ルナハイヴゲート

富永夏海

ルナハイヴゲート

  あつめるものが汚穢の極みであってはならないと、プランナーが考えているとする。たとえば宝珠であるとかなんらかの瞳や心臓であるとか、印象的な外観を為しているもの。あるいは武器や防具の形をしたアミュレットやバッジ、ブローチでもいい。何か貴重品であると思えるようなもの。達成感を得られるようなもの。汚穢とか、ましてやその極みとか、抽象的なものであってはならないと考える。だがディレクターがこれでいいと言う。抽象的でいい。達成感なんて糞食らえだ。俺は芸術品を作りたいしユーザーもそういう世界観を求めている。いまさらオーブやジェムやクリスタルなんかを集めたいとは思わない。そんなものはもうとうに集めた。コンプリートした。いったいいくつ俺がトロフィーをコンプリートしたと思ってる? ええ? プランナーは若干ひるむ。自分はそこまでやり込んでいるわけじゃないから、そういう風に出られるといつもたじろいでしまう。いいか。俺はな。新しいタイトルが出たらトロコンして、またリリースしたらトロコン、またトロコンだ。俺はもう抽象的なものを集めたい。概念を集めたい。なんでもないものを集めたい。空気より薄いものを集めたい。それは、汚穢の極みだと思う。ゆうべずっと考えたけどそれしか考えられない。俺は汚穢の極みを集めることに決めた。何百万何千万というユーザーに汚穢の極み集めをしてもらうことに決めた。もう決めたんだ。アップデートもしない。改善なんかしない。改善というのは悪いからするものであって、俺はこれがそうだとは思わない。これはこのままでいく。汚穢の極みを999個集めないことにはヘンリケの封印は解けない。世界の謎は永遠に解明されない。

 999個?

 ああそうだ999個だ。プラチナトロフィーの上をいく、アルティメットトロフィーという概念がそろそろ必要だ。俺の中でもう難易度という概念は崩壊してる。隔絶された旋律の孔に100分の1の確率で出現する最終定理γから、5000分の1の確率でドロップする汚穢の極みを999個集めない限り、ヘンリケの封印は解けない。よってこのトロフィー『すべての謎を解く・世界』は獲得できない。QED。

 トロフィー獲得までに現実時間で1424万年かかります。やめましょう。実装できない。プランナーはこめかみを押さえる。言うまでもない。クソゲーです。獲得できないトロフィーを実装しないでください。

 獲得できないトロフィーは実装できないと誰が決めた? そんな法があるか?

 法律はありませんが倫理の問題です。そりゃ理論的には達成できる。だけど1424万年ものハードの強度を保証できないことはあなたにだってわかるはず。

 そんなことはわからない、と彼は言う。実際俺のAtariもゲームウォッチもまだ動く。これが1424万年後も動かないと誰にわかる? 実際いま動いているというのに。じゃあお前はまだ生きている母親の生命維持装置を外すのか? お前の母親が何世紀も何万世紀も生き続けないと誰に言える? そんなこと見ず知らずの医者に決めさせるのか? ほんのちょっと前に母親の脈を取り始めただけの、そんな薄いつきあいの医者に運命を委ねるのか? これは理屈じゃない。感性の問題なんだ。この世はすべて感性の問題なんだ。理屈がなんだ? 俺はこれを実装したい。実装したいと言ったらしたい。ただしたいだけなんだ。それに、偶然、一回目のプレイで最終定理γに遭遇する、その最終定理γが汚穢の極みをドロップする可能性だってないわけじゃない。それが999回連続で起こることだって、ありえないことじゃない。いやそうだよ。ありえないことじゃない。ゼロじゃないんだ。最初からゼロだと決めつけるからだめなんだ。そういう態度が問題だ。いいか、一回目のプレイで最終定理γに遭遇エンカウントして汚穢の極みをドロップする。それが999回連続すればいいだけの話だ。もういい、離せ。行くところがある。そう言って彼はオフィスを去る。行くところなんてほんとうはないが、地平線めざして歩き始めるとする。たとえばの話だ。地平線といっても現実のものじゃなく、仮想空間のひらけた空白に定義された地平線、その世界の重力を規定する線、ライトブルーの罫だが。

 そうだとしても、俺は知らない。俺には関係ないことだ。



 マイルドアビス社の『ルナハイヴゲート』リリースから180時間後、俺は21個のトロフィーを獲得する。だが最後のプラチナトロフィー『すべての謎を解く・世界』だけは獲得できていない。これじゃ攻略記事を書けないどころか、変態トロコン太郎として、新作ゲームのトロコン手順を解説してる動画のコメ欄も荒れそうだし、元eスポーツ選手としての沽券にも関わる。さっそく海外の掲示板に飛ぶが、そこでも最後のトロフィーの獲得情報はない。はっきり言って出現率が深刻な問題だ、と書いている外人がいる。最終定理γに全然会えない。六時間に一体出てくればいい感じだ。ひどいと八時間やっても出てこない。出現率を最大化する装備は以下の通り。


頭部:覚醒者の三角巾

胴 :紫煙織りのトーガ

右腕:アイスフレイル

左腕:デクロスフランベルジュ

脚 :覚醒者の布帛ふはく

腕輪:贖いの傷痕


 外人の書き込みをDeepLにかけて翻訳しつつ、ここまでは同意だと思った。まあ〈覚醒者の布帛〉じゃなくて〈六つ指の脚絆〉にすれば移動速度が若干上がるから迷うところだが、まだ検証もしていないしそこは実際好みの範疇だとは思う。だから異論というほどのものじゃない。だがこれで出現率を最大化したところで、一時間を三十分にできるとかそういう話でもない。短縮率なんか微々たるものだ。これが果たして攻略方法として成立するかはわからない。むろん、書くが。競合が書いていないのだからそれは書くが、なんといっても、とにかく、『すべての謎を解く・世界』を獲得できていないことは問題だ。その獲得には最終定理γのドロップする何かが必要らしい。らしいというだけで検証できてないし、その先は不明だ。これのせいで夜も眠れない。

トロフィーというのは、そのゲームをどれだけやりこんでいるかを指標化したシステムだ。そしてトロコンというのはトロフィーコンプリートの略で、そのゲームのトロフィーを全て獲得することを指す。例えばマリオでいうと最終ステージの8−4までクリアすることは普通に「全クリ」と言う。だが「一度も死なずに1−1から8−4までをクリアする」となると、これはやりこみプレイとなる。これを達成すれば、例えばゴールドトロフィー「死んでられない」とかを獲得するということになる。トロフィーは、やりこみ難易度の高い順にプラチナ、ゴールド、シルバー、ブロンズとランク付けされている。例えば「初めて回復パックを使用する」はブロンズで、「近接武器を全て最大強化する」はゴールドで、「すべてのトロフィーを獲得する」はプラチナといった具合に。基本的に俺はやったゲームは全部トロコンする。それが俺なりのゲームに対する敬意なんだと思う。

昼も夜も、プラチナトロフィー『すべての謎を解く・世界』のことばかり考えていた。もし競合の攻略記事に先に獲られたらと思うと一秒も惜しくてトイレにも行けない。一人暮らしも始めたことだしペットボトルトイレの常習者になりそうだ。だが、たかが小便をどこでするかということなんかより、世界のすべての謎を解くことのほうが大事だってことは誰でも同意してくれると思う。俺はこういうことには細かい男だ。世界の隅々まで回らないと気が済まないし、今こうしてこの仕事をしている以上、プレイすることにはこだわりがある。書き手がプレイし続けているからこそその攻略記事が信用できる。これは当然だ。この界隈にはエアプの奴らはかなり多いが、そいつらの記事とは明らかに厚みが違う。これは感覚だ。だが何より確かなものだ。エアプで書いてるやつはどこかで破綻している。どこかでコピペしている。そうした上でちょっとだけ数値を誤ったりして、巧妙にコピペ隠しをしている。そういうのは雰囲気でわかる。そういう記事は一見して何かごまかしているような感じがする。データだけ確認したらとっとと帰ってくれと言ってる感じがする。座り心地の悪いアクリルの椅子に座ってるような感じがする。それは確かに盗用ではないかもしれない。単なる数字の羅列に著作権なんてものは存在しないのかもしれない。だが俺には矜恃ってものがある。本当にプレイしたのかどうか、そんなこと読み手に見えなかったとしても、それでも俺は最後まで隅々までプレイしてやる。俺を効率厨と言うなら言え。効率厨は強い。だらだらしゃべったりなりきったり楽しんだりなんか、一切するか。どうせ会社だのなんだのに所属したって求められるのは効率なんだ。だったら俺がこの引きこもりの部屋から、本物の高効率がどういうことなのか教えてやる。俺は空になったアクエリアスのペットボトルに用を足す。

