2章 コードブラック⑨

 春香を立体駐車場の下で待機していた看護師たちに任せ、一叶たちは霊病科に帰ろうと建物に向かって歩き出した。そのとき、翔太のPHSが鳴り、皆が足を止める。


「はい……、え? ……わかり……ました。今から行きます」


 通話を切った翔太は深刻そうな面持ちでこちらに向き直ると、躊躇いがちに言った。


「あの……さ、ちょっと助けてくんない? 病院のエントランスに、あいつ……野原が来てる」


「えっ、央っちのストーカーの?」


 ぎょっとなって目を見張るエリクに、翔太は「うん」とか細い声で答えた。


「身体的な危害がなかったり、家に嫌がらせされるとか、見るからに被害を受けてるって証拠がないと警察に対応してもらうの難しくて……しかも俺、男だから、まともに取り合ってもらえなかったんだ」


「証拠がないと動けないとはいえ、被害に遭っているときに自分でそれを集めるのは、酷なことです。それに窓口で対応した警官も、もっと親身になって話を聞いてくれていれば、と思わずにいられませんね」


 京紫朗は案じるように翔太を見る。


「はい。だから警察に相談しても無駄だって思ってました。でも……逃げるんじゃなくて、もう一度、問題に向き合ってみようと……思う。そのための知恵を貸してほしい」


 翔太は一叶たちに頭を下げる。彼のPHSを持つ手が震えているのに気づき、一叶は静かに近づいて、その手を両手で包むように握った。


「私、高校生の頃、車の免許を取りたいって母に言ったんです。でも母は厳しい人で、医者になる人間が事故を起こすようなことがあっちゃいけない。勉強の時間を削ってまで取る資格じゃないって、突っぱねられてしまって……」


 脈絡のない話に聞こえたのだろう。翔太は不思議そうに首を傾げながらも、耳を傾けてくれている。


「それ以来、余計なことを言うのはやめようって諦め癖がついてしまって……でも、エリクくんにまだ未来はわからないのに、今からもう諦めたって選択肢を捨てちゃうのが、ちょっともったいないって言われて、そうなのかもしれないって」


 自分の名前が出て来るとは思わなかったのか、驚いた様子のエリクと目が合った。そんな彼に一叶は小さく笑みを浮かべながら、翔太に言う。


「だから、前に進もうとしてる央くんを誰よりも応援したい。それがどれだけ難しいことか、知ってるから」


「……っ、うん」


 泣きそうな顔で頷いた翔太に、一叶は笑みを返した。


「特定の人間を尾行してつきまとう。勤務先、行動先で待ち伏せ、その付近をみだりにうろつく、押しかける。これに当てはまる行為は全部ストーカーの証拠になる」


「大王、いくら刑事の弟だからって詳しすぎない?」


 和佐は白衣のポケットに手を突っ込み、そっぽを向いた。


「……兄貴に聞いたんだよ」


「なるほど! 大王も人の子だったってわけだ!」


 言い返さないということは、図星らしい。一叶が立体駐車場の屋上から落ちそうになったときも支えてくれたので、和佐は見た目ほど怖い人ではないのかもしれない。

 和佐は苦々しい表情で、ぶっきらぼうに言う。


「この間、ボンボン共に接触してきた日も併せて、その女がここにいたのは病院の監視カメラに映ってんだろ。それを証拠として突き出せばいい」


「カメラの映像のことは、僕が母さんに頼んでおくから安心して!」


 翔太は「ふたりとも……」と感極まった様子で呟いた。


「もともと警察に相談してたんだろ。警告と禁止命令は出されてんのか?」


 和佐に横目で見られた翔太は「うん」と頷く。


「なら次は、そんな生ぬるい対応じゃなくて、逮捕までいけるかもしれねえぞ」


「うちの従業員を仕事中に呼びつけるって、つまり病院の営業妨害してるわけだし、そっちでも警察呼べるよね!」


 エリクが前のめりに意気込む。


「ああ。ただ、禁止命令に違反してストーカー行為をした場合は、一年以下の懲役または百万円以下の罰金とかって兄貴が言ってた気がすんぞ。ま、初犯かどうかとか、他に器物損壊罪、傷害罪とかが合わさってくっと変わるかもしれねえけど」


 和佐の話を聞いて、京紫朗は険しい表情を浮かべた。


「一年ですか……罰金も少ないですし、安心できませんね。やっぱり治療を受けてもらって再発を防止しないとですね。とはいえ、まともに話を聞ける状況ではないでしょうから、まずは警察に逮捕してもらわないと」


