42.雪解け

 世界が白銀に染まる頃、雪を解かすほど人々を熱狂させ、喜ばせる出来事があった。

『リジン・キューレ 大規模兼長期間の個展開催! フォラド市立美術館にて』

 この見出しは各新聞に大きく掲載され、国内外から多くのリジンファンがフォラドに殺到した。


「――その立役者がロティアなんて、誇らしいなあ」

「シーッ! 声が大きいよ、フフラン!」

 ロティアは慌ててフフランのくちばしを手で覆った。

「目立ちたくないからわたしのことは公表しないで、ってリジンに頼んだ意味が無いじゃない」

「オイラは未だにもったいないと思ってるけどなあ」

 フフランはいたずらっぽく笑い、先に路面電車から降りた。停留所の名前は「市立美術館前」。降りるとすぐに、白い列柱が並ぶ長方形の美術館が目に飛び込んできた。入口のそばにはきらびやかな置き看板が置かれ、「リジン・キューレ展」と書かれている。

 ロティアとフフランはその看板を見て、にっこりと微笑みあった。

「一度見た絵でも、ここで見たらまた違って見えるだろうね」

「楽しみだなっ」

 フフランが肩にとまると、ロティアはチケット売り場に向かって歩き出した。

 すると、チケット売り場のそばで、眉間にシワを寄せて、口元に手を当てている男性がいることに気がついた。誰もが微笑むこの場所に似つかわしくない表情だ。

 ロティアはそろそろとその男性に近づいた。

「あのう、ひょっとして、海外の方ですか?」

 男性は怪訝な表情でロティアの方を見た。

「ここは、チケット売り場ですよ。リジン・キューレという画家の個展が開かれているんです」

 ロティアは絵を描く仕草をしたり、チケットの形を指で作ったり、できるだけゆっくり話してみたりした。すると男性は顔の前で小さく手を振った。

「……大丈夫、読めています」

 男性は眉間にシワを寄せたまま、「ご親切に、ありがとうございます」と言った。

「それならよかった。素敵な絵ばかりですから、お時間があるならぜひ見てくださいね」

「……君は、リジン・キューレのファンなんですか?」

「はいっ。彼の描く絵が大好きですっ」

「オイラも!」

 フフランが元気よく片方の翼を上げると、男性は少し驚いてから「そうですか」とつぶやいた。その顔はますます怪訝そうに見えた。しかしその瞳がリジンと同じ群青色だとわかると、ロティアはこの男性をとても他人とは思えなかった。

「あの、もし見るか迷っているなら、わたしに誘われたってことにしませんか?」

「……えっ?」

「勝手なこと言ってるのはわかってるんですけど、ぜひ見ていただきたいんです。だから、よかったらわたしたちと一緒に観ましょうよ。絶対に後悔させない自信があるので! チケット買ってきますよ」

「……いえ、そこまで言うなら、見てみます。ありがとうございます、お嬢さん、ハトさん」

「こちらこそありがとうございますっ。お互い楽しい絵画鑑賞にしましょうね」

 ロティアと男性は握手を交わして別れた。




 銀色のシャンデリアが吊るされた館内は、多くの人で賑わっているにも関わらず、シンッと静まり返っていた。誰もが絵に釘付けになり、言葉を失っている。

「そりゃあそうだよな。今回のリジンの絵は、今まで以上にすっごいもんな」

 フフランがささやくと、ふたりはゆっくりと館内を歩き出した。

 最初に出迎えるのは、チューリップやマーガレットなど春の花が絨毯のように咲き誇るあたたかな春の日の絵だ。これはリジンが初めて家族三人で見た花畑がモデルだと言っていた。

