第5話
「起きろ馬鹿」
桃色をした暖かそうな布団を葉太は足でげしげしと蹴ってやった。容赦はない。それでも布団の主は眠りの底にいる。
「おい、牡丹。おいってば」
大きなため息をつき、半分諦めながら牡丹を揺さぶる。牡丹はまだ寝ぼけているようだ。半目を開いてはいるもののなにやらむにゃむにゃと寝言を言っている。
「……起きたらキスしてやるよ」
「本当ですか……?」
牡丹の両目がようやく開かれた。まだ眠いのだろう。まぶたがくっつきそうになっては指でこじ開けている。
「嘘に決まってんだろ」
「なんだ、そうでしたか……」
とろんとした瞳がまたうとうとしだした時。急に牡丹が起き上がった。髪は四方八方、自由な向きへはねている。それも意に介さず牡丹は慌ててあたりを見回す。
「うわ、どうしたんだよ急に。気持ち悪い」
「私ったらどうしましょう!葉太様より遅く起きてしまいました!」
葉太に向かって正座をし、深々と頭を下げる。そんな牡丹に葉太は押され気味だ。
「申し訳ございません葉太様、謝りますから捨てないで」
「いや、俺が勝手に起こしただけだから。あと理人が寄ってくるから静かにしてくれ」
「葉太様、お願いだから捨てないでください」
牡丹は錯乱状態にある。話を聞いてくれやしない。目からぽろぽろ雫がこぼれた。泣かれるのに葉太は弱い。
「あの、今朝の五時ですけど。俺が勝手にお前を起こしたんだってば」
「五時、ですか……?」
一瞬の戸惑いののち、牡丹は自分の状況を理解した。そして、驚愕しながら一言つぶやいた。
「葉太様が朝早くに起きてる……?」
「なんか文句でもあんのか」
信じられないという顔をしている牡丹の頬を葉太は冬の空気で冷えた手でつねってやった。小さな高い声が牡丹から漏れた。
「こんな早朝からどうしたのですか?お買い物が楽しみなのですか?」
「俺は子供か」
ふと牡丹が文机の上をみると、昨晩までなかった細身の銀色のはさみが二つ、そして小さな鏡が置いてあるのに気がついた。文机の下には新聞紙も敷いてある。その視線の先を確認した葉太は、偉そうに腕を組んでボソリとつぶやいた。
「お前のその髪、切ってやろうと思って」
「え?」
「え?とはなんだよ」
牡丹が目線を葉太から外す。
「せっかく葉太様が似合っていると言ってくださったのに」
呆れ。葉太はぽかんとした。馬鹿かこいつ。そう思った。そんな言葉を、ずっと心の中に留めていたのか。なんだか顔が赤くなってきて、自分に困惑した。
「そんなざく切り頭で行けるわけねーだろ」
「そうですか」
「立ち直るの早いな」
なんだか炭酸が抜ける時みたいな感覚になった葉太は文机に牡丹を誘導する。
「え、葉太様が切るんですか」
「大丈夫だって。俺、結構器用だし」
訝しげな目で見てくる牡丹を葉太は無視した。鏡の前にだらしなく座ると、牡丹がちょこんと葉太の前に行儀良く座った。吐息がかかる距離。なんだか葉太は小っ恥ずかしくなってきた。
「あのさ」
葉太は自分より小さなその艶やかな黒髪に話しかけた。肩につくかどうかくらいのざく切り頭は小さく揺れた。
「なんでございましょう?」
跳ねるような声だ。
「……髪切ってごめん」
その謝罪の言葉を言うのは、なかなか葉太にとって屈辱的だった。
「昨日兄弟に電話したら怒られてさ」
返事はない。
「……許してくれない?」
そう言って黙り込むと、しばらくして牡丹が振り向いた。
「葉太様」
へらりと牡丹が笑う。その瞳は真っ直ぐに葉太を見つめてきた。自分の心拍数が上昇したのを葉太は感じた。牡丹の血色のいい唇が開かれる。
「許すわけ、ないじゃないですか」
「……あ、うん」
牡丹の目が細まる。許されると思っていた。そう信じていたのに、予想とは違う返答が返ってきた。適当な返事を返すしかなかった。
「ねえ葉太様。私、葉太様を許しません。だから」
葉太の頬に綺麗な手が伸びてくる。恐怖を感じたが、動けない。金縛りにあったみたいだ。その黒い瞳から目を逸らせない。逃げられない。温かい手が葉太の輪郭をなぞる。
