を進み、ついに抜けた。

 背の高い草に覆われた広場になっていた。森の道からまっすぐに石畳が伸び、そのまま視線を伸ばしていくと、そこには見たこともない古びた塔がある。

 石造りの塔は緑のマントをまとうように蔦で覆われ、森と同化しようと試みている最中だったが、まだそれにはしばらく時間がかかりそうだった。

 村の人からこんな塔の話を聞いたことはなかった。誰も森の奥まで抜けたことがなかっただろうか。そんなはずはない。隣の村や街へ行くのに通る道からそう離れていないはずだ。

 ——だとしたら、どうして?

 日が暮れかけ、天頂から次第に紺色の幕が下り始めている。薄明かりの中、塔は不気味な雰囲気を放っていた。

 リンダは最初、遠くから塔を見つけた時、戦慄を覚えた。しかし同時に、再び強い好奇心が湧き立ってくるのがわかる。もはや否定できないくらい、自分の耳で聞き取れるくらいにまで、彼女の心は高鳴っていた。

 塔の入り口は開かれていた。まるでリンダが訪れるのを待ち侘びていたかのようだった。

 中に入ると階段が円形に螺旋状に続いている。上に行けば行くほど幅は狭まるようで、下から見上げても途中の天井で阻まれて見通せなかった。

 リンダは階段をのぼっていく。ところどころ外の光を取り入れるための小窓が設けられていて、夜がすぐ近くにまで迫っていることがわかった。我知らず、足はずんずんと階段を上っていく。

 自分の足音しか聞こえない。石を叩く高い音が響き、長い螺旋階段に反響して戻ってくる。一人なのに、一人じゃないかのようにいくつもの音が重なっていき、自分の足音が自分のものなのかどうかもわからなくなってくる。

 ——あれ、私、のぼってるんだよね?

 ふと、階段の途中でリンダは足を止めた。少し遅れて、階段に響いていた足音も鳴り止んだ。

 ——やっぱり、私ひとりだけだよね?

 また階段を一段ずつ、しっかりとした足取りで踏んでいく。かん、という音が鳴ると、反響がどこからか戻ってくる。

「誰か、いますか?」

 にわかに不安が湧き起こってきた。後悔もあった。山羊を探していたはずなのに、今ではなにか、別のものを探している。なにを探しているのかもわからないまま、足は高く、高くへ向かってのぼろうと急かしてくる。

 ——どうしてだろう?

「誰かいますか?」

 もう一度尋ねてみるものの、やがて戻ってくるのは同じ問いかけだけだった。

 頂上に辿り着いた。金属の大きな扉が一つ、リンダの前にある。把手に手をかけた。動かない。その扉には文字が刻まれていた。村で使われているものではなかった。リンダが毎日のように読む本のなかでは、一度だって見たことのない文字だ。なのに不思議と、リンダには読むことができるのがわかった。

「ウォルテン・ハイデー・シュトゥルムバンネ」

 無意識に、その言葉を口にしていた。それが、『知の門を開かれよ』という意味だということも、どうしてか、リンダには理解できた。ここには、今まで見たことも聞いたこともない世界が、新しい知が、広がっているのだ。

 扉がゆっくりと開いた。

 階段をのぼるときには気づかなかったが、頂上の部屋は思っていたよりもずっと広かった。外から見たときには、こんなに広いとは思わなかった。それだけ、頂上が高くてよく見通せなかったということだろう。

 円形の部屋には、壁に沿うように棚が備え付けられ、古い本でびっしりと埋められていた。中央にはぽつんと四角い机と、一脚の椅子がある。そこに、埃に覆われた本がぽつりと置かれていた。

「……なんだろう」

 声が反響することはなかった。振り返ると、扉はひとりでに閉じられていた。

 リンダは中央の机に近づいた。本の表紙には、扉とまったく同じ、見たことのない奇妙な文字が書かれていた。目が、あるいは頭が、全身が、電気の走るようなぴりぴりとする感触を覚えた。本能的に、この本には特別な意味と力が宿されていることを理解した。

 リンダはその本を手にとり、文字が刻まれたページをめくった。最初のページに書かれている、言葉を発音してみた。

「ウォルベルマー」

 す部屋の周りの空気がゆらゆらとひずみ始めた。視界が歪んで、感覚が麻痺するかのようだった。しかし、それは一瞬のことで、すぐに通常の状態に戻った。リンダは戸惑いながらも、不思議な力を感じずにはいられなかった。

 村の人々に話すことはできない。どうしてか、そう思った。あるいは、話したところで誰も信じないかもしれない。

 かたん、とどこからか音がした。

 リンダははっとして、本を閉じ、とっさに懐に隠した。今見た不可思議な出来事を胸に秘めることにした。この本には大きな秘密が隠されている。本を詳細に分析して、その言語の謎を解き明かさねばならない。今まで見たことも聞いたこともない世界が、この中には隠されているはずだから。

 神様の日記帳を覗き見るような後ろめたさを感じながらも、やはり、ここでも湧き起こる激しい好奇心には抗えなかった。


 塔の頂上から辺りを見渡すと、村は遠くの丘の上に、いつもどおりの平和な風景を見せていた。リンダの目には、今やその村も違って見えた。何か新しい発見が待っている、そんな予感がした。

 太陽は山の稜線にかかり、夜がすぐ迫っている。ちょうど塔の下から伸びる道と、よく知っている街道がつながっていることがわかった。

 ——これなら問題なく帰れそうだ。

 リンダは本を懐に塔を後にした。

 夕日が森の梢に向かって燃えるような赤い光を投げかけていた。迷い込んだ森の奥から村への帰り道を急ぐ。歩くというより、リンダは薄暗い森の道を駆けて帰った。


 村に帰り着いた。

 小さい頃から過ごしていたはずの村が、どこか馴染みのない光景に感じられた。自分だけが、この村の秩序からこぼれおちてしまったかのような、集団に嵌まる部分としてふさわしい形を持たないような、そんな孤独を感じた。

 ——私はもう、ここにはいられないのだ。

 ひと休みしたあとすぐ、塔での出来事を思い出した。

 本に手を伸ばした。

 やはり、見たことのない言葉なのに、リンダには読むことができる。不思議な感覚。どこか、別の世界につながるような感覚がある。

 開いたページに書かれた言葉を口にした。

「ディバルム」

 再び視界が歪み、空気が震えるような錯覚に陥った。部屋の中の物が次第にゆらゆらと動き出したように見えた。

 今まで目にしたこともない光景だった。

 ——やっぱりこれは、ここじゃないどこかとつながっている。

 リンダは疲れ切っていた。好奇心はあっさりと睡魔に降参して、本を開いたまま、暖炉の前の揺り椅子でまどろんでいた。

 ——そういえば、山羊のこと忘れてた。明日、探さなきゃ。

 まどろみとともに、見つからなかった山羊のことをぼんやりと思い出した。次の瞬間には、夢のなかで再びその山羊を追いかけ、森をさまよっていた。

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