第肆話

 お妙は芳紀が長々と遊郭を離れていたことを警戒して、禿や新造に彼女を店から出さないように強く指示していた。また、女郎達の長屋近くに空いていた穴に気付き、それを塞がせた。

芳紀が目をつけたのは、塀を修理に来た左官屋であった。彼女は台所から饅頭や茶を貰って職人に振舞ながら、彼らの目を盗んで手押し車にかけられていたむしろにくるまった。固い板張りでがたごと揺れる手押し車の上は冷たく痛かったが、店から離れると、驚く左官になけなしの給金が入った財布を渡して口止めした。そして、冴え冴えと月が照らす夜道を会津へと向かって駆けた。

 街道沿いを進むと美貌の僧侶を見かけたという話を掴んだ。芳紀が予想していたとおり、彼は府中を通り抜け故郷に向かっていた、芳紀には一言も告げずに。

 己は嫌われていたのか。そんな不安を打ち払うように、簪を握る。あり得ない。嫌われていたのならば、こんな親切はあり得ない。

 芳紀は府中から離れたことはない。初めての旅。下駄を履いた足には血が滲み、膝は枯れ枝のように折れそうだ。それでも彼女は歩いた。

 夜も歩き、武蔵に入った頃。見知った僧衣の背中が見えてきた。


「安星様!」


 胸に喜びが湧き、足の疲れは消える。芳紀は知らず駆け出していた。安星は立ち止まり、待ち受ける。二人は再び向き合った。


「その方は?」

「芳紀にござりんす。見なんし。主さんを追いかけて来たでありんす」


 安星は愕然とした表情を浮かべよろめいた。


「何故ここに。府中の遊郭にいるはず」

「店からは逃げてきたんでありんす。わっちは主さんと、共に生きていきたんでござりんす」

「それはできん」


 感極まって伸ばされる芳紀の手を、安星は決然と払いのけた。拒まれた手は空しく落下する。


「言うたであろう。この身は殺めた者の往生を願うために使わねばならぬ。そのために仏門に入ったのだ」

「それはわっちも背負う覚悟」

「仏門の道に女性にょしょうは妨げとなる。その方には世話になった故、十分な返礼をと思い簪を渡したが、まさかこのように解するとは」


 芳紀は呆然と簪を引き抜く。髪がばらりと流れ落ちた。

 愛の証と思っていた簪が、手切れの品だった。ならば、全てを捨ててきた己はなんと惨めなのか。

 認められない、許せない。恋情が芳紀の身も心も焼き尽くす。他人の往生のために何故己の愛が拒まれねばならぬのか。

 簪が軽い音を立てて折れた。彼女はこのような物が欲しかったのではない、愛した男が欲しいのだ。

 狂女の姿に安星は逃げ出した。僧侶は、嵐さながらの姿で迫る女の手から逃れたい一心で海に飛び込んだ。芳紀も後を追う。

 荒波に揉まれ二人の距離は離れてゆく、芳紀がどれほど手を伸ばしても届かない。


「わっちが鯨でありんせば。この波を渡れましょうに」


 振り向いた安星の目に、黒ずんだ芳紀の姿が映った。その肌はざらつき、みるみるうちに膨らむと家をも呑み込む鯨に変じた。

 巨大な口が開き、大渦が藻掻く僧侶を捉え、たちまち鯨の腹に男を流し込んでしまった。

 芳紀は腹がかあっと熱くなるのを感じた。愛しい愛しい男が己の中にいる、やがては芳紀の一部となる。一体となった二人が離れることはない。愛を拒まれることは決してない。なんと素晴らしいことか。

 芳紀は高々と潮を吹き上げると、大きく尾を一振りして海に潜る。陽の光が水面を照らし、きらきらと輝く。銀の魚たちは逃げ惑い、彼女の行く手を阻む者は誰もいない。どこまでも続く海原が広がるばかり。

 己を囲む塀はもうない。煩わしい男どもに虐げられることもない。

 自由。

 この身に安星を宿し、どこへでも好きなところへ行ける。歓喜に沸き立ち、悦楽の火照った身体は大海でも冷ますことはできない。

 どこからか澄んだ笛の音が聞こえた気がして、芳紀は巨体をくねらせ舞い踊るのであった。

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楼破り 黒中光 @lightinblack

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