 アップデートだ。ペットボトルの口をきちんと拭いてたら閃いた。これははっきり言ってゲーム的な大きな欠陥だ。アプデを待つしかない。出現率の改善。あるいは装備や魔法やマップ構成の何かしらの改善。ひとまずは、そのことだけでも攻略記事に付記しておくか。あくまで推測に過ぎないが、ネタとしてでも書いておくに越したことはない。書き終えて記事をアップロードすると、Uber Eatsで夕飯を注文する。一週間に数回Uber Eatsを利用し、あとはほとんどネットスーパーで買った食材を簡単に調理することで俺の食生活は十分賄えている。一週間に一度しか家から出ないライフスタイルも完璧に実現できている。コロナの風は俺にとっては完全にポジティブに吹いた。もともと引きこもり体質の人間に対して奇跡のような恩恵をもたらした。俺はそもそもが自粛だ。俺は外に出ない。だからコロナに罹ることはない。そしてうつすこともない。たとえ万が一、俺の唯一の外出機会であるゴミ捨てのときに誰かに出くわしてそいつからコロナをもらったとしても、俺で止まる。俺で終わりだ。俺の中でウイルスは死ぬ。他の誰かにうつりたかったお前よ。他の誰かにうつって繁栄したかったお前よ。俺の中で朽ち果てるがいい。世界のすべてのコロナは俺の元へ来るがいい。残念だったな。俺が人嫌いで。人のほうでも俺のことが嫌いで。いや嫌いということはないかもしれないが、別にどうでもいいとかそんな人知らないとか、そんくらいの温度感だと思う。そりゃ俺も、前はイキって女のために車を改造したりしたこともあったが、もうどうでもいい。飽きた。どうすればどうなるかわかったから飽きた。だがゲームは飽きることがない。攻略しつくすということがない。という対比が陳腐だったとしても、まあつまりはそういうことだ。

 その後も俺は『すべての謎を解く・世界』を獲得できずにいた。Googleトレンドによれば、『ルナハイヴゲート』及び『ルナハイ』の検索ボリュームは、発売後一ヶ月を経ても一向に下降する気配がなく、まだまだ伸びる余地がある。さすがマイルドアビスの新規タイトルだ。感心に値する。そしてこの、トロフィー獲得の絶妙な難易度が、ライトユーザーだけでなくヘヴィユーザーも熱くさせてるんだよな。こういうゲームを待っていた。しかしこの『すべての謎を解く・世界』に関してだけは草だ。もしかしてこれは獲れないやつか? だとしたら問題だ。かなり問題だ。クソゲーと言っていい。じゃあ結局のところヘンリケの封印は解けなくて、どうして世界中にルナハイヴゲートが出現しまくったのか、ほんとうの真相は闇の中ということになる。闇っていうか久遠の霧か。いやそれを言うなら摩滅街の井戸か。六つ指姫アビゲイルの出自も、不明のままだし。てかそんな考察厨みたいなことはどうだっていいんだが、このイベント遂行によって得られる装備とかがあったら大問題だ。最強装備の記事を書き直さなきゃならなくなるし、アビリティとかも見直さなくちゃならない。だがいくら旋律の孔を徘徊しても、アイアンウィスプの群ればかりいて、最終定理γの姿はない。今日だってもう八時間ぶっ通しでやってるが、三体しか見かけてない。もちろんドロップするのはただの「木片」のみだ。いらつく。もうドロップ傾向をメモんのもやんなった。こうなったらもうバグ技グリッチの線だって考慮せざるを得ない。正攻法でやっても無理だ。多分無理だ。誰か編み出してないか。いや、もう編み出されてたらそれはそれでまずい。情報収集するのもなんか怖くて突っ込んでできない自分がいる。

 だがやらなければ。俺は効率厨だ。それはゲームプレイにおいて効率を最優先する者を揶揄する言葉だが、俺は深いところでは、それの何が悪いのかあんまピンときていない。俺は目標達成に必要なことであればどんなことだって実行できるし、少なくともその努力をする。だからeスポーツ大会に出るまでに上り詰めた。無教養なただのナードが、大会に出るまでになったんだ。この指だけで。それもこれも、トイレの時間まで切り詰めてゲームに投資したおかげだ。俺は馬鹿だが、ゲームのおかげでタロットのこともアレイスター・クロウリーのことも知ってるし、カバラの生命の木のことだって、インドの悪魔のことだってちゃんと知ってる。でも、だからなんなんだ? 独りよがりな考察厨ほど虫唾が走るものはない。そんなもんはちゃんとクリアしてから言えって話だ。あいつらが考えるのはキャラ萌えのことばっかで、戦闘の効率なんて全然考えてない。好きなキャラなら最大限強化したいと思わないのか? 好きなキャラが最強になる装備がなんだか知りたいと思わないのか? 俺はそのための素材集めを厭わない。検証を厭わない。時間を投資する。グッズを買うとかガチャに突っ込むとかそういうのは全然好きじゃない。俺は自分自身の努力と鍛錬が反映されるゲームをする。俺は自分自身の力で敵をねじ伏せる。俺は俺自身のレベルが上がるゲームを好む。

 だからとにかく最終定理γを出現させなければ。まずはこいつにエンカウントしない限り話は始まらない。とにかく最終定理γがドロップするらしい何かが、トロフィー獲得に関係してるってことまではわかった。だから今は、最終定理γの出現率を飛躍的に最大化することを考えなければならない。何かバグはないのか。誰か解析したやつはいないのか。しかし見つけた情報といえば、序盤のアビゲイル城の大門から中盤の双黒竜の塔にワープするバグ技のみ。手順はまず、アビゲイル城の大門前で、焔の腕輪の付け外しを二十四回行う。二十四回目に外したタイミングで次の操作を素早く行う。オプションボタンを押す。R1ボタンを三回押す。モニタの輝度を最大にする。タイトル画面に戻ってロードし直す。

するとなぜか双黒竜の塔のボス手前にワープできている。

いや、これはちょっと古い情報だったらしい。さらに調べると、最新版においては焔の腕輪の二十四回の付け外しは無意味とのことだった。改良を重ねた結果、ワープしたい方向へ照準を合わせ、スライディングを三回した後に素早く下キーを連打することでワープするという。ただし、照準の合わせ方と連打のタイミングがシビアだし、どんな地形でもできるわけではないので難易度は高い。異なるオブジェクトの間だとか、分岐地点の壁だとか、何かと何かが重なり合っているようなポイントで行うと成功率が高いらしいが、正確なところは未だ研究中とのことだった。

 最近のゲームのほとんどには「ファストトラベル」というシステムが実装されている。ゲーム内で一度到達した地点であれば、マップ画面上で選択することによっていつでも瞬間移動できる仕様のことだ。つまり、俺はこれまで北極には行ったことがないから、スマホで北極をタップしても北極に瞬間移動できない。だが京都には行ったことがあるから、スマホで京都をタップすれば京都駅に瞬間移動できる。このシステムにはゲームの世界観を損なうという批判もある。だがマップが広大になりストーリーも煩雑になった今、徒歩だの馬だの車だの、移動手段がなんであれ、物理的にマップを移動するのはただの手間になった。ゲーム黎明期は世界を作ることで精一杯だったし、プレイするこっちにしたって世界を歩くだけでやっとといったところで、他のことなんて考えてる余裕がなかった。だがそれも次第にあたりまえとなる。昔はゲームの中に昼と夜が訪れるだけでもおおごとだったが、今や誰もなんとも思わない。新しく引っ越した先の役所に行って「この街はバス移動が便利です」とバスの路線図はもらえても「この世界には昼と夜が訪れます」とは説明されない。「この世界には重力が働いています」「あなたは行く先々で抵抗を受けます」「摩擦を受けます」とは説明されない。革新的なシステムも常識となった。それだけで楽しかった移動も単なる作業になった。それを省けたほうがメリットが大きいだろうと俺も思う。世の中には、俺みたいにすべての時間を投入できるプレイヤーばかりではない。俺だってマップをいちいち移動するのはだいぶだるい。

