第35話 姉の親友を、見送る。そして対峙する。

「だからタクシーに乗るからいい、って言ったのに」

「もう乗っちゃったんだから、観念してください」


 俺と詩織さんはいまタクシーの中にいた。

 スタジオまで付き添おうかという俺の提案に、最初詩織さんはめちゃくちゃ渋い顔をした。しかし何かあったらいけないと半ば強引に説き伏せたのだ。


「詩織さんに何かあったら、俺、姉に殺されるので。お願いします!」


 最後は姉の名前を出すことでなんとか、無理矢理、強引に、同意を取り付け、スタジオまで付き添うべくタクシーに同乗させてもらったのだ。


「まさかハルくんとスタジオへ向かうなんて……。恥ずかしすぎるんだけど……」

「さすがにスタジオの中には入りませんよ。入り口まで見送るだけです」

「そういうことを言ってるんじゃないの! ……もう万智さんのバカ。なんで迎え来れなくなっちゃうの」


 なんだかよくわからないが、詩織さんはやたら恥ずかしそうにしている。

 ちょっと悪いことをしたかなと思ったが、あのまま見送るという選択はどう考えても俺の中には存在しなかったので、素知らぬふりをした。


 タクシーに乗って5分。

 最初は文句を言っていた詩織さんもようやく諦めたのか、口数が少なくなり、窓の外を眺めている。


 いま、タクシーは赤羽橋にあるスタジオへと向かっている。

 しかし今日は道路が混雑しているせいで、時折タクシーも渋滞につかまり、動けないタイミングが続いていた。


「……時間、間に合うかな」

「大丈夫ですよ。俺たち、かなり早めに出ましたし」

「それはそうなんだけど」


 詩織さんは神妙な顔のまま、さっきからこっちに顔を合わせてくれない。

 眼差しも険しく、ウィッグや吊り目のメイクもあって、別人のように見える。


 家を出るまでは自然体だったのに、いまは緊張でぴりぴりしている。


 俺は持っていたポーチを開けて、あるモノを出した。


「詩織さん、のど飴いります?」

「……なんで、そんなの持ってるの?」

「この頃、練習に打ち込んでたから必要になると思って用意してたんです。どうです?」

「……もらう」


 詩織さんはのど飴を受け取ると、包みを開き、中身の飴を口の中へ放り込んだ。


 頬が内側から押されてぷくっと膨らむ。舌先で舐めているのか、詩織さんは口をもごもごとさせていた。

 それまで険しかった表情が次第に和らいでいく。飴ちゃん効果があったのか、緊張がほぐれていったようだ。


 よかった、と安心していると、詩織さんが俺の方に視線を向けた。

 その目が次第にジト目へと変わる。


「ハルくんのえっち」

「なんで!?」

「女の子の飴なめてる姿を覗き見て、鼻の下を伸ばすなんて最低。えっちマン。特殊性癖」

「罵倒が重すぎませんかね!」

「罰として、今から面白い話をしてくださーい。はい、3、2、1」

「……こないだ生徒会室で、後輩から聞いたんですけど」

「あ、やっぱりいいや。長くなりそう」

「傍若無人か!」


 自由すぎるだろ、この人。

 俺がつっこむと詩織さんは声を出して笑った。


「やっぱり、ハルくん面白いなー。おかげで緊張が吹き飛んだよー」

「……詩織さん、俺のこと、雑に扱っていい玩具だと思ってる節ありません?」

「まさかー。子供の頃から可愛がってたテディベアくらいには大事に思ってるよ」

「玩具なのは変わらないじゃないですか」

「マイケルって名前だったの。6歳だった私よりも大きなぬいぐるみでね。抱きしめると、とっても柔らかくて、モコモコして、あったかかったな」


 懐かしそうに詩織さんは話す。詩織さんが6歳だった頃。ちょうど子役として活躍していた時期だろうか。


「マイケルはいま、どうしてるんですか?」

「……わからない。あの人に売られちゃったから。大事に思ってたのに、私はマイケルを守りきれなかった」


 詩織さんは視線を落とし、そのまま左手で頬をつきながら、再び窓の外へと目を向けた。


 出る時は晴れていたのに、いつのまにか空は雲に覆われている。心に蓋をするような分厚い雲だ。下手するとひと雨降ってくるかもしれない。

 

