ユートピアエスケープ

ドルチェ

第1話

チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。

 声の主は二人を弄ぶように舞い、やがて彼方へと消えていった。



「明日から夏休みだっていうのに、だるいよなぁ」

「そんなことばっかり言ってないで、手を動かす」

 凪と葵は、生徒会長と副会長という立場から、終業式終了後に会場の撤去作業の手伝いに追われていた。

「なー、これ終わったらかき氷でも食いに行こうぜ」

「いいね、それ! よし、決まり。さっさと終わらせるよ」

 二人は折り畳み式のパイプ椅子を舞台袖の収納スペースへと仕舞う。窓がない為、暑さと埃のダブルパンチの中、ご褒美の為黙々と作業を進めていく。

「これで、終了だな」

 長居は無用と、二人は収納スペース横の階段を降りようとして、ある物が目に留まった。

 収納スペースとは逆側の壁際に、大きな板のような物が置かれていた。壁と同色の布を取り払うと、その正体が露わになった。

「これは……鏡?」

 一般的な姿見と比べて、幅が二倍程大きなその鏡の美しさに、葵が目を奪われていると……。

「ユートピアへようこそ」

 どこからか、声が響いた。

「だ、誰?」

 葵は驚いて数歩下がり、凪の後ろから鏡の様子をそっと窺った。

「私です、この鏡です」

 声は当然のようにそう答えた。

「どうか驚かないでください。私を見つけてくれたお礼に素敵なプレゼントを、と思いましてね」

 鏡に映るのは、凪と葵の他には誰もいない。これ以上不気味なことはないと、凪は葵の腕を掴んで足早に階段を駆け下りようとして。

「良きユートピアが訪れんことを」

 宙に浮いた足は、いくら駆けようとも空を切るばかり。二人の姿は瞬く間に、鏡の中へと吸い込まれていった。



「ここはどこだ……?」

「何これ……」

 二人が目を開けると、そこは見渡す限り一面の花畑。色彩豊かな絨毯が広がっていた。

 その景色に見惚れていると、蝶がひらひらと舞い降りてきて、咄嗟に葵が差し出した指の先に着地する。

「無事に辿りつけたようで何よりです」

 それは、紛れもなく目の前の蝶から聞こえてきた声だった。

「色々と理解が追い付いていないようですので、軽くご説明を。

 この世界は、あなた方の住む世界と対になる世界です。

 あなた方の住む世界は通称、ディストピアと呼ばれています。

 学校という枠組みの中で、クラスという小さな箱に詰め込まれて、好きでもない勉強をして。

 大人は、やりたくもない仕事に就いて、毎日働いて。

 そんな辛さや苦しさから解放されるのが、このユートピアなのです」

 エメラルドグリーンの翅を上下に動かしながら、声の主はさらに、こう続けた。

「この世界では、あなた方を縛るものはありません。ここにいる間は、好きなことだけをして過ごすことができるのです」

「なぁ」

 おもむろに、凪は手を挙げた。

「言いたいことは大体分かった。だけど俺達は、早く元の世界に戻りたいんだよ。魅力的なのは良いけど、いきなりこんな所に連れてこられても、困るんだよな」

 そう言って葵に同意を求めると、無言で何度も頷いていた。

「それは心配ご無用。ユートピアにいる限りは、ディストピアでの時間は進みません。

 それに、ディストピアとの往来も可能です。二つの世界をよく見られてから、この世界の良さに気づいて下さい。

 そのコンパクトミラーを覗き込めば、ディストピアへ帰ることができます。ただし、ユートピアへ来る際は、必ず大鏡からでないと来れないのでご注意を。それでは、良きユートピアライフを」



