朝と二十面相

大伍

朝と二十面相

最近はあまり見なくなった。昔よく見ていた悪い夢がある。俺はその光芒の中、一人取り残されている。






炎が巻く室内、薄い壁紙が剥がれて黒く焦げ、底黒く焼け落ちた天井の木屑が床に零れ落ちる。肺を切り裂くような匂いと乾き切った熱風が頬を撫でる。家族は何処にいるのだろうか? 俺は燃える床を裸足で、深刻な火傷を負っていることなど忘れて、暗闇を掻き分けて進む。何も見えない。

ガラスの写真立てに、自分が赤ん坊だった頃の写真が飾られていた。母親に抱き抱えられ、父親が母親の肩に手を置き、妹が母と父の間に立っている。何年前の写真だろうか。その棚の上段に火の手が及び、黒く焼かれた板が下の段に落ちている。俺はもう見る影もない食卓の前に立った。キッチンから高く天井に昇る火炎と煙、俺はそれを見つめるしかなかった。家族は?







俺は目を覚ます。掌が真っ黒く、足には感覚が無かった。ベットから下りたとき、両脚にひびが入って切り裂かれそうになるほどの激しい痛みが襲う。俺は耐えられず床に手をつきながらも、自力で立って進む。ここは自分の生家とは違う。白樺の板が成す壁を進む。




ここは診療所であった。俺は灰になる前にあの火事があった家から救い出され、ここに運ばれた。看護婦が俺に水を一杯渡す。俺は思わず喉を鳴らして飲み干そうとしたが、喉が焼けたように痛んで咳き込む。看護婦は子供の自分をなだめるように俺の背を擦った。周りを見渡すと、歳も分からないような頬の痩せこけた男や、疫病に侵されて衰弱しているような老人、深いくまが刻まれ下を俯く女など、多くの患った人々がいた。俺はその光景に絶望さえ覚えてしまった。そして俺と向き合う老人の、医師と見られる男。彼の蓄えた髭と細い目で、表情が上手く読み取れない。しかし老人は、俺の頭に手を置くだけだった。







俺はやがて不自由無く歩けるようになると診療所を出ていく。少ない飯であったが、暖かいスープを飲ませてもらえたのは本当にありがたかった。でも、もうあの診療所には戻りたくないと思う。戻ってはいけないのだ。俺は幼い頃の記憶にある遠い親戚の存在を思い出す。確かその親戚は、自分の家族の家に来た際、父親と口論していたような……。しかし、まだ一人で生きていけない俺に選択しなどありはしないと焦ってしまう。俺は目指す先も分からないまま歩き出した。






俺は遠い親戚の男を見つけた。最初は神に救われたかのような思いであった。しかしその浅い考えが間違いであったことに少しずつ気づかされていく。






俺はその男のもとに来て数日経ったあと、赤、黄、青のきてれつな柄の幕が掛けられた小さな小屋に連れていかれた。中は暗く、幅の広いお立ち台のようなところの上だけ天井が切り抜かれ、上から光が漏れている。俺は男に背中を強く叩かれると、そのお立ち台に立った。前に立ち並ぶ傍観者たちは俺の方に一斉に視線を向ける。



『こいつは一家死んだ親戚からやってきたんだけどよ、見てみろよ! 爛れて落っこちそうな顔、わざわざ俺のところまで見せに来たんだぜ!! おい、変顔でもしてみせろよ!』



会場から起こる笑い。最前列にいた人間が手を叩いて拍手する。後ろの方から訳の分からないような怒号がした。そして俺に瓶や石が投げられた。

遠い親戚から連れて来られたのは街の通りにひっそりとある見世物小屋であった。俺はその日、一日中お立ち台に立たせられた。






『ハハ!! こういうの意外と金になるんだな、見世物小屋の店主に明日も来いよってさ! あいつもコスい商売考えたもんだぜ、ちっちゃい小屋に人集めて小銭一銭もいらない酒に銅貨3枚も値をつけて売れば一笑いするついでにちゃちゃっと買ってくからな』

男が弄ぶ5枚の札が光っている。俺は黙って彼を見ている。

『そうだ、そうだ。物好きってもんがいるからよ、今度連れていかなきゃいけないところがある。それまでいなくなるんじゃねえぞ』

男は俺の肩に手を置く。恐怖を感じるような大きな手だ。俺はその手に捕まれて離してくれない。男の蔑んだ笑みが近くで見える。俺はそれを一度それを睨み付けて見返す。すると男はそれを見て眉を曲げると、俺の頬に強く平手打ちをした。俺は床に転がる。しかし、男は何も言わないで床に手をつく俺を見つめる。





俺は床を這い棚にぶつかるが、ゆっくりと男が距離を詰めてくる。そして男は何も言わず、俺の顔に蹴りを放った。俺は、棚の扉に叩きつけられ、気を失いそうになる。棚の上から灰皿やワインボトルが落ちてくる。それらは俺の頭に当たって床を転がった。俺は力を振り絞って床に手を突こうとする。しかし額を再度蹴り飛ばされる。俺は吹き飛ばされローテーブルの脚にぶつかる。ローテーブルは倒れた。