 左手とは反対に、詩織さんの右手は無防備にシートに投げ出されている。そこには空になった飴の包みが指で挟まれていた。


「……包み、受け取りますね」


 返事はないが、まるで頷くように詩織さんは微かに首を動かす。

 

 俺が指先に挟まれた包みを抜き取ろうとした時、急に詩織さんの手が動いた。


 長い指を折り曲げて、包みを抜こうとする俺の手をおずおずと撫でようとする。

 

 恐々と、俺の手の形をなぞろうとするように指先を滑らせていく。

 詩織さんの指先は滑らかで、とてもひんやりしていた。まるで陶器かガラス細工のようだった。


 詩織さんの顔を見るが、視線は車の外に向けたまま、こちらを振り返ろうとしない。


 無言を貫くつもりらしい。


 冷たい指先の力が次第に強くなる。俺はもう片方の手で包みを取り除いた。


 それでも詩織さんは俺の手を離そうとしなかった。

 包みを受け取るという言い訳もなくなり、俺と詩織さんはただ無言でじゃれ合うように互いの手を触り、求め続ける。


 手を広げ、大きさも違う掌をぴたりと合わせ、そしてお互いを包み込むようにぎゅっと、固く握りしめる。


「やっぱり、天使の手じゃないね」

「天使?」

「昔のハルくんの手。とってもちっちゃくて、柔らかくて、熱くて。初めて握った時、これが天使の手なのかって感動しちゃった」

「……可愛くなくなった、とは姉からもよく言われます」

「そうだね。ゴツゴツして、固くて、大きくて。男の子の手だね。……でもあったかいのは変わらない」


 俺は詩織さんが引っ越してきた日を思い出していた。

 

 あの時、俺たちはこれからの共同生活を始まらにあたって挨拶の握手を交わした。


 詩織さんの手を握ったとき、陶器のようになめらかな感触の手だと思った。


 もしかすると簡単に触れてはならない貴いモノのように感じていた。


 今も詩織さんの手は滑らかだと思う。詩織さんの手に触れるにはとてもたくさんの勇気が必要となる。


 それでも、今の俺は知っている。

 

 滑らかに見えるこの人の手の脆さを。それでも内側に宿した熱いものを。


「マイケルと俺の手。どっちがあったかいですか?」

「えー、なに、その質問。マイケルに妬いてるの?」

「妬いてますよ。悪いですか」


 俺の答えに、詩織さんはびっくりしたように目を見開いている。

 

 恥ずかしくなって俺は目を逸らし、片方の手を口元に添えた。


 それでも頑張って言い切る。


「俺は柔らかくないし、モコモコしてないし、可愛くもないですけど。マイケルみたいにいなくなったりしません」


 俺はここにいる。それを伝えたくて、詩織さんの手を強く握る。


「天使じゃなくなった手でよければ、いくらでも貸します。いくらでも、握ってくれて構いませんから」


 詩織さんは答えなかった。

 代わりに、握っていた俺の手を解放するやうに手を広げていく。


 そして手を合わせまま、俺の指と指の間に自分の指を滑り込ませると、再び握り返した。


 いわゆる恋人繋ぎだ。

 俺もそれに応える。


 詩織さんの指の感触まで伝わる。ぐっと心の距離が近づいたように思えた。


「やっぱりハルくんの手は落ち着く」


 詩織さんは深々と息を吐いてから言った。

 先ほどまでのピリピリした緊張が完全に抜け落ちている。


「ほんとはハルくんについてきてほしくなかったの。仕事に向かってるときの私、嫌なやつになりがちだから、ハルくんに見られたくなかったの」

「あ、だからあんなに拒否してたんですね」

「でも、やっぱり来てくれてよかった。また不安な気持ちのまま、スタジオに向かうところだった」


 そう言ってから、詩織さんは苦笑する。


「私、休んでるあいだに、ずいぶん弱くなっちゃったなぁ」

「……自分の弱さを曝け出せる人は、強い人だと思いますよ」

「そう? 他人に甘えてる人に見えない?」

「甘えてる人は本当に都合の悪い部分を隠そうとします。でも本当に丸裸になれる奴は強いらしいです。……姉の言葉ですけど」

「わぁー、アサちゃん言いそう! たしかに言いそう!」


 詩織さんは笑った。それから俺の方に顔を寄せる。


「ハルくん、一個教えてあげる」

「なんです?」


 内緒の話を打ち明けるように詩織さんは俺の耳に顔を近づけて言った。

 

