第5話 姉の親友は、めっぽうお酒に××い。

 姉が帰宅してほどなく、宴会が始まった。


「うーん! まろやかな口当たり。香りもすっごいねー!」

「だろ? しかも熟成7年の古酒。香り豊かなよ、

「ほほー。それはそれは。お宝だねぇ」


 詩織さんはグラスの泡盛を口にしながら、ゆらゆらと手をゆらす。

 そのたびにグラスの中に沈んだ氷塊がカランと小気味よい音を立てた。

 楽しそうだな、詩織さん。

 酒盛りを交わす女子二人を尻目に、俺はちびりちびりとウーロン茶を飲む。


 お酒ってなにが美味しいんだろ?

 端から見て誰かが酔っぱらっている姿というのはみっともない。

 アルコールに対する理性の敗北ではないかとも思う。


 しかし姉も詩織さんも、氷の入ったグラスに泡盛を注ぎ、時にオリオンビールの缶を空けながら、楽しげに歓談している。

 すでにテーブルの上には空き缶が4本、一升瓶も半分まで減っている。

 

「アサちゃんは悪い医者になりそうだね。お酒にばっかり詳しくなって」

「ハァ? 酒の味知らずして、いい医者になんてなれるわけないだろ。酒で命を落とす奴がどれだけいると思ってんだ」

「なるほど。つまり万病の元を知るために、アサちゃんは酒を飲んでいると?」

「そのとーり! わかってるじゃねぇか」

「すごーい。さすがアサちゃん!」


 ふふふふ、と上気した顔で笑い合う20代女子の二人。

 しかし俺は呟かずにいられない。


「姉さんの志望、小児科だろ」

「なんか言ったか?」

「ナンデモナイデス」


 フン、と姉は鼻を鳴らし、グラスを呷った。


「で? どーなんだよ、お前ら」

「どうって、なにが?」

「共同生活。上手くやってけそーなん?」


 そーなん? じゃねーよ。今回の元凶の癖に。


「……詩織さんに失礼なことはしないから大丈夫だよ」

「ホントか~~? お前、昔から詩織の前だとすーぐデレデレするからな~~」

「デレデレなんかしてない。してたとしても、昔の話だ」

「なにカッコつけてんだよ。しーちゃん、しーちゃんって泣きついてたくせに」

「だから昔の話だっ」


 年長者って、すぐ人の幼少期でマウントを取ろうとするよな。

 黒歴史をいじるのはやめていただきたい。


 ちなみにしーちゃんというのは、俺が幼かった頃に使っていた詩織さんへの呼び方である。


 さすがにいまは畏れ多くて、とてもそんな呼び方はできない。


「詩織も気をつけろー。コイツに変なことされたら、すぐ言えよなー」

「んー?」


 詩織さんは飲み干したグラスを片手に揺らしている。

 溶けて小さくなった氷をカラカラと転がし続けていた。

 心なしか目が潤んでいる。


「詩織、聞いてる?」

「うーん、聞いてるー。聞いてるよぉー」


 返事をする詩織さんの声は軽やかで、宙に舞うたんぽぽの綿毛のようだった。

 俺と姉はちらりと視線を交わし合う。

 たぶん俺たちはおなじ確信を抱いている。


 そんな千川姉弟の視線などどこ吹く風で、詩織さんは謡うような調子で続けた。


「ハルくんはー、変なことなんてしないもーん。いい子だもーん。私のことだって受け入れてくれたもーん」


 うへへへ、と締まりのない笑顔を浮かべた。

 なんだ、このカワイイ生き物。


 全然いつもの詩織さんじゃない。

 完全にできあがっていらっしゃる。


「そうですね。ありがとうございます。詩織さん、一旦ソファ行きます?」

「んー?」


 急に詩織さんはぐぐっとにじり寄り、じーっと俺の顔を睨む。

 なんだろうと思っていると、突然両頬をつままれた。


「ひ、ひほいはん!?」

「詩織さん、じゃないでしょー。私を呼ぶときはー、しーちゃんでしょー?」


 詩織さんは両手で俺の頬をつかむと、ぐにぐにと指先で揉み始める。

 力加減はしてくれているので痛くはない。

 ただ、幼児に対する可愛がり方をされているようでこそばゆい。


「あおー、ひほいはん。はあひへほあえはふは?」

「んー? なに言ってるか全然わかんなーい」

「や~あ~ら~」


 俺は詩織さんの細い手首を掴んだ。