バグ技で発動させるワープは、このファストトラベルとはまた異なる。ワープバグは、その地点に到達していようがいまいが関係なくそこにワープする。しかもファストトラベルのように、A地点にいたキャラがB地点でロードし直されるのではなく、A地点とB地点を結ぶ直線ABをキャラが物理的に移動する。地形のポリゴンやテクスチャーを突き破って強引に移動する。極端なルートが見つかりさえすれば、スタート地点からいきなりラスボスの部屋まで移動することもできる。ゲームスタートからクリアまでの時間を競うことをRTAと呼ぶが、このRTA勢はほかにも種々のワープ技を編み出していて、日々恐るべきクリアタイムを更新し続けていた。だが、他のバグはまだあまり研究されていないようだ。出現率を操作するようなバグはないのか。アイテム増殖バグとか敵増殖バグとかはないのか。せめてそういうのが見つかれば、ちょっとは心の余裕ができるというものだが。

 最終定理γと出会うため、俺は最終定理γが出現するポイントまで行き、そこでアイアンウィスプが徘徊していたらロードし直すという作業をひたすら繰り返した。こんなのはもう、二種類の絵しかないスロットを延々と回しているようなものだ。期待した結果が得られなかった時にロードし直すという作業は、他のゲームでも有効なことが多い初歩的なテクニックだ。でもこういうのを知らないユーザーもいるかもしれない。一応記事にも書いておくか。マップを開くボタンがどれかってことも、ちゃんと書いてやらないとわからないユーザーだっている。記事を書いたり、攻略動画を作ったりするようになってから俺は、自分が何を知らないかということよりも、相手が何を知らないかを想像することのほうが難しいと知った。最強武器の組み合わせがなんであるかということより、R3ボタンがどこにあるのかわからない人がいる。馬に乗れないでいる人がいる。盾を拾ったのに装備していない人がいる。

ゲームの巧さはセンスの部分もあると思うが、そんなのは小さな問題で、大半は費やした時間に依存する。スポーツとかと同じで、費やした時間が多ければ多い分だけ巧くなる。俺は楽器ができないが、楽器もおそらくそういうことなんじゃないかと思っている。あとは、クリアしたことのあるゲームのジャンル幅によって対応力の幅も決まるわけだが、バイオハザードとダークソウル、この二つをクリアしたことがあれば、大体どんなアクションゲームにも対応できるというのが俺の持論だ。バイオハザードはできれば1がよく、ダークソウルは2以外であればいい。オンライン対戦タイプのゲームとなるとまた話は別だが、ソロでプレイするならこの二つがいい。異論はもちろん認める。だが説明させてくれ。

バイオハザードというのは、ゾンビの徘徊する入り組んだマップを踏破していく古典的なガンアクションホラーだ。これをプレイする価値は色々とあるが、一つにはガンアクションの基本を学べるということだ。キャラクターはジル・バレンタイン、難易度はVery Easyで構わないから、とにかくやり通すことが肝心だ。映画のイメージからか、派手なゲームと思われがちなこれは、非常に地味に地道に、こつこつ積み重ねながら攻略していく。入手できる弾丸の数が少ないから、敵を回避したり、膝を撃って移動速度を落としたり、頭部破壊ヘッドショットで一発で倒したりと、弾丸節約のためのあらゆる工夫をとる態度が自然と身に付く。強敵には火炎瓶を投げる、ショットガンは接近して撃つなど、バイオ以降の多くのゲームが踏襲してきた基礎ルールをこれ一本で習得できる。

だが一番肝心なのは、「ホラー要素がいかにゲーム難易度を高めるか」という点を確認することにある。例えば、目的地へのルートが単純な一本道だったとしても、真っ暗だったり、じめじめしてたり、訳のわからない音が鳴り響いていたりすると、一歩踏み出すのに何十秒もかかる。極度に怖がっている人間というのはあっちへ行ったりこっちへ行ったり、また戻ったり、時にはいつまでも固まっていたりと、まったく非効率な行動を取り、地形的には十秒で済む一本道に三十分かけてしまう。恐怖は人の理性を奪い、パフォーマンスを下げる。そして恐怖という感情を排除することはなかなか難しい。だが、「怖がっている時に自分のパフォーマンスは下がる」という原則は理解できる。それがわかれば、怖い状況そのものを回避できなかったとしても、少なくともある程度の心づもりができる。怖がっている自分に気づくことができる。逆に言えば、これを理解していないと、なぜ自分が特定の場面下において急に下手になるのかがわからないままなので対策ができない。

一方、ダークソウルというゲームは、単純にテクニカルな難易度が高いファンタジーアクションRPGだ。RPGといって多くの人が想起するのはドラゴンクエストだと思うが、あのようにほのぼのとした世界は広がっていない。ゲームでほのぼのという感情を作り出すためには、豊かな絵や豊かな音楽だけでなく、過不足ない説明と適切なゲームバランスという、親切なシステムを構築する必要がある。いくら絵や音楽がよくても、いきなり何の説明もなしにゲームオーバーになったらほのぼのしない。ダークソウルは「操作するキャラクターはプレイヤー自身である」というたった一つの意味においてRPGであって、その世界システムは峻厳極まりない。ホラー要素はほとんどないが、単純に敵の動きが多彩でマップも広大複雑なため、何度も反復しないことにはクリアできない。何度も反復というのはつまり、何度も死ぬということだ。

さらに「死亡するとそれまでに獲得した経験値を失う」というシステムがこのゲームをより厳しいものにしている。このシステムのせいで、ホラーとはまた別種の「絶対に死にたくない」という恐怖が生じ、これがパフォーマンスを鈍らせる。「なんだかわからないから怖い」という漠然とした感覚を起因とする恐怖に対し、殴られると痛いとか負けると怒られるとか、敗北が極めて具体的なデメリットを及ぼすために起こる恐怖だ。だからボスに対して果敢に踏み込んでゆけない。あるいは待てばいいところで欲張って武器を振り、隙を生んでしまう。回復や魔法を渋りすぎるか、あるいは消費しすぎる。こういった判断の誤りが生じてしまい、死ぬ。そしてこれまで会得してきた経験値ソウルを全ロストする。

 この二種、つまり訳のわからない恐怖と、極めて具体的な恐怖の二種を経験していれば、大体のアクションゲームには対応できるというのが俺の理論だ。逆に、特定のアイテムを手に入れないとクリアできないだとか、特定の育成方法をしていないと詰まってしまうタイプのゲームは、どんなゲームをやっていたとしても難しい。運や特定の条件に依存するゲームは俺個人としては好きじゃない。鍛錬して上手くなっていくというのが一番理想的だ。繰り返しプレイすることでしか先に進めないゲームがいい。それなら自分の工夫次第でクリアできる。かけた時間次第でどうとでもなる。特定条件に依存するゲームというのは、生まれつき天才じゃないと詰むだとか、生まれつきイケメンじゃないと詰むだとか、そういう人生に似ている。難しかったとしても自分の努力次第でなんとかクリアできるゲームは夢がある。だから俺はそういうゲームに惹かれるんだと思う――生まれつきの話で言うと、俺はかなり馬鹿だし貧乏だしけっこうハードモードだと思うが、だからこそ俺みたいなやつにはヴァーチャルでもいいから成功体験が必要じゃないか? そりゃいい歳こいて引きこもってるかもしれないが、それによって今やちゃんと収入を得られてるんだし、もう引きこもりという言葉は揶揄とならない。俺は、頭がよくて、家もそこそこ金持ちで、シェークスピアだか? ゲーテだか? 夏目漱石だか? なんだかよく知らないが、難しい本を読んでて、難しい洋画を見てて、そんなにやったこともないくせに、ゲームをまるで映画の派生とか下位互換みたいに語り始める奴が大嫌いだ。つまりそれはコバヤシのことなんだけど、コバヤシっていうのは前に一緒にパーティ組んでたやつなんだけど、コバヤシはとにかくそういうやつだった。そんなことより、パーティの火力を最大化する方法を考えろと言ったら、ディスってきやがった。なあ君ゲームっていうのは世界観も楽しむものなわけで、なにもクリアするだけとか、最強になるだけとか、トロコンするだけが目的の人ばかりじゃない、ゲームをもっと大きくとらえたまえよ。とかなんとか言いやがって。あのエアプ野郎。この作品はクトゥルフを? したじきに? してる? だとか、AKIRAをほうふつとさせる? だとか、知らねえことばっか言ってマウント取りやがって。俺は違う。俺はプレイ至上主義だ。俺は結果至上主義だ。俺は勝つことだけ考える。そう言うとあの手のやつは一気に引くんだが、「勝つことだけを考える」と言ったって、勝つというシンプルな話がどれだけの反復練習のもとに達成できるのかをコバヤシはわかっていない。ああそうだ、あいつはどこかでゲームってものを見下している。薄々わかってた。ゲームってのはあくまで空き時間でやるもので、実際に本腰入れてやり始めたら終わりだって思ってる、正直それはわかってた。だがな、俺は馬鹿かもしれないがそれでも言わせてもらうと、それはお前がゲームをクリアできないから言い訳してるだけに聞こえる。ああそうだろうとも、本腰入れてやり始めたら終わりだろうな。少なくとも〈普通〉みたいな価値観は逸脱するかもしれないな。だが俺は、ゲームをやるなら全アビリティレベルマックスなんか当然だ。全クラスでのメインチャートクリアなんか当然だ。そしてトロコンは、当然なんだ。オタクだとかなんとか言うんだったら、それだけしゃぶりつくしてみやがれ。隅から隅まで調べてあらゆるコインを集めてみろ。あらゆる悪魔を顕現させてみろ。あらゆる魔法陣をあらゆる高台に描いてみろ。


