4章 笑顔の裏側⑤


 日中も夜間も院内をパトロールしつつ、医院長の治療が進むのを待つこと一週間。

 その間も名前を呼ばれてうっかり反応してしまう者、そもそもその決まりに従う気のない者たちが被害に遭い、精神科は満床となってしまった。


「医院長、薬が効いてきて安定してますよ。まだ、霊病のこともありますから診断はされていませんが、自分が病気であるかもしれないということも自覚するようになったので、今なら落ち着いて話ができる」


 一叶とエリクは巡回とお見舞いがてら、精神科病棟へやってきていた。牟呂の報告を聞いたエリクは、ほっとしたように頬を緩める。


「ありがとうございます、牟呂先生」


「いや、医院長は妄想症状もあったし、私の見立てでは統合失調症だと考えていたんだけどね、これが実際に見えてるとなると、改めなくてはいけない」


 霊の存在を肯定するような牟呂の物言いに、一叶は驚いた。


「牟呂先生は、霊の存在を信じてるんですか?」


 一叶の問いに、牟呂はふっと笑う。


「私は霊の類は信じていなかったんだが、連日、おかしくなった看護師や患者がうちの病棟に入院してくる。今、院内で奇妙なことが起きているのは間違いない。だから、きみたち霊病科の意見にも耳を傾けたいんだ」


 一叶とエリクは顔を見合わせ、柔軟な考え方ができる人なのだなと牟呂を見つめた。


「医院長が見ているものが妄想でなくて現実なら、そのストレス源を取り除くことがいちばんの薬だ。だから、きみたちが答えを出したら、私にも聞かせてほしい」


「はい……といっても、医院長の精神状態が安定することで、〝それ〟は消えるので、今は眠れないとき、不安なときに症状に合わせた薬物治療をしていただければと」


 曖昧な対応策しか言えなくてすみません、と一叶は肩を竦めた。


「わかった。その通りにしてみよう。それから張り紙の決まりを守るように口酸っぱく皆にも伝えるよ。これ以上、患者が増えたら大変だ」


 牟呂は苦笑しながら首を窄めた。

 ナースステーションの前で牟呂と別れたあと、一叶はエリクと共に医院長の病室を訪れた。


「母さん」


 エリクが呼びかけると、医院長はゆっくりと振り返る。


「エリク……あなた、病院内で好き勝手してるみたいね」


「ご、ごめん。でも、こうしないと……」


「わかってるわ。手記の通りにしたんでしょう?」


 医院長室や外来で暴れていたのが嘘みたいに、医院長は落ち着いていた。


「う、うん。母さんも手記に目を通してたんだね」


「ええ……本当は、私がしなきゃいけないことだったのに、いろいろ手間をかけさせたわね。感謝するわ、エリク」


「え……」


 エリクは罵倒される覚悟でここへ来た。だからか、想像とは違った医院長の反応にきょとんとしている。


「私はね、怖かったのよ。いつ自分に〝それ〟が降りかかってくるのかとね。だから、遠ざけることに躍起になって、思えばもうその頃には、私は〝それ〟に侵されていたのかもしれない」


 這い寄ってくる恐怖絡みを隠すように、医院長は自分の身体を抱きしめる。

 エリクはベッドサイドにしゃがみ、医院長の手に自分の手を重ねた。


「母さん、僕が守るよ」


「え?」


「僕は霊病医だよ? これまで恐ろしい目にも、たくさん遭ってきたから、結構鍛えられてると思うんだ」


 だから任せてよ、とエリクは笑みを浮かべる。


「母さんが今の地位に着くためにどれだけ頑張ってきたか、ずっとそばで見てきたから知ってる。母さんが早く復帰できるように、母さんのことも病院のことも守る。だから母さんは、自分の病気を治すのが今の仕事」


「エリク……あなた本当に、私に似てないわよね。私が仕事でピリピリしてることが多かったから、あなたはよく空気を読んで、人も場も和ませようとする」


 医院長は腕を伸ばすと、エリクの頭を撫でた。


 エリクは目を見張り、されるがままになっている。


「よくできた息子だわ。できすぎてて、心配になるくらい」


 医院長はそう言って、一叶に視線を向けた。


「あなたは霊病科の魚住先生よね。先日は見苦しいところを見せたわ」


 一叶は慌てて、手と首を横に振る。


「いえ、そんなことは……っ」


「魚住先生、エリクは霊病科でどうなのかしら? 本当の姿を見せられているのか、心配だわ」


 眉を下げて、真剣に尋ねてきた今の彼女は、鉄壁のような強さを兼ね備えた女医院長ではなく、紛れもないひとりの母親だった。


「確かに……エリクくんは本心を笑顔の裏に隠すのがうまいので、昨日までは騙されてしまってたんですが……」


 エリクを見ると、彼の肩がびくっと跳ねる。


「エリクくんは優しい嘘つきさんだってことがわかったので、もう騙されません」


 身構えていれば、嘘の裏にある心を見落とさずにいられるはずだ。


「それに、突っ込んで聞くと割と早めにボロが出るので、大丈夫です!」


 力説する一叶に、医院長は目を丸くしたが、すぐにぷっと吹き出した。


「あなたような人がエリクのそばにいるなら安心ね。感謝するわ」


 医院長は小さく笑ったのち、憂うように目を伏せる。


「この子にとって霊病科は理解者のいる居場所なのよね。それをなくそうとするなんて、私は自分のことしか考えていなかった。エリクは私のことを考えて、危険を冒しているのに」


「僕、前向きが取り柄だし、母さんが思うほど傷ついてないよ」


(本当に、エリクくんは嘘つきだ)


