リオンと森のエルフ②

 橙色の炎が揺れているのが視界に映った。微睡のなか、その光が夢か現か区別がつかない。意識が次第に具体性を帯びていくと、目の前が暗く、まだ目をつむっていることに気づく。さっき見たのは夢だったのだろうか。重たいまぶたを上げると、本物の赤い炎が暖炉の中で音を立てて燃えていた。さっき見た炎よりずっと明るい光だった。

 ——そうか、帰ってきたんだ。

 温かい。赤い炎には、師アルディアンのような心地よい魔力が感じられた。アルディアンが助けてくれたのか、とリオンは再び目を閉じようとした。

「ああ、やっと起きたか」

 違う、アルディアンの声ではない。リオンは跳ね起きた。同時に、全身に激しい痛みが走り、低いうめき声が漏れる。

「まだ動くには早いよ。オーク退治に来たんだろうが、運が悪かったね」

 からだにはシルヴァンクロークスの毛皮が掛けられ、ベッドの脇には、湯気の立つ光茸のスープが置かれていた。リオンはまだ状況がつかめていない。誰が、どうしてこんな場所に運んだのだ。なにをしていてこうなったのか……そうか、思い出した。

 オークの住み着いた穴の入り口には、結界返しの魔法が仕掛けられていて、奴らを封じ込めることができなかった。そして一旦は逃げようとして、足を踏み外したのだった。

「助けてくれた……っていうこと?」

 リオンの視線の先には、肌のきわめて白い、翡翠色の瞳をもつエルフがいた。金色の髪はあごのあたりまで伸び、尖った耳がすきまから覗いている。初めて見たのに、エルフだとすぐに確信が持てた。人間とは単にその見た目が違っているだけでなく、アルディアンから教えてもらった「秋の葉のような金色の髪、風のような軽やか歩み、翡翠の瞳に宿る森の囁き」という詩の一節そのままの印象だったからだ。

 ぼんやりとしたリオンの視界の中、エルフはなにか作業していたが、手を止めると、ゆっくりとベッドに近づき、手を差し出した。

「僕はエメラルディア。君は?」

「リオン」

 エメラルディアの手は、森を流れる小川の水のように冷たいのに、ちっとも嫌ではなかった。

 エルフには人とは異なる魔法の力があるのだとか。アルディアンが話していたのを思い出した。エルフの魔力は動植物と通じ合うために用いられ、森やそこに棲まう動植物、土や風、水との深い縁がある。森に足を踏み入れたときに感じた、ふんわりと全身がやわらかな空気に包まれるような肌触りに似ていた。最初は恐怖が勝っていたはずなのに、いつのまにか、自分もその一部にとりこまれてしまったかのように錯覚する、心地よい喪失。そこでは、自分が自分である必要がないかのような……調和とは善悪の均衡ではなく、そうした曖昧な感覚なのではないかとふと思ったものの、そんなことを考えている場合ではないのだ。状況把握が先決だった。

「……で、ここは?」

「僕の家だよ。エルフは森に住む、そのくらいのことはたとえ魔法使いのでも知っているだろう」

 エメラルディアは揶揄うようにいった。リオンは恥ずかしさ半分、憤り半分で、反駁すべきか迷った。少し間を置き、控えめにその言葉を否定した。

「もう見習いではないよ。こんなでも一応、正式な魔法使いを二年以上やっている」

 自嘲がこもった態度に今度はエメラルディアが面食らった。ほんのささやかな揶揄いのつもりが、どうやら若者を傷つけてしまったらしいと察し、取り繕うにあわてて弁解した。

「いや、わかっているよ。君ほどの魔力を見習いの魔法使いが持っているわけないからね。それに、鞄の中にあったクリスタルには凄まじい力が宿っているね。遠くからでもわかるくらいに。どこかエルフに似たものを感じたから、気になってちょっくら見に行ったってわけさ。そしたら、祠の前で倒れている君と、穴から外の様子をうかがうオークがいた」