 アップデートの告知が来ると、蒙古タンメンのカップ麺を食いながら画面の前でスタンバった。アプデ完了時刻きっかりに早速データをロードして、プレイしてみる。暗くて薄汚くてひたすら気が滅入る旋律の孔のマップを、見るのも飽きてしまった黒いアイアンウィスプがやはりうろついている。タイトル画面に戻ってリロードを何回か繰り返すが、ずっとアイアンウィスプだ。祈るような気持ちで、ルナハイ公式ページのアップデートのお知らせを見てみる。


■アップデートのお知らせ

『ルナハイヴゲート』はアップデートを実施しました。ゲームを安定してお楽しみいただくため、最新アップデートファイルをダウンロードしてください。主な調整は以下です。


・氷魔法6種の消費MPを軽減

氷粒・氷柱・大吹雪・流雹・凍てついた日・氷塊の記憶

・星魔法3種の消費MPを軽減

青いコメット・破滅星カロン・三億光年の重力

・「溶けゆく思想」の消費MPを増加

・「デクロスの血煙」の消費MPを増加、詠唱時間を短縮

・「氷槍」の威力を下方修正

・「ツヴァイヘンダー」の攻撃モーションを短縮

・「緋色の爪」の攻撃範囲を上方修正

・「放浪剣」の正面方向への攻撃範囲を上方修正、ジャンプ攻撃時の硬直時間を短縮

・「廃屋ラット」の出現率を調整

・「ラストプロトコル」の出現率を調整

・NPC「吟遊詩人ルー」の出現率を調整

・NPC「三億光年の末弟」のステータスを下方修正

・「アルテミスドーム」最奥部で特定のモーションを行うと「馬草」を入手する不具合を修正

・「アーロンケイヴ」大門前で特定のモーションを行うとキャラの頭部が変形する不具合を修正

その他メニューテキスト表示の不具合などの修正


スクロールしてまた上に戻る。Ctrl+Fで「最終定理γ」と検索してみてもヒットしない。改善する気ないってことか? つまり『すべての謎を解く・世界』は、獲得させる気ないってことか? いやいやそんなはずはない。このマイルドアビスに限ってそんなことするはずがない。ユーザーと強固な信頼を築いてきたじゃないか。ユーザーがボスに勝てなくてのたうち回ってるのを楽しんでる一方で、「のたうち回りたい」という俺たちの欲望を誰よりも理解して、与えてきてくれたじゃないか。試練を。苦難を。いつだってそうだったじゃないか。何度も何度もお前は俺たちに、理不尽な死を与えてきた。曲がり角に必ず伏兵を配置してきた。それを見越して、曲がり角手前で剣を振ったら、罠が作動して即死する。そんなことはざらにあった。猛毒ダガーを持ったアサシンが三十人も部屋に配置されてるから、俺はずっと這って移動したんだ。這うための操作をただの「ボタン長押し」じゃなくて「ボタン連打」にしたことがあのゲームのキモだったよな。ゲーム内のフィジカルと俺のフィジカルを連動させることがお前の目論見だったんだろう。ゲーム内キャラは全身の筋肉を使って這いつくばってるというのに、俺がただボタンを押しっぱにしてるだけで足りるんだったら怠惰というものだ。俺は腱鞘炎になっても冷えピタを貼ってずっとボタンを連打し続けてあの部屋を突破したんだ……。

そんなことはざらにあった。それでも俺はお前との繋がりを感じてた。

なのに今回はなんだ?

どうしてこんなのを実装したんだ。わからん……こんなのただの嫌がらせじゃないか。こんなのは俺たちが求めてる試練じゃない。苦しみの質が違う。何があったんだ。こういう本物の理不尽を、お前は絶対に実装しなかった。そうじゃないか?

〈絶望〉

 攻略情報掲示板をスクロールしていると、一つの単語に目がとまる。

〈絶望したんじゃないかな。そうとしか思えない〉

〈は? 何に? イミフなんだが〉

〈商業主義にみたいなことか?〉

〈っていうかゲーム自体にみたいな。飽和状態とかそういうこと〉

〈アビスのゲームは世界的に認められてんだぞ。いいゲームが売れないっていうんだったらわかるけどそんなんありえん〉

〈クリエイターの苦悩は誰にもわからんよ〉

〈どうでもいいからアプデしろ。出現率改善しろ。話はそれからだ〉

〈トロコン太郎も今回全然トロコンできてなくて草〉

〈あいつからトロコン取ったらただの変態ペットボトラー〉

〈雷玄王強すぎ〉

〈氷槍の弱体化クソすぎ〉

〈もっとおっぱい出せ。話はそれからだ〉

〈わかりみ。今回おっぱい少ない〉

気分よく生活することのコツは、ネガティブにならないことだ。

だがネガティブに「ならない」ということは案外難しい。自分ではどうにもできないことをどうにかしようとするのは時間の無駄だ。だからネガティブになるような状況を回避するのが一番いい。例えば情報収集なんかをしていると自分の思った以上に毒を受けていることがある。ネットには、自分では全然努力しないで愚痴ばかり言っているやつだとか、普段言えないことをここぞとばかりにぶちまけている差別主義者とかがうようよしていて、長く滞在してるとこっちまでそういうマインドになりそうになってくる。何より、下手糞な文章をずっと目にしていると、こっちの文章まで下手になってくる、というのは以前どっかのブログで読んで、そうかもなと自分でも思ったから、気を付けるようにしている。

俺は馬鹿だが一介のウェブライターとして、情弱のヌルゲーマーどもにだってきちんとした文章をお届けしたい。だから俺は俺自身のセンスを守る義務がある。そうこれは逃げじゃなくて義務なんだ。

 三日ぶりにトイレで小便し、一週間ぶりに風呂に入った。新タイトルがリリースされるとこんなふうに廃人じみたライフスタイルになってしまうことは問題だ。一応そういう問題意識はある。だがあらゆる物事よりゲームの優先度が高くなってしまう。結局、生活というのは優先度の問題なんじゃないかと考えもする。例えば女だとか家族だとかいった問題にしたってそうだ。優先度が低いから「忙しい」とつっぱねる。忙しいっていうのはつまり「お前よりも優先度の高いことが別にある」ということを遠回しに言ってるだけの話で、この世に本当に忙しい人間なんか存在しない。まあそういうわけで、俺は女に振られた。あっちからしたらこっちが振ったみたいに思ってるかもしれないが。俺には優先度の高いことが色々とあるし、女は女で、色々と要求がある。だがそこを色々と細分化して考えて得られる成果が苦労に見合っているかは不明だ。予測不能な要素が多すぎる。乱数が複雑すぎる。それこそ理不尽でしかない。

