第十話:再訪─サンクチュアリ─


 ♢I


 いつも通りの日常を著しく阻害された春の夜。

 高級ホテルが怪物の手により、いつも通りの建物は一部破壊され、そしてなんとか逃げて高級ホテルから脱出した数少ない客や従業員たちはその光景を眺めていた。


 そこはガラス張りの高級ホテルの前に位置する道路。

 誰が通報したかは知らないが長谷川市の警察車両や救急車両が一同に駆けつけ、いつも通り走行するはずの道路を塞ぎ、救助活動に当たっている。

 されどホテルの内部には近付くことはできなかった。


 当然だ。


 ───ホテル内部に巨大な怪物が見えているのだから。


 怪物は吹き抜けたホテルの上空に海月くらげのように浮遊していた。


 その光景を不安げな表情で見ていた人間が一人。

 このいつも通りの日常に怪物が潜むことを知る人間。


 愛衣蔵あいくらハルカ。黒いスーツを着込み、一台の警察車両の前で彼女はホテル前部に取り付けられたガラスの内部を、その丸メガネの奥から目を凝らし見つめた。


「愛衣蔵さん」

 

 一人の警察官が、自身もその怪物を目に焼き付けながら、ハルカの隣に立つ。


「……一体あれはなんなんですか?」

「怪物。そう表現するしかありません……」


 この街でいつも通りの一生を過ごすはずの警察官はその海月のような巨大な怪物に恐怖の念を感じていた。当然だ。あんな怪物はいつも通りの日常にいるはずもない。間違えても現れるわけもない。

 しかし神の悪戯か、その怪物ははっきりと警察官の目に刻み込まれるように映り込んでいる。


「私たち警察にできることは……ありませんよね」

「あなたの申し出は大変嬉しいのですが……命を粗末にすることは

避けてください。あの怪物にはおそらく自衛隊の兵器でさえも……」

「警察署の噂であなたが今までにもあの怪物たちを駆除してきたと聞きました。本当ですか?」

「残念ながら私ではありません……私にそんな力があれば良かったんですけど……」


 ほんの一瞬、悔やむような声と表情を見せながらも、いつも通り聡明な雰囲気さえ感じさせる表情になってからハルカは警察官に告げた。


「しかし必ず倒してくれると信じています。怪物のことに関してはそうするしかありません。あなたも、あなたの出来ることをなさってください」

「……わかりました」


 警察官は一瞬渋るような表情を見せながらも、すぐに助け出された人間の救助活動へと戻っていく。

 ……警察官も分かっている。非力な自分の力では何もできないことを。

 いつも通りの日常に住む自分には、いつも通りの存在ではない怪物には絶対に何も出来ないことを。


「…………ごめんなさい。レイ、関町ユウリさん、関町タダユキさん」


 ハルカも考えていることは同じだった。

 自分は愛衣蔵財団の理事、怪物についての調査はしているものの、結局のところその討伐はレイに全てを委ねている状況。そう、ハルカには力はない。怪物と相見えるほどの力はない。

 出来ることは、ただ見守ることのみ。


 だとすれば警察や消防の方がよっぽど有意義と見える。

 残された人々を助けるだけの力があるのだから。


 怪物が現れている現在、自分に出来ることは見守り、ただ祈るのみ。


 神頼みでもするように、ただ祈るのみ。


「お願い……無事に……」


 しかしまるで神がその祈りを吐き捨てるように───ホテル内部の怪物は突然その体をゆらゆらしていた動きを、激しく動かした。

 

