第33話 姉の親友は、再起する。

 気がつくと、俺は自分の部屋にいた。

 

 時計を見ると、もう深夜の2時を過ぎようとしている。

 それのに全然眠くならない。


 いつも寝ているベッドの縁に、詩織さんが腰かけているからだ。

 一旦、俺は床に敷いたクッションに座りながら、詩織さんとの距離を取る。

 ベッドの近くは危険すぎる。

 俺のメンタルがもたない。


「へー、ハルくんの部屋。こういう感じなんだね」

「こういう感じ、というのは?」

「うーん。男の子の部屋、って感じ!」


 詩織さんはきょろきょろとせわしくなく辺りを見回した。


「ここって、昔は子供部屋だったよね? アサちゃんやハルくんの玩具とか絵本があったと思うんだけど」

「そんな昔のこと、よく覚えてますね」

「なんとなくだけどね。さすがに昔の名残はあんまり残ってないか」


 そんなに乱雑だろうか。キレイに整頓してる方だと思うけど。

 ……もしかして匂いか? 汗臭いのか???

 これでも掃除はしてるし、ファブリーズだってかけてるんだけど。


 しかしそんなことを考えつつも、意外と頭は冷静だ。

 ちゃんと思考はできている。


 その代わり、俺の心臓のほうは全然冷静じゃなかったけど。

 

 落ち着け。落ち着け。

 これは夢じゃないのか?

 

 そうだ。深呼吸。深呼吸だ。


「……自分の部屋で、そんなにテンパることある?」

 

 詩織さんがニヤニヤ笑ってる。

 久しぶりに見た! この笑い方!


 前よりもたちの悪さがグレードアップしている気がする。 


「リビングで詩織さんがあんなことを言うからでしょ。俺とえっちするとかどうとか」

「質問しただけでしょー? やったことないこと、で思いついたのがそれだったんだもの」


 そこで詩織さんは不満そうに唇を尖らせた。


「……まさか、ハルくんに速攻でフラれるなんて思わなかったなー」

「ふってません。断っただけです」


 ほんの30分前まで、俺と詩織さんはリビングで『アンセム×コード』を鑑賞し、とりとめのない会話を続けていた。


 そして詩織さんから「私とえっちしてみる?」と問われた俺は――鉄の意思で断わったのだった。

 

「二度とあんなこと言わないでください。こっちの身が持ちません」

「はいはい、わかってますよ」


 詩織さんはケラケラと笑った。


「だから、代案を出したでしょ? 『ハルくんの部屋を見せて』って」

「……まぁ、それで詩織さんの気が済むならいいですけど」


 そう。詩織さんが『やったことないことをやる』で提案したのがこれだった。

 

 俺の部屋を見る。


 正直見るものなんてないし、夜も遅いし、恥ずかしかったから断りたかったのだが、「ハルくんは私の部屋を見てるのにズルい!」と押し切られてしまった。


 ズルいもなにも、前回は詩織さんのほうから誘ってきたんだと思うけど。


「それにしても、ハルくんの部屋。面白いモノがいっぱいあるなぁ。プラモ好きなので?」

「……休みの日にたまに作ってるんです。いいヒマつぶしになるんで」

「このハンドグリップは筋トレ用?」

「勉強の片手間にやると便利なんです」

「本棚、参考書がたくさん並んでるね」

「来年、受験生ですから」

「えっちな本はベッドの下?」

「そんなものはないです!」


 俺は電子で購入する派である。

 薄い本もR18は買わないので実物はない。


「なーんだ、ないんだ」

 

 と詩織さんは心底残念そうにつぶやいた。

 そのままベッドに倒れ込む。

 しばらく仰向けに寝ていたが、そのままごろりとうつ伏せの格好に転がった。

 

「……このベッド、ハルくんの匂いがするね」

「当たり前でしょ」

「そうだね。ふふふ」


 そう言って、詩織さんは掛布団に顔を押し付けた。

 やりたい放題か、この人。


 俺はベッドから視線を逸らし、平常心を保とうとする。

 だんだん苛立ちが募り始める。こちらの気も知らないで、あまりに無防備にふるまう詩織さんに腹が立っていた。


 この人はどんな気持ちで俺に「えっちしよう」なんて言ったのだろう。

 俺がどんな気持ちで誘いを断ったのか、この人はわかってるのだろうか。


 詩織さんが好きだ。好きな相手とはえっちしたい。

 どエロイことはいろいろやりたい。だけど、詩織さんの身体に触れる権利が俺にあるとは到底思えない。

 