いやいや、そもそもなんでこんな全然関係ない話を考え始めてんだ。ひどく散らかった部屋に戻ると、そういえばルナハイのリリースから睡眠時間を一日四時間しか確保できていないということに思い当たる。ああそうだ、それだけだ。俺は知らないうちに自分に言い聞かせるようにつぶやいていて、そのままベッドに倒れ込み、タオルケットを抱いた。とにかく今日は何も考えずに八時間眠ろう。何なら十時間眠ろう。時に効率厨というものは、効率を優先しすぎて逆に非効率になることがある。それは愚の骨頂というものだから、ひとまず眠ろう。


 久しぶりにたっぷり眠った俺は、翌日かなりいい気分で目覚め、部屋の片付けさえ行えるほどだった。きれいな部屋でゲームをするのは当然ながら気持ちいい。こういう部屋でゲームをすればパフォーマンスも上がるというものだ。とりあえずこれまでの考えを整理するためiPadを取り出す。最終目標。小目標。課題。懸念点。

プラチナトロフィー『すべての謎を解く・世界』の獲得には、ヘンリケの封印を解かなくてはならない。ネット情報によると、どうもヘンリケの封印を解くには最終定理γがドロップする何かを集める必要がある。何を何個集めるのかはまだ不明だが、一応そこまではわかっている。ただ最終定理γの出現率は非常に渋いため、出現率をアップさせる方法かもしくは、別の革命的な方法が必要だ。しかし今のところ、持ちうる装備品を駆使して出現率をわずかに上げる方法があるだけで、革命的な方法は見つかっていない。

 正直自分のYouTubeアカウントを開く気にはなれなかった。トロコン太郎のくせにトロコンしてねーじゃねーか引きこもりのクソがというコメントが千個くらいついてるのはわかっている。わかっているが、とりあえず今は無視しろ。自分に言い聞かせる。わざわざ自分を萎えさせるような情報を見にいくな。とりあえず今は目の前の問題に集中だ。俺は効率厨だ。効率を落とす行為は許されない。

 他のゲーム系動画を見にいってみると、やはり『すべての謎を解く・世界』の獲得には至っていなかった。ほっとしたような気分でコメント欄をスクロールしていくと、同じく攻略動画を上げている「許されざる忍者屋敷の齟齬」氏のコメントが目に留まる。

〈全然関係ないけど、ユーフラジー湖に滝があるだろ。その滝の上の岩のところまで敵を誘導してリロードすると、敵が増殖するっていう挙動は何度か確認してる。どのハードでも再現するかは未確認。だがこれを応用すればあるいは…〉

〈PC版で確認してみたけど再現した。どうやらユーフラジーの滝周辺が、ルナハイ世界の時間軸の切り替えポイントらしくてそれが関係してるっぽい〉

〈許されさんのグリッチやってみました。ボクの環境でも再現しました:) 敵のリスポーン条件が時間経過だってのを利用したグリッチっぽいですね〉

 マジか。「あずきのチカラ 目もと用」をチンしている間に、早速ユーフラジー湖へ向かった。ここはメインストーリーにはさほど関係ない地だが、景観が美しい。あまり美とかはわからない俺もそれは認める。それから魔力強化に必須な隕石をドロップするストーンドールが多く徘徊しているので、魔法使いタイプで育成しているプレイヤーには定番の稼ぎスポットとなっている。じゃあもしかすると、と俺は考え始める。いったん最終定理γの件は置いといて、ユーフラジー湖を徘徊しているストーンドールを滝の上まで誘導して増殖させれば、隕石を大量に稼げるんじゃないか。

安直か。もう誰かにやられてるか。でも、検索する前にまずは自分で検証してみよう。俺はプレイ至上主義者だ。噂の精査だの情報の選別だのは、他のもっと頭のいい誰かに任せとけばいい。仮にこれが実証できれば、最終定理γとは関係ないものの、攻略情報としては十分強い。なんといっても、序盤のアビゲイル城のクリア直後に、もう隕石を大量入手できるのだ。

 早速検証を始めてみる。ユーフラジー湖を気持ちよさそうにゆっくり歩いている、埴輪のような見た目のストーンドールのそばまで行って注意を引きつけ、まずは一体おびき寄せる。そのままゆっくり歩き、湖から上がって岩場を登っていく。だが急勾配だ。引っかかってしまうかもしれない。何度か試すも、ストーンドールはやはり湖面から少し上がったところでずっと足踏みしているだけで、斜面をのぼることができない。ストーンドールは石のスカートを履いていて裾広がりの形態のため、下肢がどうしても岩場に引っ掛かってしまうのだ。というか、これは意図的にこういうマップにしている気がする。ゲームバランスを保つため、ここでの荒稼ぎを意図的に封じている気がする。

 クソ。だったら「許されざる忍者屋敷の齟齬」氏とかはどうやって検証したんだよ。あてもなくユーフラジー湖周辺をうろつき始めた。ああこいつだ。ただの雑魚でしかないオオコウモリが、湖の端の木にぶら下がって休んでいる。近づくと、警戒して羽ばたき始める。こいつなら地面から浮かんでるから、足場の形状に依存せず移動できる。オオコウモリを引き付けて先ほどのポイントまで誘導した。オオコウモリは難なく岩場を登って滝の上の高台に至り、例の丸岩のそばまでやってくることができた。俺はメニュー画面を出し、タイトル画面に戻ってデータをロードし直した。

丸岩のそばで、ついさっきまで1体だったオオコウモリが2体に殖えている。

で?

こんなところでオオコウモリを殖やしてどうする。こんな気持ちのいい天気で湖を眼下に臨むロケーションでコウモリを殖やして、俺はいったい何をやってる。いらついてアイスフレイルを振り回すと、すでにレベルを999まで上げているため瞬殺した。しかも何もドロップしない。舐めてんのか俺を。レベル999の魔法騎士の俺を。

とにかく敵が殖えるってことはわかった。だが時々俺は、検証の途中で我に帰ってしまうことがある。俺はいったい何をしてんだという思いが湧き上がってきて、いらついてしまう。落ち着け。もう一度オオコウモリを誘導してきてロードし直す。やっぱり2体に殖えている。ではこの、既に殖えた状態でロードし直すとどうなる? リロードする。丸岩のそばで、オオコウモリは4体に殖えている。なるほど。2なら4。4なら16。じゃあ次は256か。じゃあ次は? 65536か。たかがオオコウモリでも65536体だったら、さすがに経験値も馬鹿にならない。序盤の経験値稼ぎとしては十分すぎる。てかこれこそ改善すべき不具合じゃないのかよ。また公式ページに行ってみると、最新アップデート情報が更新されている。


■アップデートのお知らせ

『ルナハイヴゲート』はアップデートを実施しました。ゲームを安定してお楽しみいただくため、最新アップデートファイルをダウンロードしてください。主な調整は以下です。


・草魔法6種の消費MPを軽減

草の舞・荊鞭・草の刃・繁茂の到来・危険な樹木・三億光年の萌芽

・月魔法3種の消費MPを増加

 横溢する力・目論む光・内なる湖

・「変貌する右手」の消費MPを軽減

・NPC「吟遊詩人ルー」の出現率を調整

・NPC「三億光年の長兄」の頭部が「アルテミスドーム」エントランス付近で点滅する不具合を修正

・NPC「アッシェンバッハ」が「三代目軽蔑童子&非アッシェンバッハ」とのイベント戦において死亡しないようオート鋼鉄化の効果を追加

・「スリーナイヴズ」桟橋で特定のモーションを行うと「馬草」を入手する不具合を修正

・「デクロス砦」大門前でスライディングするとキャラの頭部が巨大化する不具合を修正

・「摩滅街」に入れない不具合を修正

その他メニューテキスト表示の不具合などの修正


 特に目ぼしい修正はない。俺がやろうとしていることに関わりそうなものは何もない。検証に戻る。4体に殖えたオオコウモリの前でリロードすると、確かに16体に殖えた。この状態でリロードすれば計算上は256体に殖えるはずだが、この地形が気になる。ここがだだっ広い平原なら問題ないと思うが、ここは滝の上の狭い高台で、足場の面積に限りがある。いくらオオコウモリが浮遊しているオブジェクトだとはいえ、大量に殖えればこの地形に載りきらずに何かしらのバグが起きるかもしれない。だがまあ、このままじゃ埒があかないし、バグが起きるなら起きればいい。念のためセーブデータのバックアップを取った。16体のオオコウモリの前で、リロードする。