「イチゴ練乳と、宇治抹茶金時ね」

 店員が山盛りのかき氷をテーブルの上に置くと、その衝撃で山頂が少しだけ溶け出し、麓へと流れていった。

「相変わらず、渋いよなお前」

「抹茶の渋さと、あんこの甘さのハーモニーが分からないなんて、お子様だねぇ」

 美味しそうに宇治抹茶金時を頬張る葵の姿を見ながら、イチゴ練乳のかき氷をつつく凪はどこか物憂げだった。

「どうしたの、凪?」

「さっきの話、どう考えても胡散臭すぎると思ってな」

 リズムよく掬っては、口に入れていた葵の手が止まる。

「そりゃあね。不気味だけど」

「本当のところ、どう思ってる?」

「私? 私は、ちょっとだけ興味あるかも」

「お前なぁ……もうちょっと緊張感ってものをだな」

「凪のそういう所、嫌いですー」

 スプーンを向けながら指摘していると、葵はそれをやんわりと払って黙々と食べ進めた。

 凪はその様子に肩を落とし、それ以降はその話題に触れることはなく。目の前のイチゴ練乳に向き合った。



 翌日。二人は、例の大鏡の前にいた。

「じゃあ、行くぞ」

「いざ行かん! ユートピアへ」

 手をつないでいない方の左手と右手が鏡面に軽く触れると、水面のように波紋が広がり、音もなく二人は大鏡の中へと吸い込まれていった。

「到着っと」

「本当に綺麗な景色……ねぇ、写真撮ってよ」

 葵は真っ白なワンピース姿で、花々に挟まれた通路の真ん中で様々なポーズを決めていた。その様子がとても絵になっていて、凪はぐっと心を掴まれた。

「よし、俺が最高の一枚を撮ってやるよ!」

 葵から借りたスマートフォンで、その一瞬一瞬を切り取っていく。これが、自分のスマートフォンだったらどんなに良かったか。後で送ってもらおうか。そんなことを思いながら。

 何枚か撮り終えた所で気になったのか、写真映えを確認しに葵が駆け寄ってきた。

「凪、やるじゃん。カメラマンの才能あるんじゃない? あ、そもそもモデルが良いからか」

 そう言って快活に笑う葵と過ごせる日々をこれからも大切にしていこうと、凪は心に強く誓うのだった。


 