「私が本当のハダカを見せられるのは、ハルくんだけだよ」


 吐息混じりに囁かれる声。

 俺は驚いて、すぐ詩織さんを振り向いた。

 

 いつのまにか詩織さんは親から顔を離し、そ知らぬ顔で窓を見ている。


「……今のはどっちの意味で言ってます? 心ですか? カラダですか?」

「好きな方で解釈しなよ、このむっつりえっちマン」


 結局、そこで俺たちの羞恥心は限界に達し、会話は途絶えてしまった。


 それでも絡めた互いの手を最後まで解くことはなかった。


 ひんやりしていたはずの詩織さんの手はいま、燃えるような熱を帯びている。

 それが詩織さんの体温なのか、自分の体温なのか区別をつけることはできなかった。


◇◆◇


 タクシーが東京タワーを通り過ぎて、交差点に差し掛かったところで、降りることになった。収録スタジオがあるビルは古めかしい建物で、どこか趣きがある。


 待ち合わせ時間の20分前。悪くない時間にたどり着けた。


「先に控室で待たせてもらおうかな。もう向こうのスタッフもスタンバってるはずだし」

「いよいよですね」

「うん。やっと戻ってこれた」


 詩織さんは手持ちのバックを大事に握りしめる。その中には収録台本が入っているのだろう。この日のために、何度も何度も読み込んできた台本が。


 と、急に怪訝な顔になり、まわりをきょろきょろ見回した。


「どうしたんですか?」

「いま、誰かに見られた気がして……」


 俺はばっとまわり見渡す。視界に怪しい人影は見当たらなかったが、もしかすると霧山シオンに気づいた人間がいるかもしれない。


「……帰りは大丈夫ですか? 迎えに来たほうがいいですか?」

「いいよ、いいよ! 万智さんが来てくれるはずだから。帰りは本当に心配いらないよ」

「でも……」

「これは強がりじゃない。心配いらないから。信じて」


 詩織さんに諭されて、俺は頷くしかできなかった。確かに心配しすぎたかもしれない。


「終わったら連絡するから、家で待ってて。今夜はぱーっと美味しいモノでも食べようよ」

「朝から親子丼食べてるのにもうご飯の話ですか?」

「そうだよ。悪い?」


 そんな言葉を交わし、お互いにくすくすと笑い合う。


 すると詩織さんはまっすぐ拳を突き立て、俺の胸元に押し当てた。


「じゃあ。行ってくるね、ハルくん」

「はい。行ってらっしゃい、詩織さん」


 そのまま詩織さんは踵を返し、スタジオのビルの中は入っていった。

 詩織さんの姿が見えなくなったのを確認した俺は帰宅するためにその場を離れようとした。


「ちょっといいかしら?」


 いきなり誰かが俺の前に立ち塞がる。

 ん? と首を傾げながら、俺は現れた人物の顔を見た。


 中年の女性がそこにいた。

 

 つばの広い帽子を被り、ノースリーブの黒のワンピースにサンダルを履いている。

 濃いサングラスをかけているため、目元はよくわからない。


「あなた、霧山シオンと知り合い?」


 俺の全身に力が入った。


 以前の行本さんのような関係者かとも思ったが、この人からは棘のようなものを感じる。自分の意思を強引にでも通そうとする、強い「圧」だ。


「すいません。どちら様ですか?」

「ああ、ごめんなさい。警戒しなくていいの。私、あの子の身内だから」


 そう言って、相手はサングラスを外した。

 

 こちらを射抜くような鋭い目をしている。

 くたびれた印象はあるものの、とても綺麗な人だと思うと同時に、既視感を抱いた。


 誰かによく似ている。

 というより、さっきまで俺はこの顔を見ていた。


 霧山シオンのメイクをした詩織さん。

 ちょうど霧山シオンの顔に年月が刻まれたら、こんな顔になるのではないか。


 待てよ。この人、さっきなんて言った?

 あの子の身内?


 その人は霧山シオンによく似た顔で、にっこりと笑顔の仮面を貼り付けながら言った。


「はじめまして。霧山シオンの母です」

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