 仲間を裏切ってるから、仲良くなるのが辛いと言っていたのに。でも、その嘘こそがエリクくんの優しさだ。


「あ、母さん、ごめん。そろそろパトロールに戻る時間だ」


 壁掛けの時計を見て、エリクは立ち上がった。


「そう……エリク、気をつけるのよ」


 エリクは、ぱっと表情を輝かせる。


「うん! 夜も泊まる予定だから、また来るよ!」


 病室を出ると、エリクは喜びを隠しきれないのか、唇をむずむずさせていた。そんなエリクを見て、一叶の口元も自然に緩む。


「お母さん、穏やかな顔をしてたね」


「うん、あの楽になったって顔を見て、改めて思ったよ。母さん、今まで苦しかったんだなって」


 話しながら廊下を歩いていると、


「魚住先生ー、エリク先生ー」


 ふと、ナースステーションのほうから呼び止められ、一叶たちは足を止めた。


「は――」


 返事をして振り返ろうとするエリクの手を、一叶は前を向いたまま強く掴む。


「わっ、うおちゃん?」


 彼は反射的にこちらを振り返った。


「魚住先生ー、エリク先生ー」


 またも振り向きそうになるエリクの手を自分のほうへ引く。


 産毛が逆立つほどの寒気を感じていた。まるで、リピート再生されている自動音声のような声は、ざわめきの中でやけによく通り、浮いている。


 尋常ではない気配を感じ、見たくもないのに視界の端に映るものに意識が向いてしまう。ナースステーションから、こちらをじっと見ている。看護師たちが忙しなく動き回る中、赤い人型のシルエットが微動だにせずに。


 エリクは状況を悟ったのか、息を呑んだ。繋いだ手に冷や汗をかきながら、一叶の手を強く握り返す。


「うわ……こんな感じでやられたら、回避するの無理だって」


「……このまま行こう」


 一叶たちはゆっくりと歩きだし、エレベーターを待った。その間も背中に視線を感じ、階数表示板を見上げる。数字が点灯し、どんどん自分たちのいる階に近づいてくるにつれ、焦燥感に襲われた。


(早く……早く早く早く早く……)


 心の中で念じていると、ようやく音を立ててエレベーターが到着する。すぐに中へ乗り込み、振り返らないよう手探りで地下のボタンを押す。


「……っ」


 必死に【閉】ボタンを連打していると、後ろでゆっくりとドアが閉まった。エリクと安堵の息をついたとき――。


 ――ダンッ!


 背後で激しく打ち付けるような音がして、閉まった扉が震えた。一叶とエリクはびくりと肩を震わせる。


『見・エ・テ・ル・ク・セ・ニ』


 いたぶるように一字一字はっきりと言葉を紡いだ女の声。


「いやあああああああああっ」


「うわあああああああああっ」


 一叶とエリクは悲鳴をあげ、海の中で丸太を掴むかの如く必死に互いの腕を取った。そのまま後ずさり、どんっと背中が壁に当たる。ずるずると座り込んで、下がっていくエレベーターの中でひたすら叫んだ。


 ――チーン。

 エレベーターがどこかに到着し、扉が開く。


「あああああああああっ」


 目を開けられずにいると、エリクが叫びながら、一叶を抱え上げた。咄嗟に瞼を持ち上げようとすると、エリクが叫ぶ。


「目、瞑ってて!」


 言われた通りにして、走り出したエリクにしがみつく。やがてバンッと勢いよく扉を開け放つ音がして、弾かれるように目を開けると、そこは霊病科だった。


「な、何事?」


 会議用のテーブル席にいた翔太が、持っていたコーヒーを落としそうになりながら、こちらを見ている。


 どうやらエレベーターは、ちゃんと地下に着いたらしい。ぜえぜえと息を切らしたエリクと顔を見合わせる。そこでようやく、無事を実感することができた。


「た、助かった……っ」


 エリクは一叶を抱えたまま、しゃがみ込む。


「おい、また患者が被害にあったぞ――って、なにしてんだ、お前ら」


 パトロールから戻ってきた和佐が、部屋に入って来るや訝しげに一叶たちを見下ろす。


「あれに会っちゃって。しかも、ナースステーションから。魚住先生、エリク先生って……看護師かと思ったよ。うおちゃんが止めてくれなきゃ、振り返ってた」


「今回は回避できたけど、次も無事でいられるか……」


 意識してなければ、本当にうっかり応えてしまいそうだ。


「俺が会ってきた被害者も、レントゲン室の前で待ってて声かけられて、応えちまったみてえだ」


「皆さん、揃ってますね」


 今度は京紫朗が戻ってきた。彼はそのまま会議用テーブルに向かって行ったので、一叶たちも席に着く。


「被害者数も増えてきました。この病院に来ると呪われる、そんな噂を立てられ、経営不振に陥る可能性もあります。院内のどこでいちばん被害が多いか、統計を取って集中的にパトロールし、対処しましょう」


 京紫朗の指示に、皆が頷く。


「だな、どうしたって俺たちは五人しかいねえんだ。効率よく動くにこしたことはねえ」


「精神科も満床で、牟呂先生も大変そうだったしね」


 エリクの視線がこちらに向き、一叶も「うん」と答える。


「そういえば、お母さんの様子はどうだった?」


 翔太が尋ねると、エリクの顔に笑みが浮かんだ。


「調子よさそうだった」


 その答えを聞いて、皆が柔和な顔になる。


「このまま、何事もなく心穏やかに過ごせればいいんだけど」


 エリクは祈るような声で言い、天井を仰いだ。


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