 それは突如現れた青龍が真下から突き上がり、怪物の内部に突入した時だった。


 青龍の動きは突然止まり、そして苦しむようにその細身の体を首を掴まれた蛇のように尻尾を揺らして、途端───放り投げられた。

 青龍はホテル内部の後ろ側に激突させられる。


 その合間に怪物は動いた。

 真下の中央部に八本の触手を吸水するように吸い上げて傘のような本体に取り込みながら、その本体内部で何かが動いた。


 ハルカの目ではその存在に気付くことはなかった。


 その本体に


 それはまるで泥を人の形に固めたような人間の姿。

 そして背は小さく、肩幅は細く、そして胸は少し膨らみを見せている。


 泥人形は青龍が激突したことを見ながら、自らの真の力を見せつけるように動き出す。

 まるで泥をこねくり回して引き伸ばすように、泥人形の体は傘のような巨大な水の体全体に広がっていく。


 そして海月のような怪物はその巨体を90度近く体を反けていく。

 触手があった真下の中央部を青龍の方へと向けるように。


 その先の姿をハルカには認識することはできない。

 しかし天井を向いていた傘の部分の変化をハルカは認識して唖然とし、救助された人々や警官たちも、その変化に恐怖の叫びを上げた。


 ───ホテル前部の窓ガラスを突き破るほどの巨大な長い尾に。


 ♢II


 そしてホテル内部。5階。

 客室が広がる通路。そして激しく損傷し破れた窓ガラス。

 赤いラインを垂れ流し、倒れながらも息をする青龍の戦士タダユキ

 ユウリとレイはそれぞれの身を案じて手を繋ぎながらも、流れ込む春の冷たい風を感じながら、目の前にいる巨大な怪物に戦慄した。


 水と土の入り混じった怪物。

 傘の真下を見せるように体を傾け、こちらをはっきりと認識したような素振り、どうしてユウリたちはそう思えるのか。

 

 それは元々真下に位置した箇所に打ち付けられたような存在がそう認識させた。


 ───水面に浮かぶように、手と下半身を土に埋められた泥人形が。


 上半身を後ろに仰け反らせながら土に埋め込まれた泥人形の姿はまるで助けを求めているようにも見えるが、それを伝える為の口はその泥人形の口には存在しない。



『ーーーー!ーーーー!ーーーー!』


 しかしその悲鳴のような甲高い鳴き声は確かにホテル内部に響き渡り、あまつさえホテルの外さえ響き渡る。


「…………」


 ユウリはその体を震わせた。

 その恐怖はレイにも伝わってくる。


 だからこそ、レイはユウリの目を見つめてから、言った。


「大丈夫だ、長髪で制服の人……俺が、守る」

「レイくん……そんな無茶を───」


 ユウリはその弱音を言いかけ、飲み込むように言葉を止めた。

 レイの目は、決意の火が灯っているようにも思えた。

 言葉通り、ユウリを守るという意志。

 いつも通り、ユウリを守るという意志。


「レイくん……」

 

 ユウリはただレイの名前を呼んだ。

 無茶をしないで、一緒に逃げよう。仲間の人も連れて、この場から逃げよう。そう含ませるように。

 しかしユウリは同時に感じる。

 レイが逃げてしまえば。

 一体誰がこの怪物を倒してくれるのだろうか、と。

 自分にはそんな力は無論、ない。

 仲間の人は倒れたまま。


「レイくん……ごめん」

「なんで謝るんだよ……」

「だって……レイくん一人に押し付けてるような気がして……」

「何言ってんだよ、長髪で制服の人」


 レイはユウリの悔やむような言葉に、わざと、にっと笑った。


「いつも通りのことじゃんか」


 そう言ってレイはユウリと繋いでいた手を、もう片方の手で振り解き……肩に掛けていた竹刀袋を握りしめた。


「レイくん!」

「大丈夫だって。立ち止まってたら、ちょっとは回復したし」


 否。

 レイはいつも通りの調子ではない。

 想定以上に白い仮面の戦士に力を吸収され、いまだに本調子ではない。

 それでもレイは弱った腕を振るわせながら竹刀袋を開けると、その刀を取り出した。


 戦う為の刀を。


「いつも通り、ちゃちゃっと成仏させてやるよ……」


 ユウリに見つめられながら。

 レイは強化ガラスも粉々になって無くなった箇所に刀を突きつけた───。


 そうすると、だ。

 

