「ゾーン」に入った。けん玉で。

のざわあらし

「ゾーン」に入った。けん玉で。



「それ」は拡張された身体となり、思うがままに舞い踊った。

 飛び跳ねる赤い玉が、皿に収まり、また羽ばたいていく。俺の瞳には「それ」以外何も写らず、耳を塞がなくとも周囲の喧騒が消え失せていた。



 ──二十五年ほど前。小学生時代の「けん玉大会」で、俺はいわゆる「ゾーン」に入った。

 様々な身体活動中、極限まで集中力が高まった人間が味わう超感覚の俗称:ゾーン。オカルトや出任せではないか?と考える方も多いだろう。だが、俺はそうは思わない。冒頭で述べた通り、俺はその感覚を間違いなく経験している。けん玉で。

 さて、本稿では埋もれかけている記憶を辿りながら、そんな過去の栄光にまつわる想い出話をしよう。





 母校の体育の授業に、けん玉が採り入れられていた。

 今更けん玉の説明など必要無いかもしれないが、一応述べておこう。けん玉は単なる昔の玩具ではない。様々な技が存在する、大道芸の道具の一種だ。剣先と三つの皿、そして玉。主に五つの要素で構成されたけん玉からは、持ち方や乗せ方の組み合わせ次第で無数の技を繰り出すことができる。例えば玉の方を持ち、スイングさせた本体の剣先を穴に刺す「飛行機」。全ての皿を経由した後で剣先に球を挿れる「世界一周」。その他にも「円月殺法」「胡蝶の舞」など……名前だけでは内容を想像できない摩訶不思議な技さえ存在する。



 母校の体育における審査科目は、初心者向けの「もしかめ」一択だった。 「もしかめ」とは、大皿と中皿で絶え間なく玉を往復させ続けるシンプルな技。当然、落としたらその場で失敗となる。シビアなルールにそぐわぬ可愛らしい技名は、「もしもし亀よ 亀さんよ〜……」でお馴染み、「うさぎとかめ」の童謡のリズムに合わせて行われていたことに由来するらしい。母校ではその例に倣い、「うさぎとかめ」のインストゥルメンタルに合わせて行っていた。

 「もしかめ」に必要な動きは、けん玉を握った手首の捻りだけでない。玉の勢いを皿で受け止めるクッションとして、膝の屈伸運動も必要不可欠となる。総じて身体のバランスが要求される技と言えよう。



 運動が好きでも得意でもなかった俺は、激しい身体の動きを伴わないけん玉が大好きだった。とはいえ、その感情が上手さに直結するほどけん玉は甘くない。

 上記の通り「もしかめ」は単純な技ではあるものの、当時の俺にとって簡単な技ではなかった。玉を大皿に乗せること自体は容易だったが、そこから中皿への移行の際、玉を受け止めようとした皿で弾いてしまい、上手く回数を重ねることができない。どれだけ練習を重ねても、俺の「もしかめ」は精々三〜四回が関の山。童謡の歌詞で当てはめると「もしもし亀よ」という冒頭部分の時点で早々に脱落していた。山に登れてすらいない。



 十回、二十回、三十回……。次々と技を続けるクラスメイト達を横目に、俺は焦りに襲われた。けん玉の授業の総決算として、やがて大会が行われる。いわばテストだ。無論、テストは通知表の成績に直結する。優等生を目指していた幼き日の俺にとって秒殺は絶対に避けたい事態……。

 しかし、いくら焦ろうとも事態は変わらない。多くの生徒がドッジボールに励む休み時間、孤独に教室の隅で練習をしたこともあったが、一向に回数は増えなかった。



「今さらやってもムリだろ」

 机にふんぞり返った誰かに、悪態を吐かれたこともある。声の主の正体はとうに忘れてしまったが、向けられた悪意だけは覚えているものだ。悲しくても言い返せない。下手であることは紛れもない事実。反論の余地がなかった。出来ないものはどうしようもない。諦めてお縄に掛かろう。友人たちからの嘲笑も止むなし……。

 こうして授業でけん玉を習い始めて一ヶ月程が経ち、いよいよ大会本番が訪れた。



 俺たち児童は体育館に集結する。

 落球したら座るサドンデス形式。

 最後まで立っていた一人が勝者。

 無慈悲な大会が、遂に始まった。



 ──三回。四回。五回。もっともっと、続く、続く。

 奇跡が起きた。集中力。手首の返し方。膝の曲げ具合。けん玉そのものの挙動。全ての歯車が、本番で突然噛み合った。

 玉と皿が衝突する、がしゃがしゃと鳴り響く炸裂音。童謡のピアノインスト。周囲を流れているはずの様々な音が薄らいだ。

 純白の体操着に身を包んだ周囲のクラスメイト達。擦り傷だらけの体育館の床。周囲に存在するはずの様々な物体が、視界から姿を消した。

 本来ならば「出来た嬉しさ」で舞い上がるはずの心は、静かな水面のように穏やかだった。



 集中にも体力にも限界がある。やがて手首が疲れ、玉がほろりと落下した。

 終わったか……。そう思った時、俺はようやく気が付いた。

 体育館の時計の針が、数分間も進んでいる。そして俺の周囲を、体育座りをしたクラスメイト達が囲んでいる。皆が拍手をしている。

 立っていた生徒は、俺一人だった。





 ゾーンという言葉・概念を知ったのは、それから十年以上も後。野球選手のエッセイか、或いはスポーツ漫画か。経緯は失念してしまったが、知った瞬間「これか!」と強く納得した。

 二十五年前の奇跡……。あれは間違いなく、ゾーンに入ったからこそ成し得た出来事だろう。




 俺は歳を経るにつれ、数多のスポーツ、そして楽器や演劇など、ゾーンに入る余地がある様々な経験を重ねてきた。しかし、けん玉大会で得たものと同様の感覚は、結局一度たりとも味わえていない。

 あの感覚は、あの快楽は、幼き日に見た白昼夢だったのだろうか?

 ──いや違う。大きくなり皺が増えた俺の右手には、まだけん玉の重みが残っているから。少年期の純粋さを失った俺の心は、世界が意のままになったような、恐ろしいまでの全能感を記憶しているから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「ゾーン」に入った。けん玉で。 のざわあらし @nozawa_arashi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