第九話:水舞─スパイラル─

 ♢I


 春の夜の風も遮られた建物で。

 ユウリは部屋を出てから、スカートを捲り上げ、必死に逃げた。

 この高級ホテルの中を。いつも通りではない日常の中で、ユウリは逃げようとしていた。


 この高級ホテルは実に不思議な作りをしている。

 ホテルの外観の前面はガラス張りとなって吹き抜けた空間となっており、後部はそれぞれ客室となっている。つまり部屋を出た通路の向かい側には客室が存在せず、吹き抜けの空間を眺める為に壁……ではなく強化ガラスが一面に貼られている。

 横這いに部屋が並ぶフロアの中央部分にはT時の通路が存在し、そこを抜ければエレベーターが待っている。

 ユウリはそのエレベーターへと今、向かおうとしていた。


 ……怪物が現れる前にこのホテルから逃げなければ。

 だがそれは他の人々も同じだった。


 エレベーターの方に向かうと他の客がいた。あるものは苛立ちを隠せなかったし、あるものはエレベーターの横に位置した階段からわざわざ歩いていくほどだった。

 おそらくだが。

 みな、ここにいるものたちはあの巨大な龍の怪獣を見たのではないだろうか?

 だからあるものは興味本位で外を出ようとするし、あるものは慌てた様子を見せて荷物を持ち逃げようとする。


 ……ここにもいつも通りの日常に影を潜ませる怪物がいるとも知らず。


「皆さん!ここに───」


 怪物がいる。

 早く逃げたほうがいい。


 ユウリが叫ぼうとした時。


 


 それは春には似合わない不気味な音。


「まさか……」


 ユウリはすぐに察知した。

 

 ピタッ。

 ピタッ。


 客たちはその水滴の音に驚き、辺りを見渡す。

 すると天井から水漏れが起きているではないか。

 どうしてこんな高いホテルで水漏れが起きているのか。

 みな、そのいつも通りではない現象に首を傾げるしかない。

 

 ピタッ。

 ピタッ。


 客の一人の頭上に水滴が落ちた。


 その客は不快感を露わにしながら、髪を掻くようにして、その水滴を取り除いた。それは間違いなく、水。ただの水。客はその掻いていたてのひらを広げながら、ふと見つめた。


 普通であれば、それはいつも通りの行動であり、正しい行動であっただろう。


 ピタッ。


 また、そのてのひらにも水滴は落ちてきた。もはやいつも通りと言った様子に。

 全く、ホテルの管理はどうなっているんだと憤りを感じていた時、ユウリは客に叫んだ。


「危ないです!」

「はぁ?」


 制服姿の少女に突然危険を知らされ、客が戸惑った時だった。


 ピタッピタッピタッ。

 ピタッピタッピタッ。

 ピタッピタッピタッ。


 いつも通り、水滴は落ちてきた。

 まるで標的を定めたように。

 何回も何回も。

 客の掌に、頭上に、いや、そればかりか全身に。


 いよいよ不快感や憤りを通り過ぎて客は驚き、焦り、そして恐ろしささえ感じた時───客は突如として倒れた。


「だ、大丈夫ですか!?」


 他の客たちが春とは思えないほどの突然の出来事に悲鳴を上げながらもユウリはすぐに客に駆け寄ろうとした。


 しかしユウリは脚を止めてしまった。


 ピタッと落ちる水は止むことはなく、倒れた客の衣服や皮膚に染み込んでいく。

 その最中さなか、客はぱくぱくと口を動かし、何か言葉を発しようとしていた。

 しかし染み込んでいた水はどう言うわけか男の口から逃れ出て、地面に溢れていく。いよいよ客の口も徐々に動かなくなっていく時、天井から滴る水滴と吐き出された水滴が混じりあってから床に染み込むように消えた───。