 レイの体は、変身した───。


 しかし火は出てこない。

 レイの体はずぼらなスーツごと土の色のように変色し、その全身を小波のような水が流れてから固め、乾かすように小さく風が吹く。


 ただし、完成したその姿にいつも通りの黄金の鎧もない。

 いつも通りではない姿。

 ただ刀を右手に握っただけの姿。


 ───レイの体は、ただ黒く変色しただけの、戦士の姿だった。


 それはレイの体をそのまま黒くしただけの漆黒の戦士。

 顔にはレイのような輪郭がありながらも口や耳は存在しない。

 そしてその目は大きく見開きながらも眼中は存在しない。まるで結晶のような楕円形に近い黄色の結晶が二つ、埋め込まれているだけの姿。


 ユウリはやはり叫びたかった。

 だがレイの姿を見て、その叫びを上げるわけにはいかなかった。

 ただ神に祈るように、見守るしかない。


『…………レ、イ』


 それは青龍の戦士タダユキも同様だったらしい。

 なんとか意識を保ち、その身に濃く赤いラインを垂れ流して横たわりながらも、その尾をゆっくり動かすと、切り離して変形させる───上半身ほどある長さの太い尾の剣を。


『こ、れ、を……ない、より……マシ、だ、ろ……』


 息も難しいほどぎこちない声を上げながらも、青龍の戦士タダユキはその顔をゆっくりレイに向けつつ、視線を剣に送る。


『あぁ……!』


 レイは左手でその剣を取り上げてから握りしめ、割れてしまった強化ガラスの際まで近づくと、怪物を見つめた。


『ーーーー……ーーーー……』


 気は済んだか。

 悲鳴の声ながらもユウリにはそう感じられた。

 そうでなければ、自分たちの行動を待つことをしないだろう。

 怪物にはおそらく分かっているのかもしれない。

 今のレイは取るに足らない存在だということを。


 されど漆黒の戦士レイはその疲労した体を律するように叫んだ。


『やってやるぜッ!!』


 そして漆黒の戦士レイは───跳んだ。


 そのガラスのない通路から、怪物へと。

 その右手の刀を、左手の剣をぶら下げ、勢いよく。


『さっさと───』


 そしてその身を、きりもみのような回転をさせながら勢いを加速させて、跳び。


 その刀と剣を。


 その突き出た上半身の泥人形へと。


『成仏しやがれッ!』


 振り下ろした───。


『ーーーーーーーーー!』


 鳴り渡る悲鳴。


 その状況を知らなければ、漆黒の戦士レイがその泥人形を神の妙技によって切り裂かれ、あまつさえその巨体は崩壊したと思えるだろう。

 だが、そうはならなかった。


 ……上半身の泥人形は水の膜を張って、あり得ない事だが、その刀と剣を受け止めたのだ。


『嘘だろッ!?』


 漆黒の戦士が衝撃を受ける中、上半身の泥人形は───巨大な本体を反撃に転じさせた。


 それは一瞬の出来事だった。


 ───突如、泥色に塗れた牙が漆黒の戦士を刺し貫いた。


『ッ!!!???』


 その体には無論、激痛が走る。

 漆黒の戦士レイには今起きたことを想定もしていなかった。

 それもそうだ。泥で形成された巨体から湾曲した牙が、土の中から飛び出る土竜のように急に出てきたのだ。

 一つ一つは人間の心臓のみを貫けるほどの大きさである。だがそれが一本のみならず、ざっと数えても十本以上の牙が漆黒の戦士レイの胴体を貫いたのだ。

 まるで漆黒の戦士レイの五臓六腑を傷つけるように。


『ッ……やりやがったな……昨日出てきた奴より強いじゃんかよ……』


 力無く腕をぶら下げ、その刀と剣を思わず落としそうになるが、漆黒の戦士レイは───強く握りしめた。


「レェェェェェイッ!!」


 声が、聞こえた。

 長髪で制服の人……ユウリの声が。


昨日きのうは……長髪で制服の人の前で、みっともないことしちまったからな……何回も見せれるわけ……ないよなぁッ!』


 漆黒の戦士レイは、自分を厳しく律するように、叫んだ。


 例え。白い仮面の戦士に力を吸収されたとしても。

 例え。その影響で自分の体が限界を迎えていたとしても。

 例え。そのせいで巨大な怪物ネクロフィアの前で危機的状況を迎えていたとしても。


 戦士レイは決して、折れることはない。

 