 オオコウモリは16体のままだった。殖えていない。やはりこの狭い足場に載らないから、出現できないのか。キャラクターのステータス画面を開き、獲得経験値を確認してみる。PCで録画データを再生し、五分前の経験値と比較してみる。経験値は増えている。オオコウモリは、見た目には増えていないがちゃんと出現している。足場に載らない240体分のコウモリは出現とともに死亡扱いとなり、経験値だけが入ったのだ。もう一度リロードしてみる。やはりコウモリの姿は16体のままだが、経験値は入っている。先ほどは経験値512だったが、今回は13万1040とはね上がっている。見た目には16体のコウモリだが、高台に載らない分の65520体のコウモリが出現と共に死亡し、経験値のみが入った。この世界においてユーフラジー湖の上のこの高台は、日付変更線のような役割を果たしていて、この丸岩が日付と日付のちょうど境にあるため、周辺でリロードを行うと一日経過した扱いになって敵が再配置リスポーンして数が殖える。そして高台に載れなかった分の敵はリスポーンと同時に死亡し、自動的に経験値が入る。そういうことだ。

 なるほど。わかったが、いやよくわかってないが、とりあえずこれを攻略記事に書くのはやめよう。俺はiPadを静かにスリープさせた。どうせこんなこともう他の誰かも考えついてるだろうし、大したアイデアじゃないかもしれないし。というより本当は、このバグをマイルドアビスの開発に知られて、改善されたくない。いつか将来改善されるにしても、そうなる前にこのバグを利用して最終定理γを増殖させたい。その検証が終われば後はどうでもいい。改善でも改悪でもなんでもすればいい。

いま計算したところによると、65536かける65536は42億9496万7296だ。俺は数学で2点を取ったこともあるほどの馬鹿だが、とにかく試行回数を増やせば成功率も上がるってことはわかる。6を出したいなら腕が千切れるまでサイコロを振ればいい。馬鹿にできるのは時間を費やすということだけだ。つまりこの高台まで最終定理γを誘導してくればいい。そして大量にリスポーンさせ続ければ、いつかはその何かをドロップする。理論的には、そうだ。あとは実行するだけだ。どうせ「許されざる忍者屋敷の齟齬」も、もう検証に入ってるに違いない。あとはもうスピードだ。どっちが早く最終定理γをここまで誘導できるかって話になってくる。

「許され」さんはライバルだが、敵対関係というわけじゃない。渋谷で飲んだこともある。俺はコーラだったがあの人はハイボールを飲んでいた。あのくらいのおっさんはだいたいビールかハイボールを飲む。スペランカーやコラムスやドラゴンズレアとかの高難易度ゲーを昔からやりこんできただけあって、知識も半端ないから、逆にマウントを取ったりもしない。いまでもダークソウルで敵の背後を刺すバクスタ練習をしてると言っていた。一日一体でも倒してると言っていた。いまでもスーファミ版『風来のシレン』をプレイしていて、最初から最後まで一度でクリアできるか、その成否をメモって統計を出しているのだと言っていた。俺がスーファミ本体とシレンのソフトをわざわざメルカリで買ってプレイしたのは、許されさんの影響だ。俺は、現代のアクションゲームに対応するならバイオハザードとダークソウルがいいと言ったが、シレンだってほんとうはやってほしい。いろんな手間とかを考慮した上であの結論に至っただけで、できるのであればやってほしい。

 二度目の渋谷の飲みの後、けっこう盛り上がって遅くなり、泊まってけよとかそんな流れになって、俺はなんの気なしに許されさんについていった。阿佐ヶ谷という場所だった。駅からちょっと歩いたところにある古めのアパートの押し入れのなかで、ひそかに大麻が栽培されているのを見せてもらったとき、俺はなんだか悲しかった。驚きとかより前に悲しさがきた。なぜなのか今でもよくわからない。押し入れの中は全面アルミシートが貼られていて、紫色のLEDランプに照らされていた。本来押し入れに入っていたものはユニットバスの浴槽に突っ込まれていて、シャワーはその浴槽の外で浴びてるらしく、便器がびしょびしょに濡れていた。なんも知らないやつから、たとえペットボトラーとか呼ばれてたとしても、俺はトイレとかはちゃんときれいにしたいタイプの男だ。それに意外と風呂だってちゃんと入りたい。eスポーツというのは十時間同じ姿勢を取り続けるスポーツだから、風呂に入らないと筋肉が固まってパフォーマンスが落ちる。ちゃんと毎日ストレッチだってしないといけない。

 なんでこんなことしてるんすかとか、まずくないですかとか、いろいろ言うべきことはあったのだろうが、何も言えなくてただヘラヘラしていた。いや、ヘラヘラというか、普通にしていた。黒い金属のパイプを勧められたが、喘息持ちでと言って断った。俺がもっとずっと若かったら、興味本位でやってたかもしれない。でも以前、考察厨のコバヤシが、いいか太郎君、薬物ってのは絶対にやっちゃだめなんだと言ってたのが頭に残ってたいた。なんかのゲームだかアニメだかの話からそんな話になったと思うが、コバヤシは妙に熱心に俺に薬物の危険性について語り始めた。なあ太郎君、薬物ってのは脳を狂わせたり人格をおかしくしたりするけど、そういうメンタルな話だけじゃなくて普通に臓器に悪いんだよ。ものすごい劇薬なわけだから腎臓や肝臓にめちゃくちゃ負荷がかかって一気にやられるんだ。背中がめちゃくちゃ痛くなるんだ、腎臓って背中にあるからさ。胃腸とかの消化器官もだめになるから、いくら食べても消化できなくなって栄養も摂取できなくなる。だから痩せるんだよ。なんでそんなこと知ってんだよと言うと、僕は見たんだ、とめっちゃ食い気味に言ってきた。見たんだ。クラブの一番前のでっかいスピーカーの前で、ジャンキーがチュッパチャプスを舐めてた。ポケットに何個も入れてずっと舐めてた。クラブにはそういうやつがたくさんいるんだ。ジャンキーはみんなチュッパチャプスを舐めてる。なんでだかわかる? もう複雑なものを消化できないからだよ。胃腸がもうだめなんだ。だからカロリーを直で摂る。一番効率いい方法しかもう彼らには残されてないんだ。いいか太郎君。君はそうやってピアスとかも開けててちょっと不良っぽいし、いつでも効率効率ってうるさいから、僕は心配して言ってるんだ。

いやいやお前クラブなんか行ってんのかよお前のほうがよっぽど不良じゃん、と言ったが、その件についてはコバヤシは何も言わなかった。いやいやそっちの方が衝撃なんだけど。何、お前、ダサいナードじゃなかったの。キモい考察厨じゃなかったの。クラブなんか行ってんのかよ。は? まじかよ。取り残された気分だったが、コバヤシはそれこそ薬物でもやってるんじゃないかと思うようなかなり真剣な眼差しで、薬物だけは絶対にだめだと繰り返した。なあ太郎君。君が僕を考察厨だと言うのはわかる。クトゥルフ神話だって全然読んでくれてないことももうわかった。もう諦めた。それに僕はそんなことは全然構わないんだ。全然怒ったりしてないんだ。だけどね。薬物だけは絶対にやらないでほしいんだ。大麻ならいいって言うやつもいる。大麻は自然なものだから依存性もないしやってもいいって言うやつもいる。数年前までは僕もその意見を支持してた。確かに大麻は自然なものだし、日本でも太古においては神聖な植物だった、だから大丈夫だってさ。でもね太郎君。大麻もだめだ。大麻をやったら次はMDMAをやりたくなる。コカインをやりたくなる。ヘロインをやりたくなる。絶対にそうだよ。そうじゃなかったとしたって、大麻をやるためだけの人生になっちゃうんだ。僕はね、大麻をやってるやつに何人か会ったことがあるんだよ。だけどみんなろくでなしだった。どこがどうろくでなしかってのは表現が難しい。でもとにかくろくでなしだった。そういう人を一人でも僕は減らしたいんだよ。