「嘘……」


 ユウリは絶句するしかなかった。

 まさか目の前で人が永遠に動かなくなるなんて予想もしてはいなかったから。それはいつも通りの日常では決して見ない出来事であろう。

 いずれ動くこともない人間を畏怖した表情でユウリは見ながらも、思い出す。

 ───本来の標的は自分ということを。


 ユウリは再び、この春の風さえ届かないホテルを駆け出した。


 なるべく水滴に当たらないように、そして止まらないように。

 だから階段を使うしかなかった。

 しかし階段もまた水滴が滴っていた、上の階層からも、下の階層からも。

 しかし逃げなければならない。

 ピタっと落ちる水滴よりも早く、ユウリはなんとか走り、下へと続く階段を降りる。

 階段は螺旋階段となっており、ユウリは支柱を回るように降っていく。全く高級ホテルというのはなんと不便なんだろう。そう思いながらも必死に降っていく。


 そうしていく最中さなか、水滴もまた違う行動を見せていた。

 各階層の段差をまるで川の下流に流れる水のように降りてくる。水滴はというと最初に取り憑いた客と同じように他の人間の動きを止め、倒し、口元からその水を吐き出させていく。


 ユウリにはその状況はまるで分かっていなかった。

 だからどれほど降りたのかも分からなくなった時───ユウリは動きを止めた。


「あれは……人……?」


 螺旋階段の合間にある出口、それは各階層の出入り口。

 ユウリが降りているその最中さなか、ユウリは立ち止まった。

 しかし急に立ち止まってしまったものだから、勢いあまって脚が絡まりそうになり転げ落ちそうになってしまう。

 壁に沿って取り付けられた手すりに思わず掴まって、なんとか踏ん張ってから、その出入り口にいた存在に目を向けた。


 それは確かに人の形をしていた。

 見た目は衣服も着ていない等身大の人間。

 とはいえ人間であるべき皮膚の色はしていない。

 水。

 水だ。

 まるで人間の形に水が当てはめられているような、そんな感覚。


 水人間……そう形容すべき怪物。

 水人間は海月くらげのように地面をゆらゆらと体を揺らしながら、その顔をゆっくりと見上げた。

 その先のユウリへと。


「駄目……上に……!」


 ユウリがそう言って見上げた時。


 ピタッ。

 ピタッ。


 それは水滴が落ちる音に聞こえる。


 ビチャ。

 ビチャ。


 されど人が水たまりを踏む時に出る音も聞こえる。


 それは水人間がいる出入り口からはっきりと聞こえてくる。

 そうすると、速度は遅いものの、ゆっくり、ゆっくり、出入り口の方へと次々と列を作るように現れる。

 一体。

 もう一体。

 もう一体と……水人間が満ち潮のように現れていくだけではない。


 それだけではない。


 ユウリがその脚を上の段差に踏み入れたと同時、ユウリはその目を絶句させた。


 ビチャ。

 ピタッ。

 ビチャ。

 ピタッ。


 そう。

 その音ははっきりと聞こえてくる。


 まるで下段を下るように……その音は近づいてくる。

 そうして螺旋階段の柱からその手は見えた。

 青く透明な手が、脚が、胴体が。


 その人の輪郭のように陥没した水の顔が。


「きゃあぁぁぁぁぁっつ!」


 ユウリは遂に悲鳴を上げた。


 これまで(日数は少ないながらも)数々の困難を切り抜けたユウリとて、悲鳴を上げるしかなかった。

 それも当然だ。

 今ここに守るべき存在はいない。

 いつも通りのレイはここにはいない。


 そしてあの水に触れれば、おそらく自分も先ほど倒れた客と同じ末路を辿る。

 その危険な存在が形を成して、下からも上からも押し寄せてくる。


 つまり……絶対絶命。


 もはや逃げる場所はない。


 ユウリは立ち止まり……その身を震わした。


 水人間たちはゆっくりと近づいて来る。


 ピチャ。

 ピチャ。


 下からは無論。


 ピチャ。

 ピチャ。


 一段、一段、ゆっくりと。


 ピチャ。

 ピチャ。


 上からも。


 ピチャ。

 ピチャ。


 一段、一段、ゆっくりと───。


 ユウリに向かって、上から降りて来る水人間が手を伸ばし。

 ユウリは遂に自らの腕で顔を覆い隠し、目を背けた時。


 ───突然の冷気が、螺旋階段を覆った。


 無論、それは春では間違いなく考えられない出来事。


 しかしユウリはその冷気を感じることも出来ず、襲われると思って顔を上げることはしなかった。


 だからその……神の救いの手を見ることはなかった。


 下にいた水人間は、一瞬の内に凍てついた。

 上にいた水人間も、無論、凍てついた。


 ピキッという音と共に。


 その水は一瞬で凍り、まるで雪像のように氷となって、そのまま動かなくなった。

 その伸ばした手も、段差に付いた脚も、そしてゆらゆらと動いていた体も、一切動くことはしない。


 そして春の異物を取り除くように───ドンッという叩きつける音が螺旋階段に鳴り響く。


 ユウリはやっとそれに気付く。


 ……もしやレイが来てくれた?


 ユウリは腕を下げ、叩きつける音がする下の出入り口を見た。


 そこにいたのはいつも通りのレイ……ではない。


 ユウリにとってはいつも通りではない。


 ───青龍の戦士が次々と出入り口付近の水人間を粉々に粉砕していた。


「だ、誰!?」


 当たり前だが、ユウリはいつも通りの日常にいなかった、その存在を知らない。

 青龍の顔を右腕に取り憑け、左腕に竜の尾を付けた青い仮面の戦士。

 青龍の戦士は全身が氷となった力任せに粉砕していく。

 ……まるで自分の苛立ちを募らせて、破壊しているようにユウリには見えた。


「……もしかしてレイと同じ……?でもレイじゃないよね……?」


 いささか乱暴に尾を振り回して破壊したり、竜の顔で水人間の顔をぶん殴ったりと、とてもじゃないが正義の味方とは思えない素行ぶりであった。

 ……まぁ、レイもいささか素行に問題はあるけどとユウリは内心思っていた。


 と、レイのことを考えた時だった。


「長髪で制服の人ッ!!」


 それはいつも通りの声。

 

 ユウリはその声のする上の階段を見上げた。

 