 店のドアを開けると、よく冷えた冷房の風と涼しげな風鈴の音が迎え入れてくれた。

「いらっしゃい」

「冷やし中華二つ!」

 ビシッと店主にピースサインを決めて、葵は二名用のテーブル席に腰を下ろした。

「ねぇねぇ、凪」

「なんだよ」

「これからのことなんだけど」

 その瞳は、期待と希望に満ち溢れていた。

「凪はさ、ユートピアでやりたいこととかないの?」

「そうだな……まぁ特には。お前は?」

「そうねぇ。可愛い洋服着て、おいしいもの食べて、映画見て、それから」

「ストップ。全部いつも通りじゃねぇか」

 すかさず突っ込みを入れると、葵は人差し指を左右に振りながら。

「甘いねぇ、凪さんよ。いつも通りじゃないんだよ。ユートピアなら、全部無制限にそれができるんだよ」

 そんな甘い話、あるわけがない。そう言おうとした凪だったが、運ばれてきた冷やし中華によって遮られ、完全に機会を逸してしまったのだった。



 駅で葵と別れ、玄関前でポケットから鍵を取り出そうとしたところで、スマートフォンが振動した。

「もしもし、葵か。どうした?」

「……」

 返事がない。スピーカー越しに聞こえる音もない。そして、一分程経過したところでようやく。 

「凪、どうしよう」

 震えながらも何とか絞り出したその一言だけで、何らかの異常事態を知らせるには十分だった。

「何かあったのか!?」

 凪は玄関前にバッグを放り投げ、通話中のままで走りだした。

「さっき家に帰ったんだけどさ……そうしたらさ……」

 言葉が途切れ途切れで肝心な部分が聞こえない。焦る気持ちを抑えながら、凪は必死に葵を落ち着かせた。

「まず、お前が今どれだけ危険な状態なのかを教えてくれ。誰かに命を狙われてるとか、後ろをつけられているとか」

「それは大丈夫」

 その一言を聞いてほっとする。エレベーターの狭い箱の中で、凪にも落ち着いて深呼吸できる時間が訪れた。

 しかし次の一言は、そんな時間を一瞬で吹き飛ばした。

「インターホンを押したら、お母さんが出てきて。『あなた、誰? 葵ならもう帰ってきてるわよ』って」



 日はすでに落ち、ぽつぽつと街灯がつき始める頃。葵と凪は駅にほど近い、公園で落ち合った。

「最初はお母さんが出たんだけど、『あなた、誰?』って。二回目に出た時は、『しつこいわね。葵なら今、夕飯食べてるって言ってるでしょ!』って、さらに怒られて。

 最後にもう一度だけ、インターホンを押したの。そうしたら、私そっくりの声で『あなた、誰?』って……」

 そこまで話した葵は、顔を両手で覆って俯いた。

「一体どういうことだ? 葵はここにいるのに、すでに『葵』は家に帰っているって」

 葵の背中を優しくさすりながら、考えを巡らせる。

 今日は、葵と朝から大鏡の向こうの世界、ユートピアに行って葵の写真を撮って、戻ってきた。

 それからは、冷やし中華を食べに行って、夕方まで街で遊んでから駅で別れた。いつも通りのデートだった。強いて違う点を挙げるとすれば。

「そういえば、葵。ユートピアで撮った写真、見せてくれるか?」

 葵は膝の上に置いていたスマートフォンを凪に差し出すと、再び俯いた。

 写真のフォルダには二人で撮った写真がずらりと並び、スクロールしていくと、ユートピアで撮った写真が。

「おい、なんだよこれ」

 ユートピアで撮った写真は何も写っていなかった。否、黒一色に塗りつぶされていた。

「葵……今日、こっちの世界に戻ってきてから写真のフォルダ開いたか?」

「開いてない。家でゆっくり見ようと思って、そのままだよ」

 少しだけ落ち着いたのか、顔を少しだけ上げてそう答える葵は、自身のスマートフォンに保存されている写真を見て、再び俯いた。

「どうしよう、これ……」

「とにかく、もう一回ユートピアに行って調べてみるしかないな。あの蝶に聞いてみようぜ」

「私は嫌だよ。またあの世界に行くなんて」

「気持ちは分かるけど、このままで良いのか? 俺だって行きたくはないけどよ。もう一人の『葵』が現れたことと、ユートピアには何かしら因果関係があるのは間違いないんだ。それを確かめないままじゃ、何も前に進めないぞ。大丈夫、俺がついてるから」

 目の前に差し出されたその手を握って、葵は震えながらも、立ち上がった。

「ありがとう、凪」

「気にするな。とりあえず今日は俺ん家に泊まるか。事情を説明したら、多分大丈夫。家出少女を放っておくほど、俺の両親も薄情じゃない」

 後ろ手でピースサインを作りながら、自宅へ電話を掛ける凪。その背中に頼もしさを感じながら待っていると。

 凪の手からスマートフォンがするりと抜け落ちて、地面へと落下する。拾うことも間に合わず……というより、通話状態のまま固まっていた。違和感を感じつつも、葵はスマートフォンを拾って、回り込む。

 顔面蒼白の凪の正面に。

「どうしたの?」

「悪い、葵。俺ん家にも、すでに『凪』がいるらしい」



 公園の中央にある、ドーム型の遊具の中で一晩を明かした二人はユートピアの入り口へと急いだ。

「準備はいいか」

「うん。正直、ちょっと怖いけど」

「大丈夫。もしもって時は、この鏡でこっちの世界にすぐ戻ってきたら良いさ」

 意を決した二人は、改めて大鏡に向き合い、再びユートピアへと足を運ぶのだった。

「お待ちしておりました。もう来られないのかと」

 二人が到着するのを見越していたかのように、空から蝶が舞い降りてくる。

 葵は指を差し出さずに、凪に絡めた腕をぎゅっと握りながら、鋭い眼差しを向けていた。

「おやおや。そんな怖い顔をして、一体どうされたというのですか?」

「お前に聞きたいことがあるんだ」

 凪は淡々とした口調でそう告げると、蝶は驚いた様子で、翅を一際大きく動かした。

「この世界は一体何なんだ。元の世界に戻ったら、俺と葵がいた。そして、ユートピアで撮った葵の写真は真っ黒になっていた。これはどういうことか説明しろ」

「あなた方はすでにユートピアの住人となったのです。ディストピアで何かが起ころうとも、もうあなた方には一切関係のないことなのですよ」

「なんだと……」

「あなた方がユートピアに一歩足を踏み入れた時点で、ディストピアとの関係は断絶されました。なぜ、ディストピアにそんなに未練があるのか、私には到底理解できませんね。

 理解できないといえば、私からも一つ。なぜ、ユートピアの概念をディストピアへ持ち込んだのですか?