「見に行った……じゃあオークがいたことも、人間が退治に出向いているってのも知っていたってこと?」

「そうだよ。オークが悪さしてるってことくらいエルフだって知ってるさ」

「じゃあ、どうして放っておいたんだよ」

 リオンは筋違いの怒りをぶつけた。わかっている。これはエルフの関わる範囲の事柄ではない。当然のようにエメラルディアは眉を寄せた。だがそれは、怒りとも困惑とも取れる複雑な表情だった。純粋な魔法使いの若者を前に、いつかの誰かの面影を重ねていたのだ。

 ほんの束の間、沈黙が流れる。それを優しく押し広げるように、風のように澄んだ声が部屋に響いた。

「……君は、人間の不始末は人間によって解決されるべきだと思わないかい?」

「人間の不始末?」

「調和を乱すのはいつだって人間であって、エルフではない。オークですらない。彼らは所詮そうした調和の一部に過ぎないからね。となれば、どうしてこんな事態になったかってことを考えてごらん。君はちょっとおっちょこちょいかもしれないが、馬鹿じゃない。……もう、なんとなく勘づいているんじゃないか」

「……シャドウフォージの連中」

 シャドウフォージは、エーテリアから歩いて三日ほどの、セレスティア山の南に位置する村だった。エーテリアは人々の生活のためにのみクリスタルを用いるが、シャドウフォージの人々は、それを交易に用い、富を得ていると以前から噂されていた。疑いだけで他所様を責めるべきでない、とアルディアンに咎められたが、シャドウフォージが裏で画策していてもなにも不思議ではなかった。

「彼らは君たちのやり方が気に食わないようだね。セレスティア山の南側じゃあほとんど採掘し尽くしてしまったらしいから、どうしたって君たちの領分にまで踏み入らなけりゃならない状況になったってわけさ。大きくなりすぎた彼らの村は、もはや自制の及ぶ範囲をとうに超えてしまったんだよ」

「そんなの、神々に対する冒涜じゃないか。私たちは与えられたものを、与えられた範囲内で用いることで調和を保つ。アルモニウスに対し、そう誓いを立てた。そんなことをすれば魔力だって失われてしまうのではないか。それに、神々の怒りを買うんじゃないのか。かつて栄華を極めた都市、エルナクシアのように」

「神々の機嫌をいつ、どんなふうに損ねるかなんて、それこそ神のみぞ知る。ただのエルフの僕にはわからないよ。ただ一つはっきりと言えるのは、シャドウフォージの人々はとうの昔に魔力なんてほとんど失ってしまったってことかな。魔力を用いるうえで大切なことって、リオン、君にはよくわかっているだろう」

 自制心と理性。自らが自らの力への欲望を抑えることへの意志。調和を司るアルモニウスは身の丈をわきまえないものを嫌う。シャドウフォージの人々だってエーテリアと同じようにアルモニウスに誓いを立てていたはずだ。となれば、欲に溺れてクリスタル集めに奔走していると彼らがどうなっているか……火を見るより明らかだ。

 リオンは痛みに耐えながら、再び、ゆっくりと体を起こした。痛みのせいか、怒りのせいか、からだがぶるぶると震えていた。

「もう、行かなきゃならないみたいだね」

 リオンはベッドから足を出し、立とうとしたが、力が入らない。

「早くオークを退治して、シャドウフォージの連中を——」

「まあ、そう焦ることはないよ」

 エメラルディアは円筒状のパンを輪切りにし、皿の上に並べた。

「まずは腹ごしらえといこうじゃないか。それに、君は長らく眠っていたんだ。今はまだ、オークたちの時間だよ」

 窓のない部屋のせいか、リオンには時間がわからなかった。ベッドの脇には循環水時計が置かれている。リオンの持ってきたものだ。夜のような濃い紺色に染まっていて、どうやら今が真夜中だとわかった。確かに、オークたちの時間だ。