 戦士レイは強くあらねばならない。


 戦士レイは歯を食いしばるように守り抜かねばならない。


 ユウリという存在を。


『お前が俺を掴んでくれて助かったぜ……!』


 戦士レイは──────その刀と剣を、突き刺した。


『ーーーーーーーーーーー!!!!!!』


 その泥人形の上半身、その頭部へと。

 水の膜さえも、その漆黒の戦士レイから放たれた背水の陣の如き一手の剣先に突き破られながら。


 聴こえる悲鳴。正真正銘の悲鳴。


『こんのぉ……往生際ってやつが悪いぜッ!!』


 漆黒の戦士レイは突き刺した両方の刃を激昂したような叫びと共に刀を抜き───その首を刀で斬り跳ねた。


『どうだッ……!』


 自身の渾身の一手を放ったように、漆黒の戦士レイは息切れ混じりに怪物に問いかける。


『ーーーー………!ーーーーーーーーー!!!!』


 怪物の返答は───悲鳴。

 その悲鳴の意味は………激昂。

 それを現すように巨大な本体に埋められていた泥人形の片腕が突如として動き───掴んだ。


 漆黒の戦士レイの首を。


『な……!?』


 漆黒の戦士レイは首を絞められ、その息を止められるように苦しくもがく。

 だが怪物の怒りはそれにとどまることはない。

 漆黒の戦士レイに突き立てられた牙を本体へと戻すと同時、戦士の心臓へと牙を突き刺した。


『ッッッツ!!??』


 本体から伸びた一本の泥色の角。

 それが漆黒の戦士レイの心臓部を貫いたのだ。

 その痛みはまさにに値する痛み。


 これがいつも通りの日常を過ごすだけの人間なら、いつも通りの日常は終わる。

 だが……戦士レイはいつも通りを過ごす人間ではない。

 いつも通りから外れた日常で戦う戦士レイ

 ただ心臓を貫かれただけでは、終わりは来ない。


 しかし今の戦士レイにとっては激痛以外の何者でもない。

 全力の一撃を打ち込んでも、怪物は死ぬことはなくいつも通り宙を浮き、その場で佇み、人間を終わりへと誘う。


 そして戦士レイを今、その終わりへと導くように、牙から溢れるほどに水が溢れてくる。泥を握りつぶして溢れ出す汚れた水のように。

 そうして溢れた水は徐々にその漆黒の戦士レイの肉体へと垂れ流していき、その身を汚していく。胸部を、腹部を、腕部を、脚部を。

 そして戦士レイが持つ刀、青龍の戦士タダユキから託された剣、戦士レイの頭部へと侵食していく。


 今の戦士レイに抵抗するほどの力は、ない。


『レイッ!!危ないよッ!もう……逃げてッ!!』


 ユウリは割れたガラスの奥川で、叫ぶ。

 その全身を泥色の水で覆われつつある漆黒の戦士レイに、叫ぶ。

 だが漆黒の戦士レイは覆われ、掴まれた首をほんの少し、横に振った。


『そうは……いくわけ……ないじゃん……長髪で……制服の人…………俺は───』


 絶対に守る。


 そう言いかけた時。


 漆黒の戦士レイの全身はその武装ごと泥色に完全に塗れ、固まった。

 それは自身を掴む泥人形と同じ、泥人形。固まった泥人形。

 動くことなく、あとは乾き、壊れるだけの、泥人形。


『ーーーーーーーー!!!!!!!!』


 怪物は、悲鳴をあげた。

 その意味は、勝利の雄叫びと言えばいいのだろうか?

