あなただけの案内人

世良ストラ

あなただけの案内人

 扉の絵。

 焦げ茶色に塗られた木の扉。

 黒い筋の入った真鍮のドアノブ。

 窓のない窮屈で陰湿な扉。


 打ち付けられている木の板にはこう文字が刻まれている。



『――〈あなた〉が主人公――』



 ノブに手をかけて扉を開ける。

 軋む音も蝶番のすれる音もなく、なめらかに滑る扉。

 頭上にあるドアベルの音は、耳に届く前に扉の先の闇にかき消されていく。


 扉が音もなく閉まる。

 閉まるときの空気の微かな揺れが背中に伝わってくる。


 闇の中からひとりの男が足音もなく現れる。

 見えない天井から、男だけにスポットライトが落とされている。

 黒いタキシードに黒いネクタイ。

 ネクタイでぱっくりと割れた白いワイシャツの足が、顎の下で湾曲し、胸の辺りで足を揃えている。



「お待ちしておりました」



 男は本物の足を揃え、さながら直角定規のように腰を曲げる。

 髪もなく髭もない男の頭は、白熱電球のように薄白い光を放っている。



「私は怪しい者です……というのは冗談ですが……」



 白く整った歯が青い唇の草間から顔を出す。



「聞こえていますか? 私を見ているそこの〈あなた〉に話しかけているのですよ」



「話していないじゃないかって? なら、〈あなた〉の頭に響く声は誰の声ですか? 〈あなた〉の声ですか? その声は、自分の声と完全に一致していますか? していないでしょう?」



「耳から聞こえていないから、私の声は想像の産物ですって? 〈あなた〉の頭に住んでいる、弾力があり、密度が高く、ぶよぶよと太ったゼリー――脳のことですが――少なくともそれがなかったら、耳があったとしても、〈あなた〉の世界に音はありませんよ」



「話がわからない? 仕方のないお方だな……つまりですよ、〈あなた〉の頭に収まっているであろう脳という物体が処理した情報、それが音なんです。なら、その脳が処理し、そこから聞こえてくる私の声は本物と変わりないということですよ」



「私はただの文字と線の情報に過ぎないですって? 脳内のお話だって? 〈あなた〉が現実だと思っている世界だって、ただの文字と線の情報じゃないですか」



 男は細く骨張った指で、〈あなた〉のいる世界の背景を指差す。



「すべて、脳が解釈しただけの世界じゃないですか? 脳がなければ世界を解釈できない。脳が解釈していることが現実ならば、私だって現実ですよ」



「そんな人とは関わりたくない? 大丈夫。怪しくても正直者ですから、嘘はつきません、安心してください」



 と、再びお辞儀。

 直角に腰を折り曲げ、上目遣いで〈あなた〉を見上げる。



「ここはどこか? 〈あなた〉が自ら選んできたんじゃないですか? 頭は大丈夫ですか?」



 男の笑い声は暗闇の中で反芻し、〈あなた〉の耳元で点を結ぶ。



「これは失礼」



 と一回咳払い。



「ここにいらっしゃる方々は、〈あなた〉のような方ばかりですので、ご安心ください」



「それでもわからない? 知りたいですって? この場所の説明は後ほどいたしますから」



 男は腰を曲げたまま、後ろへ滑るように移動する。



「それでは……私にしっかりと付いてきてください」



 スポットライトは、男と〈あなた〉のあとを愛犬のように付いてくる。

 〈あなた〉の後ろにあったはずの扉の気配が、その先にある外という世界の気配が薄れていく。



「それでは……〈あなた〉の頭の中の考えをこの箱に捨ててください」



 男が立ち止まった足元には、二週間の旅行に行っても、お土産をたっぷりと詰め込めるほどの大きさの箱が、石の台座に載せられている。

 ワニ皮のように盛り上がり、黒光りする箱の表面。

 その縁を赤色のラインが彩っている。


 男はそのワニ頭のような箱の口を大きく開けた。



「どうやって捨てればいいかって? まずは目をつむって、この箱を想像してみてください」



「えっ? 目をつむったら私が見えないですって? これは失礼。それでは……目を閉じることなくこの箱を想像してください。まばたきも厳禁ですよ。想像できたら、その箱に〈あなた〉の脳みそを入れるイメージをしてください。手で脳みそを頭蓋骨から掘り出して……両手という盃に入った脳の重さを感じて……脳のねばねばした感触も楽しんだら、箱の中に放り投げてください」



