第36話 親友の弟に、感謝を込めて。
数ヶ月ぶりの現場だ。
以前は毎日のようにあちこちのスタジオを渡り歩き、いろんなキャラの声、あるいはナレーションの収録をさせてもらっていた。
そのなかでもここ、赤羽橋のスタジオは懇意にしてる音響監督さんがよく使っていることもあり、何度となく通ったホームであるはずなのに、数ヶ月離れただけですっかりアウェー感が強くなっている。
いままで積み上げてきたキャリアを失ったのだから仕方ない。
キャリアとは信頼であり、私はその信頼を自分の手で影も形もなくぶち壊してしまった。
だからまた、一から積み上げていくしかない。
ビルのエレベーターを上り、フロアを歩いた私はスタジオの扉の前に辿り着く。
もう監督やスタッフは到着しているはずだ。私は静かに深呼吸した。
意を決して扉を開ける。
ミキシング装置が揃ったコントロールルームに入ると、すでに今日の収録に携わるスタッフが揃っていた。
ミキサーに、音響監督のサトさん、大林監督、プロデューサー、制作進行のスタッフ。『アンセム×コード』に携わる関係者の面々が揃っている。
私は深々と頭を下げた。
「リンクエコーズ の霧山シオンです。本日はよろしくお願いします」
たくさんの視線が突き刺さるのを感じる。
居ても立っても居られない気持ちになるのをグッと堪える。
音響監督のサトさんが立ち上がり、私に近寄った。
アロハシャツを着た、サングラスのおじさんである。
強面のせいで新人の子からは時折、ヤクザに間違えられるが、数多くのヒット作を手がけ、さらに多くの声優がこの人に鍛えられ、第一線で戦える声優として羽ばたいた。
私も鍛えられた1人である。
ちなみにハルくんからクソゲーと評された『プリンセス・メア』の音響監督でもある。
サトさんは仏頂面で私に近寄る。そして、ニッと白い歯を見せて笑った。
「よお。お帰り、霧山」
「はい。ただいまです」
私が答えると、「霧山さーん!」と少年みたいな声をあげて、大林監督が駆け寄ってきた。
大林監督はアニメの制作を指揮する、いわばボスであるはずなのに、アンセムの監督はとても若々しい。
童顔と綺麗な肌のせいで中学生のように見える。人懐っこい笑顔を浮かべながら、私に話しかけた。
「霧山さんが戻ってきてくれて嬉しいよ。あなた以外のALICEは考えられないからね」
「すいません。迷惑かけてしまって……」
「謝らなくていいよ。こっちもいつもどおりでいくからさ」
「進行がいつも通りなのは困るけどね、監督……」
屈託なく笑う大林監督の隣で制作会社ブレバスのプロデューサーである湯川さんは苦い顔をしている。
気苦労が絶えないせいか、実年齢よりも老けて見えた。
ちなみにサトさんも、大林監督も、湯川さんも同年代だと聞いているが、揃っているところを見ると全くそんなふうには見えない。歳のとり方はいろいろだと思い知らされる。
「すいません、遅くなりましたぁ」
扉が開いて飛び込んできたのは私のマネージャーの万智さんだった。
相変わらずのんびりした口調だが、今日はいつもと違うスーツを着ている。
勝負ごとのときにだけ身につけるという高級ブランドのスーツだ。
万智さんは私の顔を見ると、無言でガッツポーズを送る。私もまじめくさった顔でガッツポーズを送り返し、どちらからともなく笑った。
馴染みの人たちが揃う。みんな、私を温かく迎えてくれる。そのことがとてもありがたい。
「では、霧山さん。こちらへお願いします!」
ミキサーさんに案内されて、私はアフレコブースに入った。
防音扉を開けると、ビュッという音が鳴った。密室だったアフレコブースに空気が流れ込む音だ。
だだっ広いブースにはマイクスタンドが立っており、壁際にポツンとパイプ椅子が置かれている。
「ではあとで監督が来ますので、少しだけ待っててくださいー!」
そう言って、ミキサーさんアフレコブースから出て行く。防音扉が閉まると、外界から遮断され、急にしんと静まり返る。
いつもなら共演者と挨拶したり、談笑したりするが、今日は抜き録りなので私1人だけ。
私はアフレコ台本を取り出し、ついでにペットボトルの水を飲んで、喉を潤す。
前日まで台本を読み込み、一字一句すべて頭に叩き込んである。
しかし今日は一度も台本を読み返していない。
台本を読み、自分で答えを作りこんでも、それが現場の求める正解になるとは限らないからだ。
それに天才・大林一郎のことだ。
こちらが立てた演技プランなど、破壊されるに決まってる。
「霧山、待たせたな」
しばらくして音響監督と、監督が並んで入ってくる。私は台本を開き、今日の収録の流れについて打ち合わせを行なった。
今日の収録は抜き録りなので、私の担当するパートだけ声を吹き込むことになっている。