 そこには……レイがいた。


 いつも通りスーツをずぼらに着込み、剥き出しの刀を竹刀袋に入れてながら肩にぶら下げた少年、レイ。

 だがいつも通り変身はせずに、なぜか凍てついた水人間を避けながら、少し疲労したようにユウリへと駆け寄ってきた。


「レイ!?」

「大丈夫だったか、長髪で制服の人……!部屋にいないから心配したぜ……!?」

「私は一応大丈夫だよ……でも部屋にいたら怪物が襲ってきそうだったから逃げてきたんだよ……」

「わりい、長髪で制服の人を置き去りにしちまって……ほんとにごめん……」

「あの時はああするのが自然だよ。私は大丈夫だから、安心して。ね?」


 ユウリはレイのことを責める気には全くならなかった。

 それに少し走っただけでも、レイはわずかに息切れしているようにも見える。

 それにいつも通り変身していないところを見ると、あの爆発の後に現場に向かってから、何か危険な状況に陥ったのかもしれない。

 ……あの怪獣の姿をユウリも見たからこそ言えることだった。


『…………』


 どうやら青龍の戦士は一旦は全ての水人間を破壊したらしく、静かに立って、ユウリたちを見つめていた。

 …………角の生えた結晶の仮面で分かりづらいが、鬼の形相で。


 ユウリは下の方から音が聞こえなくなったことに気付き、その姿を見ながら、レイに問いかけた。


「レイくん……あの人は……?仲間なんだよね」

「あぁ、仲間。あいつ?あれ?あの人?うーん、何ていえばいいんだろう……」

「仲間の人にあれとか、あの人とかは失礼な気がするんだけど……」

「あ、じゃあ仲間の人。正体はバラすなって言われてるから困ってたんだよ」

「……なんだかモヤモヤしちゃうよ」


 どうして正体を言えないかというと、青龍の戦士……つまりタダユキがレイに口止めをした結果、こういうことになったのだがユウリには知る由もない。


『…………』


 青龍の戦士は静かにユウリたちの方に近付き、見つめた。

 主にユウリの方を。


『…………無事で、よかっ、た』


 それは静かな男性の声にユウリには聞こえた。

 しかし意図的に低く、そして掠れたような声で誰かは判別できない。


「あ、ありがとうございます……私のことを心配してくれて」


 ユウリのお礼に、青龍の戦士は頷くと、レイを見つめた。


『…………逃げ、ろ』

「分かったよ、て───仲間の人……ややこし……」


 なぜかレイはめんどくさそうな態度を見せながら、ユウリの手を突然握った。


「レ、レイくん!?」

「行こうぜ……長髪で制服の人……ここは仲間の人に任せてたら大丈夫だ。下に行こうぜ……ふぅ」

「レイくんは大丈夫なの?辛そうだよ……」

「神様と戦ってたら俺の力吸われちゃってさ……休憩すれば元に戻ると思うんだけど……」

「レイくんも休憩しないと……」

「そうは言ってられねえよ」


 レイは辛い表情を見せながらも、その顔を律するように表情を険しくさせた。


「長髪で制服の人は俺が守らないといけないからな、絶対に」

「レイくん……」


 レイのその決意にユウリは何も言わなかった。

 青龍の戦士もまたその姿に心打たれたように、その右手の龍の顔を天井へと向け───水を放った。