 そう言って、京紫朗はPHSを取り出すとどこかに電話をかけ始める。


「……あ、松芭です。警備室ですか? 警備の者を何人かエントランスに集めていただけますか? 従業員のストーカーの女性が現れたんです。……はい、お願いします」


 PHSを耳から離した京紫朗は、翔太に向き直る。


「警備員を呼んでおきました。万が一なにかあれば、動いてくれるはずです」


「ありがとうございます。皆も」


 涙目で笑った翔太の手を、一叶はそっと引いた。


「行こう」




「翔太!」


 エントランスに行くと、真理が駆け寄ってきた。

 和佐が近づくなとばかりに、翔太の前に立ち塞がる。それを忌々しそうに眺めながらも、和佐の大きな図体に圧倒されてか、真理は足を止めた。

 翔太は和佐の背から出て、真理と対峙する。


「なんでここにいるの」


「なんでって、私たち付き合ってるから」


 苛立ちを押し込んだような息を吐き出し、翔太は地を這うような声で告げる。


「付き合ってる? そんなわけないだろ」


「え……」


「あんたのせいで、地元を離れなきゃいけなくなった。家族も不安にさせたし、俺の人間関係も滅茶苦茶だ。また居場所を失うかもしれないって、ずっと悩んできた。散々人のこと追い詰めておいて、ほんとなに言ってんだよ」


 爆破しそうな憤りを必死に堪えている翔太とは対照的に、真理は「あ、そっか!」と両手を叩き、暗い目を細めてにっこりと笑う。


「それなら、私が翔太の居場所になるよ!」


「……は?」


 翔太は得体の知れないものを前にしたかのように、わずかに後ずさる。

 望まれていないのに、当然のように自分の想いは受け入れられると思っている彼女の存在は、もはや狂気そのものだ。


「だって、ひとりが寂しいんでしょ? だったら私がそばに――」


「俺には側にいてほしい人がもういる! それはあんたじゃない、それだけは絶対だ!」


 今度は真理が「……は?」と笑みを引き攣らせた。


「俺は、俺だけのものだ。あんたがどんなに支配したくても、誰かを縛ることなんてできないんだ! だから、病院に行ってくれ。過去のトラウマに囚われないで、ちゃんと自分の人生を生きてほしい」


「意味……わかんない」


 真理は青ざめ、よろよろと下がる。すると、そばにいた京紫朗が目を凝らすように真理を見た。


「黒と赤……皆、下がってください。彼女の攻撃性が増しているようです」


 翔太の身体の前に腕を出し、京紫朗の後ろに下がらせる。だが翔太も感じ取っていたのか、驚いた様子はない。ただ、緊張の面持ちで彼女の答えを待っている。


 そのときだった、和佐の身体がぴくりと跳ねる。その瞬間、ぞわりと寒気がして、和佐の右腕から黒い靄が立ち上っているのが見えた。


「え……」


 一叶がその光景から目を離せないでいると――。


「てめえ、その鞄になに入れてやがる」


 和佐が凄むと、野原は鞄を隠すように抱えた。すると後ろのほうで「あ、それ一枚くださーい」と誰かに話しかけているエリクの声がした。


 やがて前に出たエリクは、フィルムを通して「えいっ」と瞬きをする。すると青いフラッシュが焚かれ、レントゲンフィルムは青い炎を上げた。


「ママ、手品だ!」


「そ、そうね、でも病院では危ないから真似したら駄目よ?」


 フィルムから上がった炎を見ていた患者やスタッフは驚きながらも、これが念写の力だとは誰も夢にも思っていないようだ。


「えーっと、どれどれ? これは……ナイフ、かな?」


 フィルムに焼きつけられたものを吟味していたエリクは、「え、ナイフ?」と自分で言って驚愕していた。


「……っ、翔太のために尽くしてきたのに、どうして拒否するの? ほんと、意味わかんない!」


 カバンに手を突っ込んだかと思えば、そこから包丁を取り出した。警備員たちが駆け寄ってくるのが見えたが、近くにいた和佐と京紫朗のほうが早かった。反射的に駆け出し、京紫朗が白衣を脱ぐと真理の顔に被せる。視界を奪われて「なんなのよ!」と暴れる真理の腕を和佐が掴んだ。


「やめて!」


「るせえ! こんな物騒なもん、振り回してんじゃねえよ!」


 和佐がナイフをもぎ取った。


「あ、警察ですか? 不審者が出たので、きさらぎ総合病院までお願いします!」


 エリクが通報し、一足遅れてやってきた警備員たちも真理を取り押さえる。


「過去のトラウマに囚われるなってなに? ちゃんと自分の人生を生きてほしいって、意味わかんない……っ」


 キーッと耳を突き刺すように叫ぶ真理に、翔太はぐっと拳を握り締めた。


(頑張れ)