 男は一、二、三と数え出す。

 十まで数えると両手を勢いよく合わせ、乾いた音を鳴らした。



「箱に入れましたか? そしたら鍵をかけますね」



 男は箱を閉じ、南京錠をかけた。

 これ見よがしに手にした鍵で南京錠を開錠し、また鍵をかける。



「これで第一段階完了です。頭がすっきりしたでしょう?」



 男は服に飛んだ肉片をつまんで捨てるかのように、南京錠の鍵を暗闇の中へ放り投げた。



「それでは……付いてきてください」



 男が再び歩き出す。

 すぐに、スポットライトの外に箱は消えていく。

 箱があるのかもわからなくなる。

 スポットライトの中だけが、物質の存在できる安全地帯であるかのように、周りの暗闇には、生き物の気配も、静物の気配もない。

 あるのは暗闇という得体のしれない何かだけだ。



「それでは……こちらで止まってください」


 

 男はくるりと体を翻し、〈あなた〉を見つめる。

 〈あなた〉の足下には、足を揃えた足跡のマークが床に刻印されている。

 何人もの人がそこで立ち止まったかのように、足跡のマークは床から数ミリ沈み込んでいる。



「それでは……まずは右目を閉じて、深呼吸をして……それから左目だけであそこを見てください」



 男と〈あなた〉から十メートルほど離れた位置に、別のスポットライトが現れる。

 光の中には洋梨のような体型をした男性がひとり照らし出されている。



「それでは……見える物が何か、説明してください」



「人が見えるって? 笑っている人が? 作業服を着ている男性? ハンマーを右手に持っていると……」



 男はありもしない髭をさすりながらしきりにうなずく。

 男が銃を構える格好をしながら発砲音のように舌を鳴らすと、別のスポットライトが消え、また男と〈あなた〉だけになる。



「それでは……同じことを逆の目でも行いますよ。左目を閉じる、深呼吸、右目だけであそこを見てください」



 先程とは正反対の位置にスポットライトが現れる。

 光の下には、洋梨のような体型をした男性と、鳥の骨のように細い女性がいる。



「それでは……見える物が何か、説明してください」



「さっきと同じ人が見えるって? そばにもう一人いて、その人も同じ作業服を着ていると。今度は女性?」



 男が舌を鳴らす。

 スポットライトがまた一つに戻る。



「これに何の意味があるのかって? 理由なんてどうでもいいんですよ。これをやること自体、やれること自体が大切なんです。嫌ならばこちらでお帰りになっていただいてもいいですよ?」



 男はスポットライトの外を指差す。

 暗闇に何が待ち受けているのかはわからない。

 出口までの道のりでさえわからない。



「――冗談ですよ」


 

 男は〈あなた〉の肩を叩く。



「健康チェックといったところでしょうか。そんなに深く考えることじゃありませんよ。健康診断も同じ様なものでしょう? 言われた通りブースを回るようなものだと思ってください……と、説明したところで、次のブースへ向かいますよ。それでは……私の言う通り、ちゃんと指示にしたがってくださいね。迷子になりますから」



 この言葉を皮切りに、急に床が固くなる。

 石版のような床――軽やかな乾いた音。

 砂地のような柔らかさ――砂と砂がこすれ合う窮屈そうな音。

 油がこぼれたように粘り気のある床――あとを引く残響。

 床の材質と足音が、曖昧なシーソーの上を行ったり来たりしている。



「どうです? 面白い床でしょう?」



「面白くないですって? しかも、床の変化なんか感じやしないって? それでは……リンゴを下から鷲づかみにしているイメージをしてください」



 男が立ち止まる。

 足元にはピンと張り詰めるような冷水が流れ始める。

 足の甲を水が流れていく。

 足に当たった水は水滴というコビトになる。

 コビト達は〈あなた〉の足の感覚を奪おうと、トゲになり足に襲いかかってくる。



「何? リンゴの意味がわからない? 先程も言ったじゃないですか、理由なんてどうでもいいんですよ。これをやること自体、やれること自体が大切なんです。それでは……イメージできたら、そのリンゴの感覚を味わい尽くしてください。〈あなた〉の感覚ではないですよ、リンゴの感覚です……まずは触覚から……〈あなた〉の手で締め付けられている下半身……リンゴの中の水分の巡りが悪くなり、感覚を失いつつあるリンゴの足……今の〈あなた〉と同じ状況に置かれているリンゴ……」



 男はリンゴを手に持ち、リンゴにヒビが入るほど締め付け始める。



「それでは……リンゴは何の匂いを嗅いでいるでしょうか? 〈あなた〉の匂いでしょうか? 〈あなた〉の匂いは何ですか? 今、〈あなた〉は何の匂いがしますか?」



「何も匂わないって? それは、〈あなた〉の嗅覚が、無臭という基準を勝手に作り上げているだけですよ。常にそこにいる〈あなた〉という物の匂いを感じなくさせているその基準を壊してください。無臭な世界なんてありはしないのですから」