 たとえ詩織さんの気まぐれで、触れることを許され、どエロイ望みを叶えてもらったとしても、詩織さんの心にどこまで近づけるというのか。


 ひどい夜だ。

 せっかく久しぶりに詩織さんと話して、アニメ鑑賞会をして、部屋で二人っきりになれているのに。


 相変わらず俺は詩織さんのことがわからずにいる。どれだけ詩織さんと言葉を交わしてもわかるのは、この人のことが好きだという自分の気持ちばかりだ。

 だから俺は言葉をかけ続ける。

 

「詩織さん」

「なーに、ハルくん」

「自信、取り戻せました?」

「……わかんない。眠くて、それどころじゃないかもっ」

「ほんとにやりたい放題ですね」

「ハルくんは眠くないの?」

「……疲れてはいるけど、目が冴えちゃって」

「それは大変だ。子守歌をうたってあげようか?」

「小さい子じゃないんだから」

「でも昔はよく歌ってあげたよ? まだハルくんがこーんな小さいとき、私のことを、“しーちゃん”って呼んでくれたときにさ」

「まーた年上マウントですか」


 いい加減、昔の記憶を頼りに攻め立てるのはやめてほしい。

 こちらの自我がまだ確立していなかった時期をいじるのはまったくフェアじゃないと思う。

 せめて俺のほうでも反撃になるような記憶があれば――


 ……あれ?


「……この部屋で詩織さん、泣いてたことありますよね?」

「ちょっと、ハルくん。変なこと言わないでよ」

「いや、たしか、あれは……」


 そうだ、思い出した。


 あれはまだ俺が小学校に上がる前。

 当時、姉にべったりだった俺は絵本を読んでもらいたくて、姉の部屋に入った。

 ちょうどそこには姉と詩織さんがいて、絵本を読んでくれないかとせがんだのだが、キレた姉に追い返されてしまった。


 俺はすねて子供部屋に引っ込み、ひとりで遊んでいたところ、詩織さんが声をかけてくれたのだ。


 ――ハルくん。しーちゃんが本、読んであげよっか?


 あの絵本のタイトルは……。

 そうだ。本棚の一番下の列に……。


「ハルくん、なにしてるの?」

「……あ、あったあった。これだ、これ」


 俺は古い絵本を取り出した。


『かいとうシロちゃん』。悪い奴からお宝を盗むちょっとドジな怪盗の猫シロちゃんと、犬の刑事クロさんのドタバタを描いた絵本である。


「懐かしいーーーー! 『かいとうシロちゃん』だーーーーー! まだとってあったんだ!」


 詩織さんも覚えていたようだ。そういえば初めてここに来た日、詩織さん、『かいとうシロちゃん』の話をしてたな。


「詩織さん、読んでみます?」

「いいの! ありがとう!」


 テンションをあげている。目を輝かせて、絵本をめくり始める。


「ちっちゃい頃のハルくん、『かいとうシロちゃん』好きだったよね。何度も読んでってせがまれてさぁ。まだとってあったんだね」

「……なんでですかね。捨てられなくて」

「だけど、この本と私が泣いていたことに、なんの関係があるの?」

「えっ? だって詩織さん、絵本を読みながら泣いてましたよね?」

「……私が?」


 ピンと来ていない顔をしている。

 人の黒歴史は覚えているのに、自分に都合の悪いことはすっかり忘れているらしい。


「泣いてましたよ。なんでこんなに楽しい絵本なのに泣いてるんだろ、って思ったのは覚えてますから」

「そう、だったかな。悲しくなった覚えなんて、ないけど……」


 詩織さんは自分の記憶を確かめるように本をめくる。

 そして唇を動かし、声に出して読んだ。


「……かいとうシロちゃんは、けいじのクロさんに追いつめられます。『くっそー。こんなところでつかまっては、かいとうシロの名がすたる!』『ふっふっふ、かいとうシロ。今日がオマエのネングのオサメドキだ!』」


 よどみない声で、心地よいリズムで文章が読まれる。

 シロちゃんやクロさんを生き生きと演じるのも相まって、情景が目の前に浮かんでくるようだ。


 詩織さんはやっぱりすごい。

 昔も今も変わらない。


 ……昔も?