 そう気持ちを込めて翔太の背を押す。彼はこちらを振り向いて、一叶の心を感じ取ったのか、笑みを浮かべながら頷き、確かな足取りで歩き出した。


「野原」


「翔太!」


 名前を呼ばれ、真理は嬉しそうに彼を見上げる。


「意味がわからないなら、わかろうとして。たぶん野原は、わかってるけど、わかってしまうのが怖くて、目を逸らしてるだけだ」


 彼女は家庭環境が悪く、恐らくだが愛情が不足していたゆえに初めて自分を受け入れてくれた翔太に執着してしまったのだろうと、翔太は話していた。彼女は愛されていないという事実を受け入れられないのだ。


「ちゃんと治療して、そうしたらいつか、意味がわかるときが来る」


「どうして……? 私はただ、翔太のそばにいたいだけなのに……」


 到着した警察に連行されていく間も、彼女は壊れた人形のように繰り返す。そんな彼女に目をやりながら、和佐は呆れたように言う。


「懲りねえな」


「ううん、まだ自分では自覚してないけど、理解できてないわけじゃない」


 翔太には彼女の心の動きがわかったのだろう、確信があるような口ぶりだった。


「ちょっと前進したところで、家庭環境が悪いんなら、小池みてえにまた繰り返すかもしれねえだろ」


「そのときは……大王召喚する」


 和佐は「あ?」と顔を顰めて翔太を見下ろした。


「ぶっ、なにそれ最高!」


 ふたりの会話を聞いていたエリクが吹き出し、京紫朗は口元を手で覆いながらも肩を震わせている。一叶もなんとか笑わずにいようと思ったのだが、口元がむずむずして変な顔になっているだろう。

 和佐は「お前ら……」と目を据わらせる。


「もしまた同じことが起こっても、俺はもう平気。だって、ひとりじゃないし。あんたたちがまた出しゃばってきてくれるんでしょ?」


 翔太はそう言って、顔をくしゃっとさせながら笑った。




 事情聴取を受け、霊病科に戻ってこれたのは終業間近だった。

 翔太は疲れた顔で椅子の背もたれに深くもたれる。一叶はそんな彼を横目に、会議用の椅子を部屋の端に並べると、座面に自分の膝かけを敷いた。


「央くん」


 手招きして彼を呼ぶと、不思議そうに近づいてくる。


「ここで少し、目を瞑って休んだらどうかな?」

「え、でも……」

「今日はこのまま夜勤だよね? 時間まで、なにかあれば私が対応するから」


 遠慮している翔太の身体を押して、椅子で作ったベッドに寝かせると、みんなから見えないようにパーティションで遮った。


「魚住……ありがと」


 パーティションから顔を覗かせると、翔太は横になったまま小さく笑っていた。


「ううん、気にしないで。央くんは相手の気持ちがわかりすぎてしまうから、意識して休まないと、こう……どかんっと爆破しちゃうと思うんだ。だから、その……ごめん、うまく言えなくて……」