 この絵には、オーケが作った夜空色以外の鉱物入りインクが多数使われていて、正真正銘の新作だ。久しぶりの多色使いの絵に、多くのファンが長く鑑賞時間を取っている。

 ロティアはこの絵を取り出した時の苦労を思い出し、小さく肩を回した。しばらく杖を持ちたくなくなるほど疲れてしまったのだ。


 次に見えてくるのは、夜空色一色で描かれた横幅が三メートルにもなる海の絵だ。ヨットが浮かぶ海は穏やかな波を砂浜に打ち付けている。これは二回目の海水浴の時の絵だ。リジンが初めて一人で泳ぐことができた記念すべき日でもあるらしい。その時に拾った貝殻や母親の麦わら帽子が描かれた小さなサイズの絵を通り過ぎると、続き部屋は秋めいた絵が並んでいた。

 その中で目を引くのは、クマの親子の絵だ。これは一か月の試用期間の時に、ロティアが取り出したインクを改めて紙に乗せた作品だ。サイズとしては決して大きくない。しかし特注のどんぐりや松ぼっくりなどの彫刻が施された額に収められた絵は、他の作品とは違った存在感があった。このクマの親子は、父親と二人で山登りをした時に見たクマだったそうだ。たった一瞬の出来事だったが、リジンはあの緊迫した瞬間を、今でも鮮明に思い描けると言っていた。


 どの絵を見ても、リジンの胸には父親との思い出の記憶が深く刻まれている。

 その絵を、消すことも、燃やすこともなく、永遠に残すことができているのだ、ロティアの魔法で。大嫌いだった、自分の魔法で。

 そう思うと、ロティアは胸がキューッと締め付けられて、涙が出そうになった。

「感動して泣いてる人、たくさんいるぞ」

 フフランの言葉に、ロティアは小さくうなずいて、目をそっと擦った。


 次に見えてきたのは、今回の展示作品の中で唯一、父親との思い出ではない作品だ。

 この展覧会が開かれる一週間前、絵の搬入が済み、美術館のそばのカフェで休憩を取っていた時の出来事が収められた絵だ。

 急遽もう一枚絵を飾りたいと申し出ると、リジンのファンだという館長や学芸員たちは、喜んで展示の配置を考え直してくれた。

 タイトルは「冬の奇跡」。絵の中央には、等身大の妖精が描かれてる。その妖精にそっと両手を伸ばす女の子とハトの後ろ姿。

 ロティアは目の前に妖精が現れた時の光景を思い出し、ニンマリと笑った。

「かわいかったなあ、妖精」

「急に現れてすぐにどっか行っちゃったのに、リジンの記憶力はすごいな」


 思い出の絵に別れを告げると、フフランが少し興奮しながら、「メインが見えてきたぞっ」と言った。その声に、ロティアはゆっくりと顔を上げていった。

 お客を最後に迎える絵。それは、新たにリジンが描き直し、ロティアが取り出し、実物の三分の二の大きさに描かれた時計塔の絵だ。

 星空色のインクは、シャンデリアの明かりでチラチラと光を放っている。

「……立派だね」

 そうつぶやいた時、すぐそばでコツッと足音が鳴った。チラッと隣を見ると、そこにはチケット売り場で話をした男性が立っていた。群青色の瞳を大きく見開いて、真っ直ぐに絵を見つめている。その瞳は水気を帯びて、朝日を浴びる湖のように輝いているように見えた。

 ロティアとフフランと男性は、言葉を交わさずに、リジンの絵に酔いしれた。






「ロティア、フフランッ」

 聞き慣れた声に我に返ると、奥からリジンが歩いてくるのが見えた。いつも通り、白いシャツに青いスボンを履いている。ロティアは自分の青いワンピースを見下ろしてから小さく手を振った。

 フフランはロティアの肩から飛び上がり、リジンの頭に飛び乗った。

「お疲れさんっ」

「お疲れさま、リジン。こんなところに来て大丈夫?」

「うん。挨拶したい人にはだいたいお会いできたから……」

 そう言い終わる前に、リジンは口を開いたまま黙り込んだ。群青色の瞳を大きく見開いて、ハトが豆鉄砲を食らったような顔をしている。

「リジン、どうしたの?」

「リジンか」

 ロティアの言葉にかぶさるように、声が上がった。それは、ロティアの後ろにいる男性の声だった。

「……父さん」

 リジンの群青色の瞳から、雫がポロッと零れ落ちた。

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