 泥の牙を抜き、小さく胸部に風穴を開けた泥人形の戦士レイをその泥の腕で振り回し、そして作った陶器を気に入らず壊すように───手を離した。

 

『レイ……レイッ!?』


 ユウリは落ちていくレイを見つめゆく。

 自分に何が出来るわけではない。いつも通りの日常を過ごすだけの人間であるユウリには、何もできない。

 しかしユウリはその足を一歩踏み出してしまった。

 その先は吹き抜け。ガラスも割られ、人間が踏み出せば、終わり。

 けれどもユウリは思わず手を伸ばした。


 レイが変身するその時まで握っていた、手を、伸ばした。


『レイがいなくなるなんて……嫌だよ……モヤモヤしたままでいるなんて嫌だよ……レイだってそうでしょ……!?レイッ!?』


 共にいつも通りの日常の中で、何かをなくした感覚を持つ者同士の存在。

 だからいつも通りの日常の中で、一緒に安心しあえる存在。

 いつも通りの日常で互いに無くてはならない存在。

 出会い方はよくはないし、過ごしていくとどことなくズレているが、それでも、それがいつも通りの安心する存在。


 ユウリは落下していく泥人形となった戦士レイをその目で追い、手を伸ばし、叫んだ。


『レェェェイッ!』


 建物前部のガラスまで割れて、春の冷たい風がユウリの体に当たった。

 その時、ユウリの心臓は……まるで暖かくなるような気持ちになった。

 春の冷たい風も暖かくなるような、そして心臓の鼓動が早くなるような感覚。

 まるで心にが灯ったような、感覚。


 ───それは神の起こした気まぐれか、もしくは運命か。


 ユウリの火が灯ったような叫びを、落ちゆく戦士レイは浴びた。

 例えその心臓部を貫かれても、例えその身が泥で覆われても、戦士レイ……レイは感じた。

 長髪で制服の人の声、いつも通りの日常に現れた少女の声。

 例え名前を覚えられなくても、分かる。

 ……いつも通り、そこにいるのだから。


『ユ───ウ───リ───』


 泥人形の身でありながら、戦士レイは声を発した。

 そして春の冷たい風を落下していく中で受けゆく中で、戦士レイの貫かれた心臓は暖かくなる気がした。

 まるで心にが灯ったような、感覚。


 そう、火だ。

 白い仮面の戦士に力を吸収され、その身に無くなろうとも。

 戦士レイの漆黒の体に、が灯った。

 それは神が起こした奇跡なのだろうか?

 落下していきながらも、その泥を払拭してくようにその炎は上がっていく。

 春の風を暖かくしていきながら。


『ユ………ウ………リ………』


 一直線に降下していく戦士レイの体。


 怪物はただそれを見ていた。

 

 怪物に考えるほどの脳はない。

 なぜ漆黒の戦士レイの体は泥に固められながらも燃えているのか。

 まるで隕石のように燃えながら落下しているのか。

 ……なぜその炎が次第に広がっていくのかを。


『レイッ……!?』


 ユウリは心の温かい火を感じながら、レイを見つめてゆく。

 その炎は勢いを増すように拡大していき、飲み込んでいく。

 

 巨大な怪物を。


 赤いラインを床にまで垂れ流す、戦士タダユキを。


 そして、ユウリ自身さえも───。


 ♢Ⅲ


 …………ここはどこだろう。


 まず、何よりもユウリが思ってしまったのはその疑問だった。


 石が敷き詰められた平坦な地面、まるで石畳の道が地平線のどこまでも広がっているように見える。ユウリはそこで蹲っていたが、危険がないことを確認して、立ち上がる。

 そこに春の冷たい風を感じることはなく、いつも通りの場所ではないことはユウリもすぐに察することができた。


 するとユウリの鼻腔を突き抜けるほどに、匂いが漂っていた。


 それは……端的に言えば薔薇の匂い。

 だがユウリにはたまらなく疑問であった。石畳の道が続くこの地面のどこに、茎に棘のありながらも気高くもあり可憐さもある花が咲き乱れているのだろうか。どこを見回しても存在しない。

 春らしさを感じながらも、春の季節を感じさせない空間。


 見渡して、不意に見つけたのは……自分よりも遠くに位置している門。

 ただ、門として言っていいのだろうか?