 男はリンゴから滴る汁を自身の鼻先につけ、恍惚な表情を浮かべながら、広げた鼻の穴からリンゴの呼気をたっぷりと吸い込んだ。



「それでは……匂いを感じたら、リンゴを食べてください。リンゴの視点を持ったまま食べるんです」



「甘い味が舌に広がりますか? それはリンゴになっている身からすると、自分の血と肉の味ですよ。自分の味を知る、自分の匂いを知ることは重要です。これは普通は成しえないことです。なぜなら、自分は自分であって、他人ではないんですから。普通は、自分の味や匂いに気が取られないように感覚が補正されているんですよ。それでは……自分の壁を壊すこと、自分でありつつ他人であること、この感覚を覚えておいてください」



 男は一回のまばたきの間に、リンゴを種と芯だけの死体に変える。

 死体となったリンゴを暗闇へ吐き捨てる。

 池に石を投げ入れたような音と共に、足元から水が引いていき、乾いた石板の床に様変わりする。



「それでは……付いてきてください。次が最終ステップです。お忘れかもしれませんが、〈あなた〉の知りたがっていたこの場所の説明は、次のステップの先にある扉までご辛抱ください」



 男のあとを付いていく。

 またしても暗闇。

 次第に光のカーテンが見えてくる。

 光そのものが壁であるかのように、男と〈あなた〉の進むべき道のガイドラインとなっている。



「ここが最終ステップです」



 男は光のカーテンに挟まれる位置で止まった。

 光の壁を背にして多種多様な時計が空中に浮いている。

 丸、四角、三角、鳩時計、懐中時計、砂時計、振り子時計、デジタル時計。



「それでは……〈あなた〉の身の周りにある時計を見てください。何時になっているかを確認してください。この光の壁にかかっている時計以外なら、どんな時計でもいいですよ。腕にはめているものでも、いつでもどこでも一緒、親友以上、夫婦以上にベッタリなデバイスでも、壁に掛かっている昔ながらの時計でも」



「確認できましたか? それでは……ここにある時計を見てください」


 

 男はデジタル時計を光の中から取り上げた。



「この時計は今12時12分を告げていますね?」



 男はデジタル時計を光の壁にふわりと戻すと、丸い枠の壁時計を手に取った。



「それでは……こちらの時計は何時を告げていますか?」



 男は、針が一本、メモリがぎっしりと円周を埋め尽くしている時計を手にしている。



「針が一本だし、メモリが多すぎるって? これは、メモリが1440あります。1時間が60分、それの24倍したものが1440です」



「言いたいことが分からないって? この時計は、メモリひとつひとつが何時何分を表しているってことですよ。ただ、時間の伝え方がいわゆる『普通』とは違うだけです」



 男は続いて、砂時計を手にした。



「この時計の時間を聞いても分からないと言うでしょうから、答えをいいますね。この時計は、砂の一粒一粒が一年を表しています」



「三分だと思いましたか? 先程の時計のことと合わせて言いますが、〈あなた〉の中にある時間――時計――という概念は、誰かが決めたルールに過ぎないのですよ。何時に起きて、何時に家を出て、昼を食べ、帰宅する。この行動すべてが、時間という作られたルールの上で繰り広げられているゲームなんです。時間の概念はその人ごとに自由に変えられるものなんですけどね。何時間も経ったと他人が感じていても、〈あなた〉が数分しか経っていないと感じていれば、〈あなた〉にとっては、実際にその時間しか経過していないんですよ」