 項垂れる一叶に、翔太はぷっと吹き出した。


「いや、伝わってるから平気」


 翔太は言葉にしなくても、一叶の気持ちを多く拾い上げてくれるのだろう。けれど、


「でも、苦手だからって、伝えるのを諦めるのは……やめにしたいんだ。今日、野原さんと向き合った央くんみたいに、私も逃げたくない」


 翔太は「そっか」と優しい声音で受け止めてくれた。

 これ以上そばにいたら、翔太が休めないだろう。そう思って一叶が笑みを返し、去ろうとすると、白衣の端を掴まれた。


「ここにいて」


「え?」


「えと……あんたといても疲れないから、平気って意味」


「そ、そう?」


 翔太は照れ臭そうに「ん」と言って、一叶から視線を逸らす。


「わ、わかった」


 頬に熱が集まるのを感じた。他意はない、具合が悪いと、誰しも心細くなるものだ。

 一叶は近くにあった椅子を引っ張ってきて、翔太のそばに腰かける。


「今日は皆さんのチームプレーが光っていました。これでやっと、井上さんも退院できそうですね」


 パーティションの向こうから、京紫朗の声がした。

 和佐は「勘弁してくださいよ」と心底嫌そうに反論する。


「俺は慣れ合う気はありません」


「またまた、そんなこと言って。全力疾走で、立体駐車場に行ったうおちゃんたちのこと追いかけていったくせに」


 エリクが茶化すと、和佐は「うるせー」とばつが悪そうに返した。


「でもさ、あのときなんで立体駐車場に行けなんて言ったの?」


 その問いに答える気はないのか、和佐は黙っている。


「うおちゃんもさ、誠也さんの特徴ズバズバ当ててじゃん? 前は靄状に見えるって言ってなかった?」


 いきなり話を振られ、パーティションの裏で「え? あ……」とあたふたしてしまう。


「靄のときもあるし、ちゃんと人に視えることもあって……あ、でも、最近ははっきり視えることのほうが多い……かも?」


「視ようとしているから、前より霊の存在を認知しやすくなったんでしょう」


 一叶の疑問に京紫朗が答えをくれる。


「霊の正体を紐解いていくと、今まで見えていなかったものが晴れて、その本質が見えてくる。より本来の姿を捉えやすくなるのでしょうね」


 そうかもしれない。誠也も初めは靄状にしか見えなかったが、彼の正体に検討がついたところで靄が晴れ、生前の姿を視ることができた。


「経験を積んでいけば、その速さも上がるはずです」


「力は開花していくってことか……」


 エリクはふむふむと頷き、パーティション越しにこちらを振り返るのが影でわかった。


「あとあと、うおちゃんの霊視って、知りたいことはなんでもわかるの?」


「それはさすがに……うまく説明できないんだけど、その人が経験したことを追体験するときも、視える映像も、受け手の私には選べないんだ。ただ受信するだけっていうか……」


「なんだかラジオみたいだね」


「あ、うん! そんな感じ」


 自分も能力があるからだろうか。皆のそれもどんなものか興味津々らしい。そんなエリクの好奇心は、再び和佐へと向く。 


「大王もなんかときどき、やたら勘がいいときあるよね。これから悪いこと起こるって、わかってるみたい……あ、未来予知? それが大王の力?」


 そのとき、がんっと音がした。慌ててパーティションの向こうを覗くと、和佐がテーブルに拳を落としている。


「詮索すんじゃねえ」


 冷ややかにそう言って、部屋を出ていってしまった。一叶たちを拒絶するように閉まった霊病科の扉を見つめていると、翔太の腕が伸びてきてパーティションをどかした。


「エリク、あんたなに考えてんの」


 上半身を起こし、翔太は訝しむようにエリクを見る。


「なにも? ただ、気になっただけだよ!」


 エリクは苦笑いしながら、顔の前で両手を振った。


「あ、ちょっと僕、母さんのところに行ってくるよ」


 そう言って、慌ただしく席を立ち、部屋の入口まで小走りで向かうと、くるりと振り返って手を振る。


「一日一回、顔を出せって言われてるんだ。そんじゃあね!」


 逃げるように出ていったエリクに呆然とした。


「ど、どうしたんだろうね」


 翔太は無言で扉に鋭い視線を注いでいる。


「央くん?」


「……寝る」


 なにかを振り切るかのように、一叶に背を向けて椅子のベッドの横たわった。


「あ、なら私も……ちょっとお手洗いに……」


「……お節介」


 僅かにこちらを振り返った翔太に、「うっ」と呻きつつも立ち上がる。

 パーティションから出ると、京紫朗は会議用のテーブルについていた京紫朗が一叶を仰ぎ見た。


「水色さん、あなたは水のような人です」


「え?」


「枯れて淀んだ心を潤せる。ですから、迷わずに当たって砕けてきてくださいね」


「は、はい!」


 勢い良く返事をしたあとで、一叶は首を捻る。


(って、あれ? 砕けちゃ駄目なんじゃ……)


 でも今は彼を追いかけなければ、と一叶はドアの取っ手に手をかけた。部屋を出る間際――。


「はいって……」


「ふふ、頭の中が赤鬼くんのことでいっぱいなんですよ、水色さんは」


 やや呆れ気味の翔太と、明らかに父親目線な京紫朗の声が後ろで聞こえた気がした。




(九鬼さん、どこに行っちゃったんだろう)


 きょろきょろしながら廊下を歩いていると、


「なんなんだよ……っ」


 エレベーター横の階段のほうから声がして、そちらに足を向ける。


「俺の邪魔すんな!」


 切羽詰まった和佐の声に反射的に駆け出した。

 和佐は階段前にいた。その右腕から黒い靄が出ており、そばに走り寄る。


「九鬼さん!」


 これは真理がナイフを取り出す前にも見た光景だ。一叶が靄から目を逸らせずにいると、額に脂汗を滲ませた和佐に睨まれる。


「なにが視えてんのか知らねえが……なにも聞くな、俺に関わるな、いいな?」


 彼がなにかに憑かれているのはわかる。それを追求する前に突っぱねられ、一叶はそのまましばらく動くことができなかった。

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