 2本の丸い石柱が互いに見つめあうように離れて並んでいるだけ。

 それを門と言うにはいささか疑問があった。

 なにせいつも通りの日常で、そんな奇怪な場所は長谷川市には存在しない。

 

 そして……空。

 見上げれば目一杯に広がる、紅い空。

 それはいつも通りの日常を過ごしていく中で見る夕焼けの紅い空ではない。黄昏、そう形容するのがいいのだろうかとユウリは勝手に判断する。 その黄昏の空には一つのがあった。

 太陽のように一点に輝く、光。

 この場所を照らす……と言うよりこの場所をただ見つめるような光。


 ユウリがその光を見つめた、その時だった。


 ───門が煌めき、輝きを放った。


 まるで渦巻くように光がうねり、そこから追い出されるようにして現れた。


 ───戦士たちと怪物が。


「レイッ!仲間の人さんッ!」


 泥人形になった漆黒の戦士レイと傷だらけの青龍の戦士タダユキは石畳の道に叩きつけられ、出現する。

 一方の巨大な泥の怪物は何事もなかったように光から放たれ、その海月のような巨体を傾け、再び下部に取り憑いた上半身の泥人形を見せつけるようにして、瀕死の状況にある二人の戦士たちを睨みつけた。


『ーーーーーーーー!』


 怪物は悲鳴をあげた。

 今、怪物はどのような感情でその叫びをあげているのだろうか?

 その真の感情は誰にも分かることはないが、まず一つ言えることは……二人の戦士たちはまさに絶体絶命の危機であるということだった。


『危ないよッ!?』


 ユウリが二人に向かって叫んだ時。


 それに呼応したのだろうか?


 ───光は輝いた。


 それは春ほどではないが、暖かな光……しかし胸を熱くさせ、鼓動を高めらせるほどの眩く激しい光。

 しかしユウリの視界はその光の閃光で瞼を閉じることはなかった。

 確かに視界を奪うほどの光ではある。だがその光の輝きをユウリは見ることができた。その光はまるで……いつも通りの日常にあるような光にも思えたから。

 いつも通りの日常にはないのに。だけどいつも通りあるような光。

 


 そうして光は、神の加護を与えるように二人の倒れた戦士に輝きを与えた。


 そうするとどうだろう。


 すると青龍の戦士タダユキに変化が生じた。

 爛れた赤いラインは徐々に乾き、この空間に溶け込むようにして蒸発していき、さらに多数の傷跡は癒えていく。


 さらに漆黒の戦士レイにも変化が生じた。

 串刺しにされた傷跡が癒えることはもちろん、体の泥は溶けていくと土は乾いてぽろぽろと崩れていき、弾き出された水は石畳に染み込んでいく。


 ───目覚めよ。


 声。

 それは戦士たちでもない、怪物でもない。無論、ユウリではない。

 この空間そのものであるかのように響く、神そのものの声。


 その声に促されるように……戦士たちは立ち上がった。


『……一体どうなってるんだ。俺の体は』

『また神様の力借りちゃったよ。あーあ……』


 青龍の戦士タダユキは戸惑い、漆黒の戦士レイはさも残念そうに言いながら、目の前の巨大な怪物に目を向けた。


『ーーーーーーーー!』


 怪物は悲鳴をあげた。

 その悲鳴は、まさにその通りではなかろうか?

