28



「ただ、もし……もし良かったらでいいんだけど。来れない日とか、遅くなりそうな時は連絡して、くれると、ありがたい」

「……」

「あっ、でも!これは、あの!事故とか、あってないかなって不安に、なるから……だから」


 最後は消え入るような声で口にされる言葉に、俺はいつの間にかマスターの左の目尻に見える泣き黒子へと思わず触れていた。


「っへ、あ……な、な、なに?」

「いや、泣いてるかと思って」

「泣いてないっ!」


 焦ったマスターが俺からスルリと離れていく。熱い。マスターの顔も、そして俺の体も。真っ黒な瞳に俺の姿が映り込む。やっぱりマスターの顔は、全く好みじゃない。でも、それでも、ハッキリと思ってしまった。


「ともかく、そんな本必要ないから。ただでさえ赤字なのに、無駄遣いすんな」


 可愛い、と。


「……うん」


 素直に頷いたマスターは、すぐにパソコンを開くと、カートに入れていた本を取り出した。一体、どこまで素直なんだ。この人は。


「出した」

「……それでいいよ。もう変なモン買おうとしない。無駄な出費を減らすところからやんないと」

「ん」


 信じたくなかった。

 本当に、好みの端にすら引っかからないような平凡塩顔で、それこそ三日も会わなかったら忘れそうなこんな男に。でも、俺はこの無様な大人が、俺以外のイヤな奴に搾取されるのも、支えられるのも見たくないと思った。


「マスター、ちょっと明日、色々試したい事があるから……朝から来るから」

「わかった。俺も、早めに来るようにする」

「あと、仕事の事で夜も連絡するだろうから。いつでも出れるようにしておいて」

「うん、いつでもして」


 コクコクと素直な子供のように頷くマスターに、俺は自分の口からペラペラと出てくる嘘八百に思わず笑いだしそうになった。いや、別に嘘ってワケじゃない。本当にこの店の為なのだ。

 でも、ソレはただの「口実」に過ぎない。


「あ、店の合鍵も要るなら渡しとこうか?」

「……は?」

「俺が居ない時でも、寛木君が店に入りたい時とかあったら困るだろうし」


 何を言いだすかと思えば。一介のバイトに、まさか店の合鍵を渡そうとするなんて、どうかしている。


「あー。じゃあ、まぁ。貰っとこうかな」

「うん、わかった。ちょっと待ってて」


 マスターは軽く頷くと、そのまま店の奥まで走って行った。少し、嬉しそうだ。


「フツー、店の鍵まで渡そうとするヤツがあるかよ」


 信用されていると嬉しくなる半面、不安になる。


「なに、マジでなんなんだ、あの大人」


 一人にしとくと、すぐにヤバイヤツまで店に招き入れそうで怖い。どうやったら他人にあぁまで腹を見せられるようになるのだろう。でも、更に堪らないのが、開けっ放しになった通販サイトの本の購入履歴だ。


「なに買ってんだよ……ほんと」


≪LGBTについて~知る事で差別はなくせる~≫


 なんだかもう、ほんと。こういうお人好し過ぎるところが、店の経営を軌道に乗せれなかった所以かもしれない。ともかくマスターは、情に厚すぎる。客も、従業員も数字として見れていない。だから搾取される。


「っはぁ。俺が、なんとかしないと」


 あの人の〝やりがい〟を、これ以上、客にも社会にも搾取させたりしない。そう、パソコンに映る購入履歴を前に静かに思うと、マスターがこちらに戻ってくる音がした。


「寛木君、取って来たよ」

「あ、うん」


 とっさに、パソコンから顔を上げる。さすがに、これは揶揄う気にはなれない。


「無くさないようにキーホルダー付けてきた」

「あいあい、ありがとね」


 奥から合鍵を取ってきたマスターが、俺に鍵を差し出してくる。よく見ると、鍵にはコーヒー豆のキーホルダーが付いていた。俺の視線に気づいたのか、マスターは嬉しそうに真っ黒な目を輝かせた。


「これ、グアテマラの豆だよ。この堀りの部分が特徴なんだけど……」

「うわ、めっっちゃどうでもいい」

「もう、少しくらい一緒に話を転がしてくれたっていいじゃん」


 ムスリとした声と共に、マスターの水仕事でカサついた手が俺の手にソッと触れる。その微かな触れ合いだけで、妙な満足感と胸の高鳴りを感じるのは、やっぱり俺が完全にオチてしまった事を意味するのだろう。

 いや、マジで信じたくはない。でも、悪い気分じゃないのがまた悔しい。


「やだね」

「ケチだなぁ」


 クスクスと笑いながら離れていく手に、微かな寂しさを覚える。

 あぁ、サイアクだ。またノンケを好きになってしまった。いっつもこうだ。でも、まだ俺は失敗していない。今度こそ、失敗したくない。


「寛木君」

「ん?」


 いつもより意識して返事に優しさを込める。そうしないと、俺の口はすぐに憎まれ口を叩こうとするから。でも、きっとこのマスターはそんな俺の微かな変化など気付きもしないのだろう。


「この店。大丈夫かな。まだ、間に合うかな」


 どこか不安そうな表情で尋ねてくるマスターに、俺はジワリと視線を逸らした。自覚した途端、下手に目が合わせられなくなってしまった。だから、マスターの泣き黒子に視線を向ける。


「まぁ、今から頑張ればイケんじゃない」

「そ、そう思う?本当に」

「爺ちゃんに感謝しなよ。土地と店を受け継げてなかったら、多分無理だったろうから」

「……え?」


 そう、ともかく〝ハコ〟を必要とする商売の殆どは、そのハコの維持費が支払えなくなって店を畳んでいく。客足の増減が常に読めない飲食業は、特にその傾向が大きい。〝固定費〟をどれだけ安く抑えられるかで商売の寿命は変わると言っても過言ではないのだ。


「……そっか」


 俺の言葉に、マスターは何故か目を伏せると、片手でノートパソコンを閉じた。どうしたのだろう。さっきまでの明るさがプッツリと消えた。



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