『死ぬのが怖いか』

手に力が入らない。俺の瞼に水滴がこぼれる。もう頭の中はめちゃくちゃだった。

『じゃあ殺してやるよ』

倒れたローテーブルの先に黒い何かが転がっていた。俺は最後の力を振り絞ってそれを掴むと、男の動きが止まった。誰が見ても分かるそれは拳銃であった。







俺が初めて手をかけたのは、その遠い親戚の男だった。その男は明日、俺のことを男娼にしようとしていた。男の家から逃げた道のりは覚えていない。その日から俺は盗みを働いて食いつないだ。
















遠い記憶の夢だ。もう抜け落ちている情報も多いが、家族を失ったすぐ後のことは余程の恐怖にさらされていたからか、夢に出てきやすい。俺は自分の額を拭って、ベットから起き上がる。ワイシャツを直してネクタイをつけ、スーツを羽織ると、洗面所の窓を見る。ヨーロッパの白人の男の顔がそこにあった。年齢は三十歳ほど、髭もなく、眼には深い青の光彩があり、金髪を後ろに流している。危うく仕掛人のプロファイルを忘れるところであったが、今日から明日の夜にかけて俺はある金融企業の取引先に化ける。明日の宴会の時が満ちた頃合いで重役の男を片付ける手筈であったな。

その前に今日もホテルで詰めっきりで晩餐とは、呑気なもんだ。俺は写真と見比べて実在の彼と相違ないことを確かめる。すると部屋の扉が叩かれた。俺は胸元の拳銃の位置を確かめて扉の方へ向かう。








「もしもし、どなたでしょうか?」

「夜分遅くに申し訳ない、アイソル殿。ガルゴイルです」

取引先のターゲットの部下であり、側近の人物である。警戒はしつつも、俺は気兼ねない笑顔で扉を開けた。

「ああ、どうも。こんな遅くにどうかなさいましたか」

「いえいえ、今日はパーティーに参加いただき感謝の挨拶ではないですが、一本ボトルを、と」

俺はああ、と言い頷く。彼もへりくだるような姿勢で手を合わせているがその酒は見えない。

「お気持ちはありがたい。しかし、先ほどの宴会で酒は溢れるほど飲みまして、今日は気持ちよく眠ろうかなと思っていたところです」

嘘だ。酒を飲んだふりなどいくらでもできる。酔いが回れば殺されるのはこちらだ。

「就寝するところでしたか。それは申し訳ない。ですが、渡せと申し付けられた酒でして」

俺は頷く。彼の目を見てその酒に興味があるような素振りをする。今は彼に気前よくなって帰ってもらおう。

「まあボトルは土産に持ち帰ってもらって結構でございます。ですが、もう一つがございまして」

彼は後ろを見やる。開けた扉で見えなくなっていた方からから紫のドレスを身につけた女性が、ボトルとグラスをトレーに乗せて運んで来た。

「まだ興が冷めきらないでしょう……。今晩はシャンパンでも交わしながらお過ごしになられてはいかがかと」

女は俺に微笑む。丸い瞳であり表情にまだあどけない面影があるが、胸元に大きな丸みがあり引き締まった体をしていた。スラリとした脚だ。桃色の口紅が艶やかであった。

「そういうことでしたか。分かりました」

俺は扉を後ろ手で押さえ、彼女を部屋に通す。頭を俯かせて部屋に入る彼女。彼は後ろ髪を金で縁取られた花柄の髪飾りで留めていた。男は会釈をすると、部屋の前から去っていった。俺は扉を閉める。

「シャンパン、おつぎします」

彼女はベットの脇に立ち、俺の顔を覗き込んだ。揺れる前の下に長いまつげと茶の光彩が揺れる瞳があった。

「いや、結構だ。俺は休むよ」

俺はジャケットを椅子にかけ、ネクタイを緩める。

しかし、その格好のままベットに入りシーツをかぶっても、女はもじもじしたまま困った顔で俺の方を見つめていた。

「あの、じゃあ私は……いいんですか?」

「ああ、好きにしてくれ。帰ってもいいぞ」

女はさらに狼狽うろたえた。そして焦りながらも俺の寝ている目の前に腰を下ろす。そして、流し目で俺に訴えかける。

「……何もせずに帰ると怒られます」

俺は寝返りをうつ。

「お願いです! 今晩は抱いてください」

俺は悩んだ。一抹の不安はあったが、それが果たして危機を招くのかと考えたが可能性は非常に低いと見積もった。

「……じゃあ、お言葉に甘えて」

「わ、分かりました。今脱ぎます」

脱ぎますと言って脱ぐやつが何処にいるかと指摘したくなるところだったが、言う気も起きなかった。彼女のドレスが床にするりと落ちる。純白の肌が露になって俺の方に向き直る。彼女はベットに手を置いて俺に身を寄せた。