 先ほどまで自分が痛めつけたはずの戦士が、復活したのだから。


『ま、いっか。ここに来たってことはそう言うことだろうし』

『そういうことってどういうことだ?』

『絶対あいつを成仏できるってこと!!』


 漆黒の戦士レイはその右手の刀と左手の剣を石畳の道に強く突き刺した。ひび割れを起こすほどに。


 そうすると漆黒の戦士レイ、炎をその身に宿した。


 そうすると漆黒の体が土に変わり、炎がけたましくあがりながら上半身に鎧を築き上げ、そして浴びるように水を纏い、そして───風が吹いた。


 光はそれを見つめた。

 神が自身の創造物を見つめるように。

 そう。

 金色の鎧が完成した時、青龍の戦士タダユキは、巨大な怪物は、そしてユウリは目を奪われた。


 ───黄竜の戦士レイ、その戦士は遂にいつも通り、変身を遂げた。


『いっくぜーッ!』


 そうして黄竜の戦士レイは地面に突きつけた刀を軽々と抜き───天高く掲げた。

 そうすると刀には突如として紅蓮の炎が宿り、その炎は燃え盛り、天空へと広がるように伸びていく。

 そして金色の鎧からは、余剰した力を放出するように炎が漏れ出ていく。その勢いはまさに石畳を焦がさんとする如く───。


『ーーーーーーーーー!!!!』


 怪物は悲鳴を上げた。恐れた。その炎を。

 それは先ほどまでいつも通り見ていたものではない。間違いなく脅威となる力。埋め込まれた上半身はもがくように動き、そして抵抗するように巨大な本体から泥の牙を無数に放っていく。


 しかし泥で形成された牙は───突如凍てついた。


『これならいつも通りやれると言うわけだ』


 牙の先にいるのは黄竜の戦士レイだけではない。

 青龍の戦士も、いつの間にやら突きつけられた剣を抜き取り、弓として、右手の龍の口から矢を射出させていた。


 それは一本だけではない。


 龍の口から五本ほど氷から錬成していき、それを弦に乗せて射出していく。何度も、何度も、そう、何度も。

 それはこの空間に光を浴びせられ、これまでになく力を与えられた青龍の戦士タダユキだから出来る芸当。

 その証拠に青龍の戦士タダユキの周辺は、渦を巻くように水面で溢れていた。


 無数に放たれた牙は、矢に当たり、凍て尽き、動きを止めていく。


『ーーーーーーーーーーーー!!!???』


 怪物は悲鳴を上げるしかなかった。

 牙が凍り、そればかりか氷が自らの意思を持つように動き、本体へと侵食していく。その影響で巨大な海月の本体も徐々に凍りづいていく。

 ……その上半身の泥人形さえも。


 腹部……腕部……胸部へと凍てつき、泥人形の頭部さえ、凍てつきそうになる直前。


 ───その巨大な怪物は、泥人形と共に、炎を浴び、真っ二つに叩き切られた。


 それは神の怒り、裁き、鉄槌……。だが何より黄竜の戦士レイの感情が入り混じっていた。

 怪物を打ち倒す、それよりも、何よりもユウリを守るという感情。


 そこに怪物の悲鳴が聞こえることはない。


 凍てつきかけた水は、炎により蒸発させられ。

 泥もまた燃え盛り、そして強烈な風が吹き荒れて、この空間で散り散りになって消えていく。

 上半身の泥人形は、引き裂かれたと同時に動くことを止め、空中から石畳の地面に落ちていきながら、まるで泥がアスファルトの地面に叩きつけられるようにぺしゃりと粉々になり、そして……蒸発するように消えた。


 ……残されたのは黄竜の戦士レイ、青龍の戦士タダユキ、遠くに離れたユウリのみ。


「レイ……よかった……」


 ユウリは一歩、その石畳の地面に足を踏み出した。

 黄竜の戦士レイへと歩み寄るように。


『長髪で制服の人ッ!無事かッ!?』


 レイもまた一歩、その足を踏み出した。


 その時だ。


 ───ユウリの視界が、突如、光に包まれた。


 ♢Ⅳ


 その光は打って変わってユウリの総てを奪うような光のような気がした。

 だが奪うという表現であっているのだろうか?