「『かいとうシロをアナドるな! こんなピンチはカレーにきりぬけるのが、かいとうの生きかた! えい!』『はーっくしょん! はーっくしょん! こ、これは、こしょうバクダン!? き、きさま~!』」


 そうだ。昔もおなじことを思った。

 詩織さんが……、しーちゃんが読んでくれる絵本に引き込まれ、しーちゃんが読む世界にずっと浸っていたいと思った。


「『ヨコクジョウのとおり、ワギュウ大王のオウカンはいただく! さらばにゃん!』『くっそー! まてー! かいとうシロ~!』……」


 だから俺は絵本を読んでくれたしーちゃんをスゴイと思って、讃えたくて、拍手と称賛を送ったのだ。


 ――しーちゃん、すごい! かいとうシロちゃんだった! かいとうシロちゃんで、クロさんけいじだった!


 ――しーちゃん、ご本をよんでよ。しーちゃんがよむお話、もっとききたいな!


 詩織さんの朗読が止まった。

 開いた絵本に視線を落としている。


「……私ね、昔はあんまり自分の喋り方が好きじゃなかったの」


 詩織さんは呟いた。


「子役の癖かな。まわりの空気を読むような話し方になることが多くて。子供って、そういうのにはビンカンでしょ? アサちゃんは庇ってくれたけど、あんまりほかの友達ができなくて、自分に自信が持てなかったの」

「……詩織さんにも自信がない時期があったんですか?」

「そりゃああるよ。負けず嫌いかもしらないけど、自信なんていっつもない」


 でもね、と詩織さんは続ける。


「子役じゃなくなった私の声を、私の演技を、初めて認めてくれた人がいた。……私の演技に、喜んでくれた人がいたっ」


 詩織さんは愛おしそうに絵本を胸に抱きしめる。

 大事な宝物を決して手放しまいとするかのように。


「……私の原点は、ここにあったんだ。物語の中で生きる喜びを、気持ちが伝わる尊さを知っていたから、私はもう一度、舞台に立てた。声優って舞台に立てたんだ」

 

 ポタポタと涙がこぼれ落ちる。

 あの頃とおなじように、詩織さんは泣いていた。


 それは数日前に見せた絶望の涙でも、憤怒の涙でもない。

 

 大切なものを取り戻した、産声の涙だ。

 

「……ハルくん」

「はい」

「私、もう一度、頑張りたい。立ち上がりたい。声優として、いろんなキャラクターたちの人生を演じ続けたい」

「はい」

「……超・超・超・人気声優になるなんて、大見得を切ったけど。やっぱり怖い。自信なんて全然ない。また、いろんな人に死ぬほど迷惑をかける。これから先も、失敗して、転ぶかもしれない」

「はい、はい」

「……それでも、また目指していいのかな。あのマイクスタンドの前に、私は経ってもいいのかな」

「いいに決まってるじゃないですか」


 そう答えると、まるでそうするのが自然であるかのように、俺は詩織さんを抱きしめた。


 両腕から伝わる詩織さんの身体は恐ろしく華奢で、慄くほど柔らかい。思えば、これまで抱きしめられたことはあっても、自分から抱きしめにいったのはこれが初めてな気がする。

 

 しかし迷いはなかった。

 詩織さんは、俺を原点だと言ってくれた。俺は、詩織さんの人生の大事な一部になっていた。それが嬉しくて、だから俺は伝えたかったのだ。


 あなたもまた、俺の大事な一部なのだと。

 あなたは独りではないんだと。


「詩織さんが何度転んでも、俺が手を差し伸べて、あなたを起き上がらせます」

「うん」

「詩織さんが何度大事なことを忘れても、俺が何度だって思い出させます」

「うん、うん」

「だから、恐れず進んでくださいよ。俺は、あなたの、絹田詩織のメイトなんですから」

「ハルくん……」


 俺の腕の中で、詩織さんはこちらに寄りかかった。顔を胸に埋めているので、詩織さんがいまどんな表情をしているかわからない。

 その代わり、密着した胸元から激しい心臓の鼓動が伝わってきた。


 前に抱きしめられたときに聴いた鼓動よりも熱さを感じる。

 俺の心臓もきっとおなじリズムを刻んでいる。

 

 俺たちのあいだに言葉はいらなかった。

 肉体のつながりすらも必要なかった。


 ただ、お互いの鼓動を感じているいまこのときが永遠になることだけを、ひたすら願い続けた。

 

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