「ああ、悪いが電気を消してきてくれないか」

「え、あ……はい」

女は、何故自分に見惚れていないのという疑問が顔に出ていたが、逆にその女の反応は面白かった。俺もワイシャツのボタンを外し始める。











暗い室内の窓から、眠らない都市に灯る明かりが煌びやかに覗いている。俺はそれをぼうっと眺めながら彼女に口淫されていた。

「……どうですか?」

彼女の小さい声を一瞬聞き逃しそうになるが、答えてやる。

「いいんじゃないか」

「どうしてそういう反応しかしないの」

彼女は俺の目を見ながら、裏の筋を上下に舐める。彼女はそれでも精一杯いやらしくしているつもりだった。

「どうして、イかないの? もう何分経ったと思ってるの?」

俺は彼女のその態度がやけに子供っぽく思えて、笑えてくる。

「すまんな、十一でイかされてから、腐っちまってるみたいだ。もう感覚がほとんどない。心配するな、性病じゃない」

「なにそれ! バカみたい」

俺は彼女の咥えている姿をじっと見ていた。別に何の感傷に浸っているわけでもないが、少しだけ彼女に温かさを感じた。

「……あと、お前の髪飾りに仕込んでた毒針回収しておいたからな。こんな目立つところに見せておくなよ」

すると女は顔を上げる。目を向いて、焦燥に駆られていたようだった。

「そんな顔するな。……続けてくれ」

彼女の瞳は震えていた。それを落ち着けることはできないかもしれないが俺は彼女の頭は撫でてやる。

「心配するな。なんとかしてやる」

彼女は少し驚いたようだった。言葉に詰まっているが口を開く。

「……本当に? 私のことアイツらに売らない?」

俺は深く首肯してやる。彼女は強ばった肩を少しずつ下ろしていく。

「信じてくれ。お前を殺すために来たんじゃない」

「……ありがとう」

彼女はフェラチオを続けた。その後何分経ったか分からないが、俺は射精した。











裸のまま、俺と彼女はベットの横に並んで座っている。彼女にシャンパンを勧められたが断った。多分、毒が入っているだろうから。

「有名な殺し屋の“二十面相”って、苦労してきたのね」

「何を他人事みたいに」

彼女はその日で一番の笑顔を見せる。俺もつられて笑う。

「……そうね、私もまだ子供のときから娼婦として売り飛ばされて、こんな殺しの手伝いもさせられてさ」

俺は彼女の白い肌を眺める。健康的で、はつらつとしていて、まだあどけなく感じるその身体が、幾度となく汚されて、また血を浴びてきたのか。俺が考えても来なかった世界だ。俺は自分のことで必死だったのだ。他人を羨みもしてこなかったが、可愛そうとも思わず同情もしてこなかった。

「……それでも私は、このどん底の生活から抜け出す努力なんてしてこなかった。まるで他人の血を吸うひるみたい。今晩のあなたにしたようにね」

彼女の目を見つめる。冷たく寂しい眼がそこにあった。

「だから私はあなたが羨ましい。違う人物として何処にでも行けるあなたが」

彼女は俺の目を見返した。その目は潤んでいるようだった。

「……それはを見てもまだ言える?」

俺は自分の顔に手をかける。顎の下にある境目に指を引っかけ、繊細に造形したシリコンの皮を剥ぎ取る。俺は本来の顔を彼女に露にする。それは少し勇気のいることだったが、この黒く爛れて醜い姿は自分でももう失望していることであった。

「所詮は人を欺いて化かしているだけなんだ。体を重ねているときでもね」

俺は彼女の方を見る。しかし、彼女も俺の方を見つめたままであった。

「……あなたの目って、とても幼いのね。まるで冒険とか、将来の大きな夢に心を踊らせている少年みたい」

嘘だ。俺は見世物小屋に立たされてから自分の容姿が怖かった。今でも怖い、この姿を見た彼女を殺してしまいたいほどに。

「どうして……そんなに私のことを睨むの?」

俺は拳を握りしめるが、震えていた。

「やめてくれ」

「目を閉じて」

言葉が重なる。だが、そのときに俺は彼女からキスをされた。唇が触れ合い、彼女の体温が伝わってくる。

「………………なんで」

言葉を発する間に、彼女が舌を俺の口に入れる。俺の舌の上に彼女の舌先が触れる。少し苦かった。

「それでもあなたは、嘘をつくの?」

俺は涙を流す。止めることができない。

「……俺だって人のことを愛したい」

俺と彼女は深いキスを交わした。温かい体温が全身に伝う。

「君が蛭なら僕の血を吸えばいい」

「でも」

俺は彼女を抱き締めた。

「じゃあ、蛭なんかじゃなくても、吸血鬼だったとしても、なんでもいい。君が僕のそばにいればいい」

彼女は困った顔をする。今の生活と何も見えない未来を見比べて迷う彼女がそこにいた。

「でも、僕は君がいないとだめだ」

彼女は俺を見つめる。俺も彼女に真剣な表情で応えている。

「じゃあ朝になったら私を連れ出して」



















朝の光芒の中、俺は窓の外の木漏れ日を見ていた。隣にはすやすやと眠る純白の肌の彼女がいる。





















◆◆◆


長編も連載しております。お暇であれば、そちらもどうかお読みください



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