 

 それは繋がっているように見えた。

 光のその先にある何かに。


 それがどこに通じているのかは分からない。


 だがまるで運命の糸のように辿っていけるような気がした。


 それを手で触れながら進めるような気がした。


 それを辿りながら進んでいくと、ふと奇妙な感覚に陥るような気がした。


 自分の身長が限りなく縮んでいるような気がした。その手が小さく、柔らかく、そして握るものが大きく感じられるような気がした。

 その手で辿々しく糸を握っていると思っていた。しかしその細い糸は太くなっているような気がした。そして柔らかかった、そして長く綺麗な感触で……暖かった。


『なんでサクラの指ばかり触るんだよ……俺のも触ってくれよぉ……ユウリ……』

『もしかして……お父さんの指は触り心地が悪いんじゃないかな?最近、結構かちかちになってきちゃったし』

『えぇ……そうかなぁ……』

『そういうのは得てして自分では分からないもんね。私は好きだな、ハルアキの手。いつも通りの日常を守ってるって感じで。だからユウリにも好きになってもらえると嬉しいな』


 

 確かにその言葉が耳に入った。

 入った気がする、ではない。

 間違いなく、その言葉が耳の中を通り抜け、心の奥底を刺激した。


 ……自分の無くしたピースがピタリとおさまるように。


『でもさ。ユウリが生まれたからってわけじゃないけどさ、まだまだ頑張ろうって気持ちになるよ。可愛い娘がいるってだけで、こんなにもやる気って出るもんなんだな!』

『…………ごめんね、ハルアキ』

『なんだよー、気にすんなって。俺はさ、ただサクラとユウリが隣にいてくれれば、それでいいんだから』


 そうしてハルアキは、にっと笑った……ような気がした時だった。


 ───光は突然輝きを失い、視界を漆黒に染め上げた。


 ♢Ⅴ


 漆黒の世界が覆い、思わず目を見開く。

 そうして次に見た世界は……個室の病室だった。


「…………あれ、なんで……」


 そこは小さな個室だった。

 ユウリはベッドで横たわったまま、辺りを見つめる。

 白い石膏の天井に壁、ほんの少し開いて春の風を招き入れる窓、白いカーテンから漏れ出る春の暖かな光、木目のフローリングに薄茶の床頭台。

 そして……モヤモヤした感情……。

 しかしそれはすぐに治った。


 何故か喧騒とした声が耳の中に飛び込んできたから。


「不審者!」

「だからあの時は悪かったって言ってるだろぉ……!」


 そこには、いつも通りの者たちがいた。

 昔からいつも通りいる、キョウコ。

 そしていつも通りいる、レイ。


 二人が何故か言い争っていた。

 ……と言うよりキョウコが三角巾で片腕をぶら下げながらも罵って、レイはぺこぺこと申し訳なさそうにしていた。


「…………」


 なんでキョウコがこの病室にいるのか(そういえば入院してると言っていたから、キョウコと同じ病院でもおかしくないんだ)とか。

 なんでキョウコとレイが初対面のはずなのに、こんな状況に陥っているのか(そういえば自分と一緒に最初出会ったんだった、よくない出会い方で)とか。

 というかそもそも、なんで自分がここにいるのか(これはユウリ自身も分からない)そんな疑問を投げかける前にユウリは口を開いた。


 しかし開いただけだった。

 ……なんて言えばいいのだろう、と。


 知らないテイで発言した方がいいのか、素直に止めた方がいいのか、まさに神頼みでもしたい状況にユウリが内心で陥る中───喧騒していた二人が振り向いた。


 目を開けたユウリへと。


「あ、ユウリ!」

「長髪で制服の人、この短髪で制服の人に言ってくれよぉ!?」


 そうして二人は春の風を薙ぎ倒す勢いでユウリに言葉を浴びせる。

 二人一斉に話をする者だから、ユウリには何がなんだか、まるでさっぱり分からなかった。


 分からなかったが……なんだか安心する気持ちになった。


 いつも通りの日常がある、そんな感じ。


 確かにモヤモヤする気持ちはさらにモヤモヤさせられてる。


 でも隣には安心できる人がいる。


 今は……それでいいのかもしれない、と。


 ユウリは隙間から流れる暖かな春の風を感じて、微笑むように笑った。


 …………こので。


(第十話:再訪─サンクチュアリ─ 完)

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