真夜中の迷い月

二度東端

真夜中の迷い月

 時刻は、日が変わった辺りだろう。

 突然の訪問者だった。

 自室の戸を開けた時の僕の心境は、とあるアニメのセリフとまさにシンクロしていた。 

 こんな時、どんな顔すればいいかわからないの――と。

 

 そこには月がいた。とても綺麗な月が。

 と同時に――ここにいてはいけない、存在してはいけない月でもあった。


 月と言っても、あの月ではない。月と書いてルナと読ませる彼女は、三波月という名前を持っていて、学生で、相当なお嬢様で、同じゼミに所属し、何の因果によるかはわからないが僕の彼女である。問題は、最後の一点にある。

 彼女が真夜中に彼氏の家を訪れる――というシチュエーション自体、一般的には極端に珍しいものではあるまい。僕の生涯においては例がなかったが、その点は悲しいので触れない。

 とはいえ、現実に彼女――月が玄関先に立っているのだから、その例は更新されたといっても良いのだろう。その点では嬉しさが押し寄せてもおかしくはないと感覚的には理解しているが、一向に押し寄せないのは本能的なものだろう。防衛本能というやつか。

 「うっ……寒い」

 月は玄関先でそう呟いた。北海道はこの時期でも、まだまだ冬である。この一瞬、様々な葛藤があったが、僕は月を自室へと迎え入れた。


 灯油ストーブのスイッチを入れ、部屋が暖まるまで、その場しのぎのコタツにも電源を投入する。案内もしていないが、月はコタツへと潜り込んだ。僕も寒さに耐えかね、同じく潜り込む。否応なく僕と月は向かい合う形になった。時計に目をやると、午前2時を指し示したまま止まっている。そう言えば、電池を交換しようと思っていたのだった。

 僕が意識を現実から逸らそうとしているのを見透かしたのか、月がコタツをポンと叩いて言った。

 「来ちゃった」

 現在完了形でそう報告されても、僕はなんと答えていいのかわからなかった。笑えばいいと思うよ、という声が頭の中をよぎった。


 月が単なるキラキラネームの大学生ではないと気づいたのは、付き合う前だった。ゼミ歓コンパ後の2次会で、白崎教授から聞いた話だ。月の父親は天文学――特に太陽の研究で有名な人らしく、母も地質学の権威らしい。太陽を研究する自分と、地球を研究する妻の間の子供だから、月と名付けたそうだ。子供は母に近いから、という意味もあったらしい。

 どうしてそれを白崎教授が知っているのかを問うと、この界隈だと有名な話だと言う。

 「自分のゼミにあの子が来るのは、結構なプレッシャーだよね……まぁ、国立大学で天文学と言えばこの学校ということもあるけど」――と、酒に乗せた本音も付け加えつつ話してくれた。当の本人が2次会にはいなかったこともあるだろう。

 当時の僕はなるほど――と聞き流しているだけであった。よりとんでもないプレッシャーが自分に向かうことなど、この時は知る由もなかった。


 大学2年の夏だった。学校祭のゼミ展示をきっかけに、あれよあれよという感じで僕達は付き合うことになった。打ち上げで飲んだ酒の勢いもあったので顛末はよく覚えていないのが正直なところだが、酒を飲んでいなかった月が事細かに事態を説明してくれたので、おおよその事態は理解した。

 付き合ってから1週間ほど経った、夏休み前のゼミだったように思う。僕は、白崎教授に呼び出された。研究室に入ると、見慣れない男女が居た。二人は僕を真剣な眼差しで見ていた。

 「はじめまして。三波です、こちらは妻」

 そこで何かを察した僕は白崎教授に目をやったが、バツの悪そうな顔をするだけだった。そこから約2時間に渡る取り調べを経て、僕は月が生粋のお嬢様であることを知り、厳重に守られていることを知り、五寸釘を上から下から刺されたような精神状態になった。月に何かをしたら、それこそリアルな釘で刺されかねない事態も、この時察した。


 それからおよそ半年が経って、今。

 確実に門限をぶち抜いている時間帯に、一人で、彼氏の家に来ている。

 この状況は明らかにイレギュラーだった。僕の精神状態も、同時に。


 とりあえず、コタツの電源を切って、お茶を淹れた。普段はティーパックのお茶を淹れるだけだったが、この状況を整理する時間を稼ぐために、この部屋に住んで以来一度も使うことのなかった急須を取り出した。これもまた、いつ買ったかも記憶にない茶葉を入れる。ポットからお湯が流れる音が、静かな部屋に響いていた。