「絶対、私を捨てないでくださいね。私からの、呪いです」
薄く笑みを形作る唇は、恋の色をしている。
「さあ葉太様、牡丹を可愛くしてくださいな」
さっきまでの恍惚としたどこか恐ろしい雰囲気が嘘だったかのように、手を合わせて牡丹は微笑んだ。清純な微笑み。恐ろしさは微塵もない。
「ああ、うん、任せとけ」
ぎこちない笑みを顔に貼り付けながら葉太は答えた。はさみを手に取る。ひんやりと冷たい感触がした。
「ふふ、くすぐったいです」
ちょきちょき、細かく音がする。
「それぐらい我慢しろ」
眼差し鋭く、葉太は黒髪を整えていく。
「はい、葉太様のお嫁さんですから」
ちょきちょき。ぱさり。
「キショい、十四点」
はさみを持ち替える。軽やかで繊細な音が鳴る。どんどん牡丹の表情が晴れやかになっていく。葉太もつられて笑う。
「……ちょっと短くなりすぎたか?」
しまった、という顔を葉太はする。
「いいえ、満足です」
顎先のラインまで切り落とされた髪は毛先を整えられていて、素人にしては綺麗な仕上がりになっていた。だが、どうしても直線的で、素人の限界が見えている。牡丹が毛先を指でいじる。機嫌の良さそうな声だ。
「理人、憤慨するかもな」
「どうしてですか?」
葉太が吹き出しながら言う。
「お揃いじゃないからさ」
「そんな器の小さい子に育てるつもりはありません」
「いやあ、わからんぞ?」
その時、強い風が吹き込んできた。
「お前は都合のいい時に来るな」
白いおかっぱが風に吹かれている。そんな姿を見た葉太は面倒くさそうに手を振った。理人の方はと言うと、二重の瞳が楽しそうに笑っていた。
「おはようございます。……理人」
そう理人を呼ぶ牡丹はまだ照れが残っている。
「おお、牡丹がいめちぇんしておる!」
風と共に牡丹にまとわりついた理人は、なれない横文字を使った。牡丹が嬉しそうに頷く。
「だが、我とあんまり似ておらぬのう。揃いではなくなってしまったのう。ちと寂しい」
「アレよりマシだ」
「そうかのう」
「俺の手にかかればこんなもんよ。どこに出しても恥ずかしくねえよ」
葉太と理人の会話を微笑ましく牡丹は見つめる。愛おしさを纏いながら手は無意識に髪に伸びる。ぱっつん髪だが、確かに言葉通り、なかなか上手い。
「とりあえず、まだ早いですから。葉太様は二度寝してください」
「えーっ」
反応したのは理人だった。頬を膨らませている。焼いた餅みたいだ。
「なんだよ、寝ちゃだめなの。ひどくね?」
「まだなのか?買い物はまだなのか?」
「まだだよ」
口を大きく開けて理人は驚きを表現している。
「いーやーじゃーっ」
「暴れんな!ほこりまみれになるぞ」
理人を葉太が押さえつけると、牡丹が不満げな顔をした。
「お前はなんだよ」
「ちゃんと掃除しております」
牡丹はじとっとした、少し湿った目で訴えている。
「あーもう、面倒くせえ!」
葉太の心の叫びは遥か遠くまで響き渡った。
「そういえば葉太様」
「……なんだよ」
もじもじしながらシャツの袖を引っ張る牡丹を葉太は蔑んだ目で見る。牡丹は顔をほんのり赤くしている。
「今日は言ってくださらないのですか」
「なにをだよ」
牡丹の態度に、なんとなく葉太はむしゃくしゃした。
「……似合ってるって、言ってくださらないのですか」
葉太が目を丸くして牡丹を見る。こいつ、まだ引きずってやがったのか。面倒くさいな、と感じた。
「なに?言ったら満足するの?」
牡丹は黙っている。頭を思いっきり掻いた後、葉太は牡丹の腕を掴んだ。
「あのなあ、よく考えろよ」
苛立ちを隠さず、ビシッと綺麗に整えられた黒髪を指差す。
「俺が切ってやったんだぞ?」
「え、はい」
ぶすっとした愛想のない顔で葉太は言う。
「似合わないわけねーだろ」
牡丹は唖然とした後、にっこりと笑った。
「私の愛する葉太様だから当然ですね」
「なんかやだ、七点」
赤点の少女がほくそ笑んでいるのを、葉太は知らない。
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