(16)結末

 望月は、じっと病院の床を見つめていた。頭上からは香澄の母親の怒声が降ってくる。なんてことをしてくれたのだ。教師も生徒も、なんて学校だ。こんな学校に入学させるんじゃなかった。お前はいったい何をしていたんだ。香澄の入院した病院の廊下で、望月は香澄の両親に頭を下げ続けている。

 謝罪など形だけにすぎない。どうあっても望月の責が消えることはない。望月が何をしようと被害者の心が救われることはない。だからこれは意味のない謝罪だ。それでも望月はそうするほかない。

 三井と小林が逮捕されて1週間が経った。望月は友坂家との面会を拒否されていたが、会って話してもいいと父親から連絡を受け病院へやって来た。だが、実際に会ってみると母親からの激しい拒絶を受けることになった。

 傍らには望月の持ってきた菓子折りが投げ捨てられている。母親の罵声はフロアの端から端まで響き渡るほどだ。ここは香澄の病室の目の前だ。その声はとうぜん、香澄の耳にも届いているだろう。父親は、そんな母親をぼんやりと見ているだけだ。

 見かねた看護師が、声をかけようと近づいてきた時、すっと病室のドアが開いた。

「……入ってもらって。」

 病室には望月だけが招き入れられた。病室は個室で、香澄はそれを少し持て余しているように見える。香澄はベッドに腰かけ、望月は少し距離を空けて小さな丸椅子を使う。

 香澄の顔は半分以上が包帯やガーゼで覆われていて、表情は読み取れない。あまりの痛ましさに望月の心が締め上げられる。

 香澄本人に会えるとは思っていなかった望月が、何をどう切り出したものか迷っていると、先に香澄が口を開いた。

「昨日、結衣と葵がお見舞いに来てくれました。私の顔を見て驚いてましたよ。どう説明しようか困っちゃいました。」

 存外に明るい声だった。無理をしているのか、そういうものなのか。望月には分からない。

「学校では、何が起こっているかよく分かってないみたいですね。二人ともびっくりしてました。三井先生は急に転勤が決まって、復学したと思った小林君はすぐ転校しちゃって。二人が逮捕されたってなったら、私が被害者で、どういうことをされたかすぐ想像ついちゃいますからね。」

「それは、建前だ。学校は体面を守りたいだけだ。」

「それでも助かります。結衣も葵も、いつもどおりに接してくれましたから。」

 敏い子だ。口実と実情の境目を理解している。こんな年で?

「あと望月先生も、辞表を出したと聞きました。」

 その上、本題まで切り出してくれた。望月は情けないと思いつつもこれに甘える。

「すまなかった、友坂。今回の件は全て俺に元凶がある。三井の指導をしていたのは俺だ。あいつの本性を見抜けなかった。小林を復学させたのも俺だ。危険な一面を知っていながら、徒に功を焦ってお前のそばに連れてきてしまった。」

 望月は深々と頭を下げる。

「やめてください。先生。そんな風にしたって、先生が楽になるだけですよ。」

 静かに、全くなんでもない風に香澄が言った。ヒュッ、と望月の心臓が震えあがる。何もかも見透かされているのか。香澄の母親に罵倒されている間の、望月自身気付いていなかった無意識の安堵を指摘された。罵られる罰を享けた分だけそそがれる罪を、香澄は認めなかった。

「……友坂、お前は……。」

「先生、ご存じですか?」

 香澄が望月の言葉を遮る。

「強姦っていうのは、本心から嫌がって、全力で抵抗しないと、強姦じゃないんですよ。」

 包帯やガーゼで香澄の表情は読み取れない。

「だから私は、ちゃんと強姦されたんです。」

 望月は混乱する。何を言っているのか。ちゃんと、とはどういうことか。

 起訴するという意思表明だろうか。裁判において、女性の方から誘う態度がなかったか、などということが争点となることがある。自分は間違いなく拒否していたのだから、起訴は正当だと―――いや、違う気がする。

「私は先生に辞めてほしくないって思います。今の学校が無理なら、どこか別の学校で先生を続けてください。学校の先生の中では、私、望月先生が一番好きですよ。」

 香澄は望月に質問させる間を与えず、話を打ち切った。そして、考え得る限り最も望月に厳しい要求を突きつけた。

「……わかった、友坂がそう望むなら可能な限り沿おう。」

 香澄はこれで話は終わった、という態度だった。

 望月はもう一度頭を下げて病室を出る。出た先では、もう一度母親の激しい罵倒を受けることになった。

 だから望月には聞こえなかった。小さな小さな、香澄のつぶやきが。


 望月は病院の建物を出る。足取りが重い。振り向いて病院を見上げて、香澄の病室の辺りを探す。違和感がぬぐえない。自分はいったい何の話をしてきたのだ?

 会話の内容だけを振り返れば、暴行を受けた少女が、責任を感じる教師を健気にも逆に励ました、という美談のようにも見える。だが変だ。

 中学校に上がったばかりの少女が、短期間に3度もレイプされてあのように冷静に振舞えるものか? ベテランの教師の心情を見抜くようなことまで言ってのけた。ヒステリックに喚き散らしていた母親の方がまだリアリティがある。

 一度罹患した違和感は癌のように転移していく。今回の事件はあまりにも不自然なことだらけではないか。たとえば動画だ。小林が香澄と三井を脅迫したあの動画。引きこもっていた小林がどうやって手に入れた? 撮影したのは小林じゃないのか? 短期間に3度も。そんなことがあるのか。三井は小児性愛者だったという話だが、それでも今まで優秀な教師だった。なぜ今回ばかり衝動に屈したのか。そうだ、三井が犯行に及んだ夜、なぜ、三井と香澄は二人きりに。クラス委員の仕事が終わった後の出来事と聞いた。それならすぐ帰っていればこんなことには。まるで、教室で三井が来るのを待っていたような―――

―――本当に邪悪なのは誰だ?

 望月は脳裏によぎった恐ろしい空想を、いつもより強く頭を叩いて追い払う。

 再び病院を見上げた。今度はすぐに香澄の病室を見つける。望月はぞっと全身の力が抜けるのを感じる。香澄がじっと、こちらを見下ろしていた。

 ダメだ。これ以上、あの少女に関わってはいけない。


 眼下では逃げるように去って行く望月の姿が見える。香澄はその背を追いながら、『彼は無理だな』と思った。

 学校では人気のない教師だ。禿頭で腹が出ていて、特に女子からは大不評だ。だが素敵な男性だ。誠実で気が良く快活だ。望月は既婚者だ。彼を夫に選んだ女性は見る目があるし、きっと幸せだろう。香澄には灰色に見える。

 個室の病室は香澄には広すぎて少し持て余している。肉体の怪我よりも心の傷に配慮した、しかし過剰な孤独の空間。誰もいないこの場所では紛れるものがなく、反芻される記憶が遮られることはない。それは期待と真逆の薬効。香澄は頬に貼られたガーゼに触れる。少し押すと痛みが滲む。炎症を起こし未だ腫れの引かない表情筋はピクリとも動かない。笑いたいのに笑えない。

 見上げると、そこにはヘドロがうねる虹色の空が広がっていた。


「―――きれい。」

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