 わかったよわかったと俺は言った。やらねえよ。やる意味もねえし、やる機会もねえし。そもそも俺、部屋が臭いのが嫌で、それで煙草もやめたしな。ほんとはそれは嘘で、女に臭いと言われたから禁煙してそれが今でも持続してるというだけだったが、とりあえずそう言った。するとコバヤシは、ならいいんだと言って急にゲームに戻り、せっかく稼いだ経験値を、俺としてはありえないパラメータに全部割り振ったから、こいつほんとにマジでセンスねえなと思った。でもそのことについては特に何も言わなかった。別に、そういうプレイが好きならそうすればいいと、その時はもうそういう心境に至っていた。

 許されさんの押し入れがその後どうなったのかは知らない。俺はその日は許されさんちでコーラを飲んでパワプロやって雑魚寝して、翌朝帰った。酒を飲んでもないのになんだか飲んだような気分だった。その後もLINEが来たりしたが当たり障りない対応をした。やめたほうがいいですよとか、まずいですよとか、そういうことは一切言う気はなかった。それで金を得てるのか、それとも自分でやるだけに留めてるのか、そんなことを聞きたくもなかったし知りたくもなかった。だいたい、言いたくはないけど、でも言うけど、「許されざる忍者屋敷の齟齬」っていう名前からして若干面倒な気はしてた。どこから突っ込んでいいかもわからないし、逆に突っ込んじゃったら負けっていう感じもある。

とりあえず俺は、それ以上許されさんとの付き合いを深めるのはやめた。単純にネット上で話している分には何の害もない人だからそれでいい。人には適切な距離感というものがある。ある一定の距離さえ保っていればどんな人とも適切に付き合える。人との衝突というのは適切な距離を破ったときに生じる。その距離が誰に対しても短い人もいれば、ある特定の人に対してだけ長い人もいる。俺は多分誰に対しても長い。だけどその距離さえ保っていればどんな人とも適切に付き合っていける。

俺はこの点に関してはマイルドだ。俺がやりたいことはゲームだけで、そのほかのことはどうでもいい。俺はただゲームがやりたいだけだ。一生ゲームだけしていきたいだけだ。

だから俺は問題を整理する。

俺は旋律の孔というマップからこのユーフラジー湖の高台まで、最終定理γを誘導する。そして無限増殖を試みる。できる限り早く。誰かにやられる前に必ず。目標は明確だ。やるべきことはそれだけだ。

懸念点はある。当然ある。最終定理γの出現ポイントは、この高台から遥か彼方だということだ。しかも四方を海に囲まれ断絶された洞穴だ。だがこのゲームに船という機能は実装されていない。海上の移動は想定されていない。プレイヤーは、雷玄王ヴァイス撃破後に旋律の孔に強制ワープさせられてくる。だからこの旋律の孔に徒歩で来る道というのは存在しない。この孔は世界のどこからも完全に隔絶されている。じゃあ詰んだわ。最終定理γは薄汚い旋律の孔から永遠に出られない。だからリスポーンもしない。増殖しない。せっかく無限増殖ポイントを見つけたというのに。意味ねえじゃんか。だがここで諦めんな。こうしてる間にも誰かが新たなバグを見つけてる。その前になんとか少しでも手がかりを見つけなくては。毎日一体は敵を倒している許されさんが頭の隅に浮かぶ。一ミリの前進。一ミリでいいから前進。悲しい押し入れ。もうそのことは忘れたい。これは誰かとの勝負じゃない。俺自身の問題なんだ。

 例えば魔法「傀儡」を使ってどうにかできないだろうか、と考える。これは敵に発動すると、敵が俺と同じ行動をとるようになる魔法だが、これを応用して……いや無理だ。結局俺も海を渡れない以上、最終定理γが傀儡状態になったって同じことだ。ファストトラベルしても、最終定理γがくっついてくるわけでもないしな。そもそもファストトラベルすると傀儡状態などの特殊状態は解除されてしまう。では、傀儡状態でワープバグを行えばどうなる。ファストトラベルと違ってロードし直されないから、傀儡状態も保持されるんじゃないか。俺と最終定理γと二人して、ワープできるんじゃないか。そもそもこの旋律の孔でワープバグが成功するのか。ここにそんなスポットはあるのか。どうすればいい。何から検証すればいい。

旋律の孔でひたすらリロードを繰り返し、見慣れたアイアンウィスプと対峙する。お前じゃない。お前でもない。今日も五時間やってるが最終定理γとは会えてない。ここまで来ると、アイアンウィスプが出るたびにコントローラーを投げたくなるが、大人なのでもうそういうことはしない。ものに当たっても仕方がない。だがものに当たる人間を俺は否定しない。そうでもしないと解消できない苛立ちがあるのはよくわかる。例えば、ある洞窟の地下三十階から地下四十階を何往復もして盾を+99まで強化したというのに、ほんの一瞬の気のゆるみで、敵に俺の盾+99を弾かれる。そしてたまたま背後に居た敵にその盾+99がぶつかり、ほんの5ダメージを与えたのみであっけなく消失する。初心者がよく起こす事故だということはわかっている。そのゲームにおいてアイテムというのは、敵にぶつかるといかなるアイテムも投擲物扱いとなり、その一回限りで消滅する。たとえ故意に投げたのではなく敵に弾かれたのだとしても、そういうルールなのだから仕方ない。ゲームはルールがあるからゲームなのだ。事前に階層ごとの敵分布をよく把握しておいて、敵の特殊行動をよく覚えておいて、そういう事態が起こらないとも限らんよなと、よくよく注意していなかった俺が悪い。だがそのことと、腹が立つという本能的なことは、あまり関係していない。理性と本能を関連させられない自分がいる。こんな悲劇があっていいのか。腹が立つのを止められない。だからコントローラーを投げる。それは俺にはデメリットとしかならないのかもしれない。だがそうせずにはいられなかったのだから、もうそうするしかなかったのだ。+99まで鍛え上げた盾を一瞬で失えば誰だって腹が立つ。腹が立たないのは、そういう経験を死ぬほどしたやつだけだ。もう何度もクリアしてしまって余裕のやつだけだ。そういうやつの持つ何度も何度も死んだ経験。俺はそういう経験を重んじる。

 要は最終定理γと俺が一体化するようにすればいいんだ、と俺は考える。そうすればいい。もっと正確に言うと、この世界が俺を最終定理γだと認識するような何かを起こせばいい。その状態でワープバグを使ってユーフラジー湖の高台へ行けば、ワンチャン何か起こるかもしれない。起こらないかもしれない。だがこのままでは絶対に何も起こらないんだから、こういう思いつきは大事だ。とにかく俺自身が最終定理γになる必要がある。

そのためにはやっぱり傀儡だとか、敵と俺を関連づけるような魔法に何かヒントがありそうだ。あるいは、俺が敵の姿になる魔法「変態」とかもあやしい。考えながら、旋律の孔をうろつき続ける。なんとなく最奥部で傀儡を発動してみると、1クラウンだけ入手できるという謎仕様を確認できた。なんだこのクソバグは。俺はひたすらそこの壁に攻撃してみたりスライディングしてみたり、ジャンプした後に後退してみたりした。青いコメットや危険な樹木や横溢する力を放ち、鈍色軟膏やスカラベーションや亜記憶を使用してみた。リロードしてみた。何か見つからないか。壁が抜けたりしないか。視点がおかしくなったりしないか。ロード前とロード後の世界に齟齬が生じ、分岐したりしないか。しないのか。また傀儡を発動してみると、やはりなぜか1クラウンだけ手に入る。俺を馬鹿にしてんのか。レベル999の俺を。

 いや落ち着け。考えてみろ。俺はモンスターエナジーを飲み、心を落ち着ける。傀儡よりも変態のほうがまだ可能性がありそうじゃないか? というのも、俺が変態している間は俺という判定は消え、俺は実質的には敵になっているはずだ。だからこそ変態状態のまま俺が死亡した時、敵がドロップするはずのアイテムを俺がドロップするんだ。以前、変態状態のまま死んだ俺は、「馬草」を落としたことがある。可能性に賭けてみよう。この旋律の孔から最終定理γを脱出させられない以上、自分自身が最終定理γになるしか道はないのだから。そしてそれを実現できそうな方法はおそらく魔法「変態」しかないのだから。