 ユートピアの時間は進むことはありませんが、ディストピアへそれを持ち込むと、そこに齟齬が生まれるのは必然だと思いますが。

 あなた方が、互いに交わってはいけない世界の概念を持ち帰ってしまったことで、世界は狂い始めたのですよ」

 冷や汗が一筋、頬を伝って流れ落ちる。様々な考えが脳内を巡りながらも、凪は努めて冷静であろうとした。

「なら、なぜディストピアに戻ることができた? ディストピアとの関係が断絶されたなら、俺達は戻ることはできないはずだろ? 俺達が二つの世界を行き来すること自体が、タブーに該当するんじゃないのか?」

「ディストピアでの時間が自動的に修正を行っているのでしょう。修正というよりは、レールを切り替えると言った方が分かりやすいですね。もう一人のあなた方はその結果です」

 きちんと答えているようでその実、煙に巻いたような返答に、凪は痺れを切らし、声の限り叫んでいた。

「そんなことはどうでも良いんだよ! 俺達が元の世界……元のディストピアに帰るにはどうすれば良い?」

「此度の修正によって、あなた方が戻られるディストピアは、初めてユートピアに来られた日を延々と繰り返すでしょうね。勿論、もう一人のあなた方がその役目を全うしているわけですが。

 これを機に、ユートピアへの永住を検討されてはいかがです? 見てください、この咲き乱れる花々を。この一輪一輪がユートピアで人生を謳歌した人々の誇らしき姿なのですから」

「え……」

 二人は同時に、言葉を失った。

「どういうことだよ。ユートピアの時間は進まないんじゃなかったのかよ!」

「はい、その通りです。『ユートピアの時間』は進みません。人間の時間は進みますが。

 最期の瞬間にはその姿を花にして、安らかな眠りをお約束いたします」

 一歩、また一歩と後ずさる足取りが重い。今、踏みしめているこの大地に根付くすべての花が、この世界で一生を終えた人々の姿なのだから。

「他に何か聞きたいことは?」

 ぱたぱたと一定のリズムで宙に浮く蝶は、ひらひらと二人の周りを舞いながら、答えを待つ。

「ないようでしたら、私は行きます。御用があれば、いつでもお呼びください」

 興味をなくしたとでも言わんばかりに、蝶は彼方へと飛んでいく。

 二人はその様子を力なく眺めていたが、不意に蝶がその場で滞空し。

「言い忘れていましたが、二つの世界を行き来するのには回数制限がありまして」

 そう前置きを置いてから、

「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。



 ユートピアから戻ってきた二人がコンパクトミラーを確認すると、蓋の部分にはいつの間にか、残り回数が刻まれていた。

「さっきの往来で、一回消費してるってことは……実質残り二回じゃねぇかよ」

「どうしよう……」

 葵は力なく、床にへたり込んだままで、心身ともに疲弊していた。

「葵、立てるか? 取り合えず、街の図書館に行って本や資料を当たってみよう。何もしないよりは、よっぽどマシだ」



「これ、私達が体験していることで、現実に起きているんだよね?」

「信じたくはないけどな。しかし、一体どうすれば……」

 そんな二人が、超常現象を網羅した本と格闘していると、

「あ、副会長じゃん。こんなところで何してんの?」

「生徒会長も一緒なの? あ、もしかして二人でデート?」

 お世辞にも品行方正とは言い難い、二人組の同級生が絡んできた。葵の知り合いなのか少々馴れ馴れしい態度が気になったものの、葵はちらりと二人を見ただけで特に取り合わず、黙々と本に視線を落とした。