 エメラルディアはいたって平静なまま、切り分けたパンと光茸のスープを食べるようにリオンを促した。黙って受け入れるしかなかった。

 リオンはスープの木の器を手に、一口、舐めるように啜った。美味しかった。アルディアンの作るスープに似ているが、それよりもずっと美味しい。などと言えば師匠に叱られるけど……。スープが空になるまで、リオンの手の動きが止まることはなかった。

「この時計、どこで手に入れたの?」

 ようやくリオンは手を止め、エメラルディアに向き直った。

「師匠が作ってくれたんだ。自分の魔力じゃ時を司るにはまだまだ未熟だから」

「そっか、なるほどね……」

 時の魔法が便利なのは、こうして外の様子がわからなくとも、時間を知ることができることだった。

 時は星のめぐりで、星のめぐりは魔力を左右する。いたずらに時に逆らえば調和を乱し、アルモニウスとの契りに背くことにもなる。日や星の見えない場所では必然的に魔法を使いづらくなるが、循環水時計があれば匙加減を調整できる。魔法使いには欠かせない、大切な道具だった。

 エメラルディアは水晶のような球体を手に持ち、リオンに背を向け、暖炉の日に照らすようにして矯めつ眇めつ観察した。それはどこか、エメラルディアの心をとらえるところがあるらしかった。

 エルフの長い金色の髪が、暖炉の淡い光のなかでも金属のような不気味な輝きを放っている。森で見た光茸や光苔のようだった。光をいっぱいに吸い込んで、自ずと光っているように見える。肌もそれに近い。薄闇のなかでは白というより銀色に見える。淡い光を放っているかのように、表面に薄い魔力の膜をまとっているのだ。どうすれば四六時中こうして魔力を使っていられるのだろうか。有限なそれはいずれ尽きてしまうはずだが、エメラルディアには疲れた様子はまるでないし、尽きてしまうこともなさそうだった。

 ふいに振り返った。その手の中の循環水時計は相変わらず濃い紺色だった。まだ朝は遠い。リオンはちょうど、口いっぱいにパンを頬張っていた。

「あはは。いい食べっぷりだね。食事が終わったら、朝までしっかりと寝ようじゃないか」

 そういうとエメラルディアは暖炉に置かれた鍋のもとへ向かい、さらに一杯、スープを注いでベッドまで戻ってきた。

「さあ、二杯目だ。このスープは残さずに飲むんだ。それで朝までぐっすり眠れるはずだから」

「……ありがとう」

 リオンは今更ながら感謝を告げると、自らの無礼にようやく気づき、頬を染めた。

 助けてもらったからということもあるだろうが、この善良なエルフは気の置けないところがある、とリオンは思った。アルディアンを重ねてしまう。スープの味も、魔力の帯びる柔らかさも、話し方や振る舞い方も。だからこんなにも気を許して話してしまったのだろう。へとへとに疲れてもいた。身体中が傷ついていた。頭だって打っていたし、よく考えることができなかった。エメラルディアと話し過ぎたことを反省するよりも、言い訳みたいな考えばかりがリオンの頭を巡っていった。

 スープを飲み干した。まだパンは残っていたけど、腹は十二分に満たされた。

 ベッドの上で横になり、暖炉の方を見る。暖炉の脇の揺り椅子にエメラルディアが腰掛けている。手には一冊の古い本があった。はじめて来たはずのエルフの家なのに、リオンにはなぜか懐かしく感じられた。このままここで暮らせればいい。そんな突拍子もない空想が浮かび、すぐに自らの考えを打ち消した。

 不意に、エメラルディアが本から顔をあげると、リオンに視線をやった。

「そうだ、君が眠る前にもう一つだけ質問していいかい?」

 アルディアンもこうしてついでのように質問してくることがあるが、大抵それは、リオンの痛いところを的確につく、嫌な問いだ。リオンは少し身構えた。

「ああ、なんだい?」

「君はどうしてあのクリスタルを肌身離さず持っていなかったのかな。あれを懐におさめていたなら、こんなことにはならなかったはずだけど」

 やっぱり、嫌な問いだ、とリオンは思った。

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