俺はまた最終定理γに遭遇すべくリロードを繰り返し、死ぬほどアイアンウィスプを見た三時間後、とうとう最終定理γに再会する。そこで変態を放って最終定理γの姿となり、その姿のまま旋律の孔を隅々まで探索する。左右に分岐している道があり、そこが位置的によさそうだ。分岐の中央に立ち、スライディングを三回した後に素早く下キーを連打することで発動するワープバグを試みる。ワープ後の進行方向をしっかりユーフラジー湖の高台の方角に合わせた上で試みる。実際、旋律の孔というダンジョンは広大な海の中心にあるので、どこへでも向かえる。四方八方に一切遮蔽物がなく、どの地点へもひらけている。最終定理γがこの地にいることに何か意味があるはずだ。そう信じたい。そう信じるその思いの質で現実を歪めたい。その歪みから独自の意味を引き出したい。ここに賭けることで思いもよらぬ結果をこの目で見たい。旋律の孔の奥の岐路で、何度もワープ発動に失敗し、三十二回目、とうとうワープが成功する。周囲の汚れた壁がただのテクスチャーを貼った薄いポリゴンになり、俺はカクカクした海と空を突き破ってそのうち姿も消えて、ざらざらしたただの影になり広大な空白を飛び越える。ラフな輪郭線となったハーキマー山脈の嶺に、極めて低い確率で出現する吟遊詩人ルーがいて、金の額縁を抱えている。レアだ。完全にレアだ。俺は照準を合わせた先、ユーフラジー湖の高台へ到達する。俺の姿は崩壊している。変態した最終定理γの姿をもう留めていなくて、手足のポリゴンがひしゃげ、関節が極端に細くなって、昔美術室で見たようなデッサン用の人形みたいに裸だ。うかがうように、なにかを壊してしまわないように――そのなにかがなんなのかはわからないが――ごくごくわずかにコントローラーのスティックを傾けて移動させてみると、俺の姿は明滅する。ちかちか瞬く俺はなんとか丸岩のそばに立つ。この俺はいまこの世界にとって何なんだ。俺なのか。最終定理γなのか。いまこの世界は俺をなにとして読み込んでるんだ。明滅する俺。ノイズをまとった俺。俺を最終定理γとして認識してくれ。なんでもいいから俺を最終定理γとして認識して増殖させてくれ。リロードする。画面が暗転する。俺が二人に殖えている。丸岩のそばで、もう最終定理γの姿は消えていて、本来の姿である俺が二人に殖えている。リロードする。4人。リロード。16人。リロード。俺16人と240人分の経験値。リロード。俺16人と65520人分の経験値。リロード。俺16人と42億9496万7280人分の経験値。リロード。リロード。リロード。メニュー画面をひらいて所持品を確認すると、見たことのないアイテムが一種増えている。「汚穢の極み」という名称だ。999個入手している。選択してみると、説明欄にもやもやした黒い霧のようなグラフィックが映し出された。〈この世の汚穢のすべてを閉じ込めた核。汚穢の中にしか生きられぬものもまた存在する。明らかに存在するものに対してそれは存在しないと否定することは決してできない〉

 崩壊したポリゴンの欠片となった俺はそれを、墓地街の外れにいるどぶさらいのもとへ持っていく。〈汚穢の極みを奉納する〉というコマンドが出るので実行する。個数を問われる。999個奉納する。どぶさらいは痩躯を痙攣させて言う。ああこいつを持ってきてくれたんですかい。わざわざあたしなんかのためにねえ。この世界のすみっこでどぶをさらってる浅ましいあたしなんかのためにねえ。だけどあたしが誰より尊いってことはあたしが誰より知っている。あんたにも教えてあげよう。さあヘンリケ様のところへお行き。あんたを待ってるはずだよ。

 ヘンリケの元へ行くと瞼の楔が解かれていて、ヘンリケは緑の瞳を生まれて初めてあけている。そして言う。お前は世のことわりを理解したのか。誰にも理解できぬものを理解したのか。そして汚穢のすべてをその身に引き受けたのか。それこそが契り。この世に正しいも誤りもない。今こそいにしえの猿が解き放たれる。そして歪みというものがなんであるかをみなに示す。叡智の青い炎がどこまでも燃え上がり天を焦がし、やがてすべての質を融かしてゆく。それでもお前は知るということを決してやめない。行かないのか。最後のルナハイヴゲートがお前を待っている。そしてお前もまた最後のルナハイヴゲートを待っていた。

お前はふるえている。そうでなくてはならない。

ゲートに入る。目の前が光につつまれる。どこまでもはてしなくモニタはまばゆくひかっている。



 1424万年後、マイルドアビス第一開発部メインプランナーの母親の生命維持装置が停止する。1424万年の間に別種の命を獲得した彼女は、白い大地にそのかかとをつける。白い大地といっても、仮想空間のひらけた空白に定義された大地、重力を規定する面、なんのテクスチャーもないプレーンなポリゴンだが。触覚というパラメータを備えていない旧式の世界で、母親は遠くに見える鋭角のオブジェクトの周りに四角いバウンディングボックスが表示されているのをみとめ、このオブジェクトは移動可能だと理解する。母親は山々を移動する。海を移動する。空を移動する。大地を移動する。球体を移動する。そのようにして新しい世界を捏ねていく。新しい? だがこれは何かを生み出しているのではない。何かを入れ替えているだけだ。母親は自分のつまさきが大地に落とす影を見つめる。この自分自身は実によく描画されているようだ。体の内側も空っぽじゃなく、内臓もきちんと入っている。血液さえ再現され、神経もリンパもちゃんとある。この世界の物理演算は良好だ。操作性も申し分ない。少なくとも上下という概念は有してるらしいこの世界のどこかをみあげる。さっき自分が移動したはずの空には、さっき自分が移動したはずの球が浮かび、さっき自分が移動したはずの山々には、さっき自分が移動したはずの海がかぶさっている。

わたしは歩く。この世界では歩くということができそうなのでそれをする。わたしの記憶のなかにはひとりの息子がいるが、その記憶はいま生成されたものだと知っている。一歩足のうらを地につけるごとに世界は新たに作り直される。Aにいるわたしに対応し再構築された世界。Bにいるわたしに対応し再構築された世界。Cにいるわたしに対応し再構築された世界。その連続。その連続がわたしの移動。この世界ではそのようだ。そうだとしても、わたしが母であるからには子がいたはずだ。だからいま、わたしのなかに息子の記憶が生成された。

 おはようございます、と何かがいう。

 おはようございます、とわたしも返す。それは礼儀だと思う。

 わたしは進む。なんのテクスチャーも貼られていないプレーンな面を進む。行く手に巨大な石膏の胸像が、低密度のポリゴンで生成されて地面に転がっている。あれはアリアス。あれはマルス。あれはアポロ。わたしの関節は比較的自由に屈折するため、低密度のアリアスの顎のそばに腰を下ろすことができる。そしてそこにそうする前にそこにいると既にもう知っていたその相手へこのように言う、ああいい天気ね、こんな日はあの子たちが遊んでたころを思い出すわ。

 わたしの自動口調ジェネレーターは女性・ノーマルに設定されているため、次のようには決して言わない。ああいい天気だな、こんな日はあの子たちが遊んでたころを思い出すよ。あるいは、ああいい天気じゃねえか、こんな日はあのガキどもが遊んでたころを思い出すな。あるいは、ああいい天気じゃのう、こんな日はあの子らが遊んでたころを思い出すわい。

 そんなふうにわたしは言わない。決して。

 彼は言う。ええ、そうですね。本当に。

 天気は、わたしたちがたあいない会話をするために実装された。

 わたしは微笑む。少なくとも、そうしようとする。そういう機能が実装されているかは別として。そうだとしても、触覚が実装されるまえに、嗅覚と味覚が実装されるまえに、それ以外のすべての感覚が実装されるまえに、わたしはなにものでもないものになってしまわなくては。

 アンチエイリアスをかけすぎたアリアスが溶けていく。アンチエイリアスをかけすぎた文字が溶けていく。アンチエイリアスをかけすぎた想いが溶けていく。これはあくまで、たとえばの話だ。そのようにして、何もかもが溶けていくとする。

 そうだとしても、わたしは知らない。

 わたしには関係ないことだ。〈了〉

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ルナハイヴゲート 富永夏海 @missremiss

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