「黙ってんじゃねぇよ!」

「何とか言えよ、副会長さんよ!」

 二人は無視されたことに腹を立て、罵詈雑言を浴びせながら葵の髪を引っ張り、持っていた本を取り上げ、放り投げた。

「お前ら、何やってんだ!」

 凪の激昂にも構わず、なおも暴力を振るう二人に拳を振り上げようとして、

「凪、良いから。やめて」

 葵は片手で凪を制し、されるがまま。やがて、騒ぎを聞きつけた司書が仲裁に入り、場は何とか収まった。葵は乱れた服と髪を整えると言って、トイレへと消えていった。



「なんで黙ってたんだよ」

「心配かけたくなかったの……」

 公園のドーム型遊具の中に響く凪の声音はとても優しく、そっと肩を抱き寄せて。

 それに安心したのか、葵は訥々と語り始めた。

「恵と楓とは元友達。恵は凪のことが好きだった。でも私と凪は付き合っていて。その事実を恵に中々打ち明けられないままで。そんな時、他の友達づてにそれを二人が知って」

「だからってあんな仕打ちを……」

「二人を責めないで。私が悪いの。私がもっと早く伝えていれば……」

 その言葉をまるで暗示のように自分に言い聞かせる葵は、その後多くを語らず。

 やがて二人は深い眠りへと落ちていくのだった。



「やあ、『ナギ』」

「待ってたよ、『アオイ』」

 翌日、大鏡の前に、凪と葵が立っていた。二人とも学生服を着用して。

「誰だ、お前ら」

 一歩踏み込んで凪が睨みつけると、学生服姿の葵は怯えた様子で、凪の後ろに隠れた。

「俺は、俺だ」

「私は、私よ」

「それは答えになってない。分かった、質問を変える。俺と葵を『ナギ』と『アオイ』って呼んでたな。あれはどういう意味だ?」

 凪の問いに対して、学生服姿の凪はきょとんとした顔で、さらりとこう答えた。

「あんたらは、いわば残留思念のようなもんなんだよ。この世界には、もう居場所はない」

「てめぇ、ふざけんじゃねぇよ!」

 堪えきれなくなった凪は、学生服姿の自分に掴みかかった。

「暴力はやめといた方がいいぜ。この鏡を割ってしまったら、あんたらはユートピアに行くことすらできなくなるんだからよ」

「さっきから何も喋ってないけど、あんたも何か言ったらどう? それとも、『ナギ』がいないと何もできないの? いつも『ナギ』に守ってもらって、悲劇のヒロイン気取り? そういうのはユートピアでやって頂戴」