ちなみに他の演者はすでに収録を終えているらしい。私との絡みは代役のキャストを立てて行われたという。
そこまでは予想したとおりだった。
なので今日の収録については以下の流れを想定していた。
すでに収録した音を流しながらそこに合わせて、私が声を吹き込む。
そうすることでセリフの間を活かしながら、あたかも会話しているように見せる、と。
しかしサトさんたちはとんでもないことを言い出した。
「今日の収録、霧山には他の方の演技を聞かずにやってもらう」
「えっ……。それは最初から最後まで、ですか?」
「Dパート、つまりラスト5分だけはLaViの演技を聴きながらやってもらう。そこだけは会話してるようにやって欲しい」
「……つまり、それ以外は会話してる感じを無くして欲しい、と?」
「そうだ。独白、モノローグくらいのつもりでやるなのがちょうどいいだろう」
「演出意図を伺ってもいいですか?」
私の質問に、「はいはい」と大林監督が楽しそうな顔で現れる。
「劇場版のアンセムは、ALICEが人間を知る瞬間を描きたいと思ってます。ALICEはもともと自分のプログラムに従って動くロボット。人間のような自我を持たないのが彼女なんだ。だから、劇中で彼女は何度か感情を発露させる瞬間があるけど、それはあくまで外部に出力されたプログラムの行動パターンでしかなく、本当に彼女に自我があるのかは最後までわからない」
「はい。それはテレビシリーズも同じですよね」
「だけど、映画はね。やっぱり奇跡が起こってほしいと思うわけ。だから、観客にはALICEは我々と同じ心を持った存在になったんだという確信を、映画のラストではもって欲しいんだ」
大林監督の口調に熱が籠る。私は監督の言葉に必死についていこうとする。
「その奇跡を起こすために、ALICEは会話しないってことですね?」
「そういうこと! ALICEの世界に他人はいないんだ。ずっと旅をしているLaViの言葉にと応じてるわけじゃない。ただ自分の話したい言葉を発してるだけ。でも、旅を続けてALICEは最後に自分を再定義するんだよ。他者がいる世界で関わろうとする自分に」
自分の再定義。
その言葉が、私に強く響いた。
「わかりました。探りながらになると思いますが、やってみます」
「うん、どんどん探って! 何度も言うけど、この役は霧山さんにしかできないと思うから!」
「……まぁ、あれだ。霧山」
サトさんは言った。
「俺たちはお前を信じてる。だから、遠慮なくぶつけてこい。倒れたらいくらでも支えてやる。いいな?」
「……出ましたねー。昭和生まれ特有の精神論。今どきそれってパワハラですよ?」
「でもお前はこういう言葉のほうが燃えるタイプだろ?」
「間違いないですね」
こうして打ち合わせが終わり、サトさんたちはアフレコブースを出ていく。
再び一人残された私は椅子から立ち上がり、アフレコ台本を手にマイクの前に立った。そして静かに目を閉じる。
声は本人が想像している以上に、その人の心のあり方を露わにする。
今まで培った技術、辿ってきた経験、磨いてきた思考のすべてが曝け出されてしまう。
だからこそ、この世に実在しないキャラクターたちに命が吹き込まれる。
昔、尊敬してる先輩の声優さんはこんなことを言っていた。
アニメ(あるいはゲームも)は実写と違い、画面に映るものすべてが虚構で構成されている。
制作者の意図が介在しないモノは(技術の稚拙はあれど)、1フレームたりとも映ることはない。
その中で唯一、本物といえる要素が声である。
脚本、キャラデザ、演出、アニメーター、と様々な人たちの情熱や技術を経て生まれたキャラクターに、はめ込む最後の1ピース。
それが声優という仕事なのだと。
現場から離れて、休業して、わかったことがある。
私は声優という仕事が好きだ。
大好きだ。
たとえこの先に何が待ち受けていようと、私はこの仕事を辞めるつもりはない。
それがこの、休業期間で再定義した自分の姿。ハルくんが見つけてくれた霧山シオンであり、絹田詩織なのだ。
何度も私は手をさする。
先ほどまで握っていたハルくんの手の感触を思い出しながら、彼に感謝を捧げる。
恐れはある。不安もある。
しかし、それでもなお踏み出していける勇気を今の私は持っている。
だから、また一から積み上げよう。
ハルくんとの約束を果たすために。
自分で選んだ戦場をこの先も戦い続けるために。
「霧山、始まるぞ。まずはテスト収録から頼む」
「はい。お願いします」
私は目を見開いた。
収録の開始を告げるキューランプが点灯する。
そしてALICEの第一声となる台詞を口にした。
――なんのため?」
――なんのために、私は創られた?
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