 手中に伝わる華奢な感覚に慄くも、決して手折れないように、ゆっくりと頬から詩織さんの手を引きはがす。


「もう子供じゃないので、こういうことはやめてください」


 たとえ酔っていようと伝えるべきところはしっかり伝えないと。

 どうも詩織さんの中の俺は、小学校低学年のクソガキ時代からアップデートされていないらしい。


「むー。大人ぶっちゃってー。まだお酒も飲めないくせにー」

「酒に飲まれる大人よりはマシですよ」

「ほほー。ハルくんも言うねぇ~」


 ニヤニヤとおかしそうに詩織さんは笑う。

 なんだろう、と思っていると、ふたたび詩織さんは俺と距離を詰めてくる。

 俺の耳元に顔を近づけ、小声でささやいた。


「でも、こういうのには弱いよね?」


 言うや否や、ふーっと耳元に息を吹きかける。

 耳が灼けるかと思った。

 酒気が混ざった吐息が耳道を満たす。

 ツンとした大人の匂いが鼻の奥から香ってきて、一瞬頭がくらっとなる。

 

 思わず飛びのくと、詩織さんは我が意を得たりと目を細める。


「ハルくん、昔から耳が弱いよねー。その反応も変わんないなー」

「やっ、だっ、そっ、あっ!」

「そっかー、そっかー。そんなに耳がいいですかー。じゃあ、お次は~~――」

「はーい、そこまでにしような」

 

 いつのまにか立ち上がっていた姉が詩織さんの頭を掴む。

 姉はちょうど後頭部のあたりに両手を乗せ、親指をうなじのあたりに添えていた。


「ほーら、リラックス。リラックスなー、詩織―」

「わー……、きもちいー……」


 すーっと姉は上から下へ流れるように両手を下ろしていく。

 すると詩織さんは急に眼をうとうととさせていった。


 姉が二度、三度とおなじ仕草をするうち、詩織さんはついに両の瞼を閉じ、すーすーと寝息を立てた。


「姉さん、なにしたの?」

「首のツボを押して緊張を解いただけだよ。こうするとすぐ落ちるから、コイツ」


 自前の玩具を自慢する子供みたいな笑みを浮かべて、姉は詩織さんを指さす。

 長い睫毛を伏せ、眠っている詩織さんはとても安らかな顔をしていた。


「どうしよう。朝までこのままかな?」

「ソファで寝かせてやろう。運ぶの手伝え」


 だらんと垂れた詩織さんの左腕を俺が、右腕を姉が取る。

 どうにか詩織さんを立ち上がらせて、リビングにあるL字型ソファまで運ぶ。

 横たわった詩織さんはL字型ソファの上で自然と丸くなっていた。

 

 いつかネットの動画で見たソファで気持ちよさそうに寝転がる猫の姿を思い出す。


「あーあ。気持ちよさそうに寝てんなー」


 姉は呆れたように言いながら、詩織さんに薄手のブランケットをかける。


 そしていつもの不機嫌そうな表情で、詩織さんの頬を人差し指で突いた。

 優しく突かれた頬がやわらかそうに弾む。


「詩織さんって、いつもこんなにお酒弱いの?」

「弱いは弱いな。普段は酔いつぶれたりしないけど」

「今日はめちゃくちゃ酔ってるじゃん」

「あたしがいるからな。あたしとサシで飲む以外には酔わないし」

「なんでドヤ顔?」


 というか姉と詩織さん、サシで飲んだりもするのか。

 そりゃそうか、親友だしな。

 

 こんなふうに酔っている詩織さんを初めて見た。

 そもそも俺が知っているのは、この家に遊びに来ていた頃の詩織さんの姿だけで、詩織さんがどんな人なのか、なにもわかっていないのだと思う。


 声優をやっていたことも、つい数時間前まで知らなかったのだから。


「姉さん」

「なに?」

「詩織さんは、なんで声優を休業することになったの?」


 姉は詩織さんの頬をつくのを止めた。

 即断即決が信条の姉にしては珍しく、なんと答えようか迷っているように見えた。


「……詩織からどこまで聞いた?」

「霧山シオンだっていうのは聞いた。休業中の人気声優なのも知ってる」


 そうか、と姉は遠くを眺めるように目を細める。

 それからカーテンが引かれた掃き出し窓を親指で指差した。


「ちょっと付き合えよ。話がしたい」

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