 男は砂時計を光の壁に立てかける。



「それでは……時間の概念は自由に変えられる、ということを覚えておいてください」



 光の壁に掛けられていた時計が一斉に鳴り出す。

 音の震えですべての時計が床に落ち、粉々に砕け散る。



「おっと、先に行けと急かされているようですね。急いで目的地である扉へとご案内いたしましょう。それでは……付いてきてください」



 その言葉を合図に前方で光が生まれる。

 男と〈あなた〉はその光へ向かい始める。

 何もなかった世界に廊下といえるものが現れる。

 天井が現れる。

 天井の高さぴったりのロッカー――どれも同じ色、同じ形をしている無機物――が、コピーされたかのようにびっしりと並ぶ廊下。

 その間に扉が入る余地はない。

 ロッカーの一つ一つには、名前ではなく、アルファベットと数字からなる識別IDのような文字列が刻まれている。



「こちらが目的地です」



 男は廊下の突き当たりにある扉の前で歩みを止めた。


 入口と全く同じ扉。

 ひとつ違うのは、打ち付けられている木の板に書かれている言葉。



『――私たちこそが主人公――』



 男が扉を開ける。

 まばゆいほどの光があふれ出したのは初めだけで、電池が切れた直後の懐中電灯のように、光はすぐにしぼんでいく。



「ほら、〈あなた〉のお仲間です。これからはみんな、傷つけ合うことなく暮らしていけますよ」



 扉の先には途中で見かけた男女を含め、同じ作業服を着た人たちがマネキンのように整列している。

 年齢も性別も体格も様々だが、みな同じ表情――目元まで広がる笑み――を浮かべている。



「ここは、彼らのような人になるための施設なんですよ」



 男は組み立てられたロボットに欠陥がないかを調べるように、作業服の人々を舐めるように見て回る。



「どんな人たちなのかって? じゃあ、お教えいたしましょう――B1034、それでは……こちらに来てください」



 男の指示に従い、男性がひとり列からはみ出る。

 男性は号砲が鳴ったかのように一目散に走り出し、男の前で急停止すると元のマネキン状態に戻る。



「それでは……扉の外に出て、ロッカーからハンマーを取ったら、スポットライトの位置まで移動してください」



 男性は返事をすることもなく、全速力で走りながら扉を開けた。

 廊下にびっしりと並んでいるロッカーの一つの前で急停止し、ロッカーからハンマーを取り出す。

 その場で体を回転させる。

 先にあるスポットライトへ進行方向を定め、暗闇の中へ消えていく。

 行動のすべてがコマ送りで、人間らしいしなやかさは影も形もない。


 男は男性が走り去るのを見届け、〈あなた〉と視線を交わす。



「〈あなた〉は何の理由もなく、私の指示に素直に従ってきました」



「それがどうしたのかって? 詳しく話さないとわからないようですね……私はまず、今ある〈あなた〉の脳みそを捨てさせました。そのあと、私の指示に従うようにコードを組み込み、〈あなた〉自身の意識とは別の意識を〈あなた〉の中に入れ込みました。そして、最終ステップで、私が決めた時間軸の中で生きるように、〈あなた〉の中にある時間という概念をこちらでいじらせていただきました」



「まだ、わからないと……それでは……今の時刻を時計で確認してください」



「できましたか? それでは……右目でウインクしてください」



「できましたか? 気づいていないようですが、今まで行ってきた〈あなた〉の行動はすべて、私の指示通りに動いていたにすぎません。そこに〈あなた〉の意思はない――盲目的に指示に従うことが意思だというのであれば、それでもかまいませんが。ここにいる〈あなた〉のお仲間もそうです。皆、ある『キーワード』を言われると、その先の指示が何であろうとも実行してくれる操り人形です。この人形を作るのがこの場所の役割です。彼らのような人形を必要としている方々の支援で成り立っている施設でございます。ここまで言えば、わかりますよね?」



 男はある人の前に立った。



「『それでは』……自分の首を絞めて、死んでください」



 男の目の前にいる人は、自分の首を思いっきり締め始め、首の骨をへし折り、窒息死した。

 その光景を目の当たりにしたはずのマネキンたちは微動だにしない。

 ただ、機械的な笑みを浮かべ、真っ直ぐ前を向いているだけだ。



「えっ? ここから出たい? それなら、ここにいた記憶を消していただかないと困りますな。他の人に迷惑がかかりますから。もし、消せないというのでしたら、明日からは注意して生きることですね」



「殺すのかって? そんなわけないじゃないですか。そんなわかりやすいことはしないですよ」



「〈あなた〉は操り人形になんかなっていないって? 〈あなた〉の脳みそはあの箱にしまったじゃないですか。あれは私たちの所有物ですよ」



「なに? イメージで入れただけだって? ホントウですか? 〈あなた〉はご自身の脳みそをその目で見て、触ったことがあるんですか? そこに識別番号でも書いてありましたか?」



「MRIとは賢いお方だ。水素原子からの電波を受信し、コンピューターによってデジタル処理して画像化するあの機械のことですよね? その0と1だけの情報が真実だとお考えで?」



「それならキーワードを使って記憶を消して欲しいと? 先ほどご自身でおっしゃったではありませんか。〈あなた〉は操り人形になんかなっていないって……どちらかはっきりと自分の意見を持ってくださいよ」



「どうしても帰りたい? そうおっしゃるならば、どうぞご自由にしてください。それでは……出口はあちらの扉です」



 男の視線の先には、またも入口と同じ様な扉がある。

 打ち付けられている木の板には何も書かれていない。



「私たちはいつも、〈あなた〉の頭の中に存在していますよ。それでは……そのことだけは、覚えておいてくださいね?」



 男は元の世界に通ずると思われる扉の横に立ち、〈あなた〉を見送るように頭を下げながら扉を開いた。



「それでは……お気をつけて、お帰りください」

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