 結局稼いだ時間は何にも換えられることはなく、僕はただお茶を出すしかできなかったのだけれど。


 「どうしたの? 眠いの?」

 月が僕に問いかける。意識が遠のいている可能性はあったが、眠くはなかった。

 「まぁ、時間が時間だしね」

 「そう、じゃあ寝る?」

 僕は口に含んでいたお茶を吹き出しかけた。既のところで飲み込んだが、よろしくない気道に分散したらしく、むせる他になかった。


 「大丈夫?」

 「大丈夫だけど……大丈夫ではない」

 「AだけどAではない――論理学だと、矛盾だね」

 「論理学だと、大丈夫ではないね。その……門限とか」

 論理学ではなく単に家庭のルールであったが、三波家の門限はこの世の殆どの論理よりは優先されるべき事項だろう。人々の生活――特に僕の学生生活を守るためには。


 「門限は守ったよ。10時には帰ったもん」

 「なぜまた出てきたの」

 月はコタツから両手を出して、真横に広げた。

 「日が変わったからセーフだよ」

 「よりアウトになってるね」

 僕は溜息をついた。虚ろな目になっているのが自分でもわかったが、月はそんな僕の目を真っ直ぐに見つめていた。

 「ねぇ月、ケータイにお父さんお母さんから鬼のように着信が来てたりしない?」

 「あ、ケータイはたまたま家に忘れてきたの。でも着替えはたまたま持ってきたよ」

 月はニヤニヤしながら僕を見つめた。僕の口は半開きのまま、言葉を繋いだ。


 「ずいぶんとピンポイントな忘却と用意だね。定期はアプリに入ってるはずだけど、家からどうやってここまで来たの」

 僕の家は大学の近くにあったけれど、月は地下鉄で7駅ほど離れた実家から大学に通っているはずだった。

 「歩いて」

 「え?」

 「家から歩いて1時間半ぐらいかな」

 「歩いたの?夜道を」

 「そう、夜道を」

 「一人で?」

 「そう、一人で」

 聞かなければ良かった質問だった。後に僕が非難される材料が増えただけだった。


 その後も脈絡のないやり取りが続いた。

 そうしている間に朝にならないかなと思っていたが、電池が切れていると思われる部屋の時計同様に、全くもって時が進んでいない感じがした。

 僕がゼミの話でもして時間を稼ごうとした瞬間、月が再度コタツをポンと叩いた。

 「とにかく、今日はお泊りしても大丈夫なのです」

 「いや、僕が大丈夫じゃないんだよ」

 思わず本音が出てしまったが、月は臆することなく続けた。

 「両親のことなら大丈夫」

 「僕は、ご両親からその言葉を聞きたいよ」

 「両親を納得させる材料はあります! それは――」

 月は大げさなタメを作って、結論を吐き出したのだった。


 「私は成人したから。20歳。ハッピーバースデー」

 そう言って、月は拍手をした。

 僕は返す言葉がなかった。とりあえず、拍手はしておいた。

 彼女の誕生日を知らなかったという事実に自分でも呆れているのもあるが、彼女の提示した結論が全くもって理に敵っていない事実に直面したからだ。

 「いやいやいや、だから何だって話じゃないか」

 「成人で、つまり大人です」

 月は胸を張って言う。

 「それ、ご両親に予めお伺いとかしてない?」


 「してません。大人だから」


 僕は天を仰ぐほかになかったが、ここで一つの僥倖が射した。

 天を仰いでみて良かったことなんて、一生に一度あるかないかの話だろう。

 部屋の時計の下に掛けてあるカレンダーを見て、僕は一つの可能性を見出した。

 彼女が成人しているという論理でくるのなら、それを打ち負かす一つの可能性に。


 「ところで……話を逸らすようで悪いんだけど、今年はうるう年だったね」


 その瞬間、月の顔色が変わった。これまでのニヤニヤモードから、大学で見せるような真面目な表情に変わった。僕はこのチャンスを活かすほかになかった。

 「つまり、まだ2月だね」

 動きの止まった月を一気に見下ろすように立ち上がり、僕はカレンダーの「29日」を指差した。


 我ながら完璧な反撃だった。そして、演技だった。

 正確には、ただの偶然の産物だったが。


 おそらくだが、壁のカレンダーは去年の2月のカレンダーだろう。もうしばらく、めくった記憶がなかったからだ。つまり、今年はうるう年ではないはず。しかし、月がケータイを忘れてきたという点に一抹の望みを託し、演技による勢いで押し切ることに成功した。成功したかどうかはさておいて、とにかく押し切ることが大事だった。完全に月のペースだった状況を打破できたのは大きい。

 このまま押し切る他にない。僕は月の手を取った。

 「さぁ帰ろう、家まで送るよ」


 その刹那、月が僕の手を払った。

 「えい!」

 月は立ち上がり、カレンダーを破った。

 「やー!」

 その勢いで時計にチョップを入れると、止まっていた時計が何故か動き出した。

 「たー!」

 最後の一撃は壁にあったスイッチに向けられた。

 部屋の電気が消え、月明かりがレースの合間から部屋に差し込んできた。


 急な暗闇に焦点を合わす間もなく、月が距離を詰めてくる。

 

 満月のように大きく、輝いている目で見つめられる。

 僕は何も出来なかった。月はダメ押しをするかのように、ニッコリと笑った。


 笑っている月は、やはり綺麗だった。

 僕は諦め、月をこの手で、少しだけ近づけた。

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真夜中の迷い月 二度東端 @tohtan_tohtan

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