「私はそんなの望んでない! 私が我慢すれば、凪には手を出さないって言ってくれたから。だから」

「ならそれで良いんじゃない」

 興が削がれたと言わんばかりに、学生服姿の二人は手をつないで階段を下りていく。

 二人はその様子を黙って見送り、その姿が完全に見えなくなったところで、ユートピアへと旅立った。



「今度こそ腹を括って来られたのですよね?」

「そうだ。腹を括って、この世界を去ることにした」

「は?」

 蝶の羽ばたきはリズムを変えることなく一定で、声だけで懐疑的な雰囲気を醸し出していた。

「このユートピアって世界は、俺も葵もいるべき世界じゃない」

「そうですか。それは残念ですね。ですが、あなた方は一番重要なことをお忘れではありませんか?」

「お前の無駄話に付き合っている暇はないんだ」

「いえ、決して無駄話などではありません。

 そもそも、あなた方はなぜこのユートピアに来ることができたのですか?」

「今更何を言ってるんだ。お前が俺と葵を無理やりこの世界に引っ張りこんだんだろうが」

 それを聞いた蝶は羽ばたくリズムを変え、納得したとでも言わんばかりに、その場でくるりと一周する。

「なるほど。私が感じていた違和感はそれだったのですね」

「一体何を言ってるんだ、お前は」

「ユートピアに来れるのは、ディストピアで酷く辛い思いをした人間だけなのですよ。

 私の触角は、そういった人間に敏感に反応するようになっておりまして。それを救済するのが、私の役目なのです。

 あなたは例外ではありますが、一緒に来れば葵さんと幸せに暮らせると思いまして」

 両手の拳を震わせながら、目の前の蝶と対峙する凪にしがみつくようにして、葵は静かに話を聞いていた。

 その腕に少しだけ力を込めると、不意に凪が葵に視線を落としてくる。表情だけで「任せろ」と言って、再び目の前の蝶に向かい合った凪の手を、葵は優しく包み込んだ。

「ディストピアがいくら絶望にまみれてても、そこには希望もある。

 一筋光が差し込む隙間があれば、何度でもやり直せる」

「そんな隙間すら、ディストピアでは塗りつぶされると言うのに、ですか? 現にここにいる人々の数がそれを証明しています」

「ここにいる人達を否定したりはしない。それも一つの選択だから。でも、私は違う。もう、迷わない」

 葵は、凪を杖代わりに立ち上がる。そして、己の決意表明を口にした。

「まだまだ長い人生。辛いことも苦しいこともきっと沢山ある。

 その度に逃げてたら、ユートピアに縋ってたら、自分という存在がなくなってしまうから。

 私は私を守るためにユートピアを否定する!」

 強く言い放ったその言葉に、凪も同意するようにその手を強く握りしめる。

「そうですか、残念ですね。自ら自由を放棄してしまうとは。別に私は、止めたりしませんのでご自由に」

 興味をなくした蝶は二人に背を向け、次のターゲットを求めて彼方へと消えていく。

「さて、これからどうするか……」

「ディストピアに帰ってから、大鏡を破壊するのは?」

「それは勿論だけど……あ」

 凪はぽんと手を叩いて、葵にとある作戦を提示するのだった。



 翌日。二人は、学生服姿の凪と葵の登場を、舞台袖の緞帳に隠れて待っていた。

「時間は……もうそろそろだが」

「本当に来るの?」

「あいつらが本当に、ディストピアの俺達になったのなら、必ずあの時間に現れるはずだ」

 しばらくすると、凪の読み通り終業式の片付けを終えた、制服姿の二人が現れた。

「待ってたよ」

「何の用だ? ってかまた戻ってきたのかよ」

「ああ、ユートピアとおさらばしてきた」

「何言ってるのあなた? 二つの世界を行き来しすぎて頭おかしくなっちゃった?」

「この状況が理解できないあなた達こそ、頭おかしくなっちゃったんじゃないの?」

 制服姿の葵は激昂し掴みかかろうとするが、葵はそれをひらりと躱し、態勢を崩した制服姿の葵を、大鏡へと押し付けた。

「てめぇ、何やってんだ!」

 制服姿の凪は、それを助けようと手を伸ばしたところで、同じくその体を押し付けられた。

「お前にプレゼントだ。このコンパクトミラーは、ユートピアからディストピアに戻って来れるようにするための鏡なんだよ」

「でもね、もう私達には必要ないの。あと一回だけ使えるから、良かったら一度行ってみたらどうかしら? 『アオイ』さん」

「きっと素敵な景色が見れると思うぜ、『ナギ』君」

 凪と葵は、それぞれの制服のポケットにコンパクトミラーをねじ込むと、全力で大鏡へと押し付ける。

「そんなことしたって無駄だぜ。俺達がユートピアに行くことはないんだから……な?」

 制服姿の二人の動揺と、凪と葵のにやりと笑う表情は同時だった。

 波打つ鏡面は、少しずつ制服姿の二人を飲み込み、やがて完全に見えなくなった。

「よし、これで万事解決だな」

「うん。でも二人に説明しなくても良かったの?」

「ユートピアで実感するんじゃないか? 俺達が『本物』になったから、こっちの世界に戻ってきたとしても、存在できないってさ。

 それより、葵こそよかったのかよ。ラストチャンスだったのに」

「ラストチャンスは、あの二人にあげようと思って。戻って来るかもしれないし。いや、あの二人なら絶対戻ってくるな」

「じゃあ、やめとくか?」

「なんで? 私、最近ストレス溜まってて、この怒りを無性に何かにぶつけたい気分なんだけど」

「だよな。じゃ、派手にやりますか」

「先生に怒られた時の言い訳は考えてる?」

「先のことは考えない主義なんだ」

 二人は少しだけ笑い合って、手にしたパイプ椅子で大鏡を破壊するのだった。



 しばらくして、物音を聞きつけた教師が駆け付けた。二人はこってりと絞られ、代わりの大鏡の代金を折半し、夏休みは奉仕活動の毎日となった。

 そして、新学期初日。

「今日は転校生を紹介するぞ」

 担任に促され、転校生が教室に入ってくる。その二人を見るなり、凪と葵は顔を見合わせて。

「やっぱりね」

 と、揃って口にするのだった。

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ユートピアエスケープ ドルチェ @dolce2411

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