 それは神が自らの化身を作るような行為だった。


 水は天井へと放たれるかと思うと、放物線を描くように下の出入り口へとバシャりと落ちて、そのまま姿形を形成した。

 …………水のように透明な青龍の戦士を。


『…………こいつ、が、役に、立つ……』

「わりい、仲間の人……」

『その、代わ、り…………絶対、に、守、れ……』

「あぁ……」


 レイはユウリの手を握ったまま、青龍の戦士を通り過ぎて下を降り、そして水の戦士もまたレイを先導するように降りていく。

 通り過ぎる最中、レイに連れられながらもユウリは青龍の戦士の顔を見つめながら、言った。


「ありがとうございます、どなたかは知りませんが……」


 ユウリはそのままレイと一緒に下の階層へと降りていく。


 ……青龍の戦士の返答はユウリには聞こえなかった。

 その春の暖かさにふさわしいような言葉を。


『……愛する娘の為なら、当然だ』


 そう言いながらタダユキは上の段差で凍てついたままの水人間を、その左手の尾で薙ぎ倒した───。


 ♢II


 ユウリはレイに手を引かれ、螺旋階段をぐるぐると回っていく。


 ピタッ。

 ピタッ。


 バシャ。

 バシャ。


 春の風は無論届かず、春には似つかわしくない水音。

 そして、この場所から離れたいという思惑を無視して忍び寄る水人間。


 その道中でユウリは思わず見ずにはいられなかった。

 降りながら、倒れた人間を。それはおそらく最初にユウリが最初に見た客と同じ末路を辿った者。

 それはレイの目にも飛び込んできたが、何もすることなく下に続く階段を降っていく。

 そうしなければ、次に同じ末路を辿るのは自分たちだと分かっているから。


 バシャ。

 

 バシャ。


 ゆらゆらと、そして確実に一歩を踏みしめながら、下に降る階段から水人間はやってくる。


『…………』


 青龍の戦士と酷似した水の戦士は水人間を前にすると、その右腕にある青く透明な龍の顔を向けると、勢いよく水流を口から吐き出させる。


 一直線に放射された水流はバシャバシャと水人間たちの体を削るようにして全身を削っていく。


 ピチャピチャピチャピチャ。


 シュウゥ。


 怪物が仕掛けたと思わしき水人間の残骸である水。

 そして水の戦士が放った水流が撒き散らした水。


 それらが合わさって化学反応のように水同士が音を立てて消えていく。

 

 その何もない跡を踏みながら、ユウリは手を引かれ、レイと共に階段を降りていく。


 しかし螺旋階段というものは考えものだ。

 同じような光景がずっと続いている。

 ずっと同じような場所をぐるぐると回っているような感覚。

 それといつも通り現れる水人間たち。


 そしてそれを薙ぎ払う水の戦士。

 

「はぁ……」


 心ではわかっていても、体はそろそろ限界を迎えそうになっていた。

 すでにかなりの階層を下っているのと、運動は体育の時間しかしないものだから、ユウリの体力はかなり奪われている。

 だがレイはそれ以上に過酷なものだった。


「あ───」


 降りていきながら、レイの体も限界を迎えそうになっていた。

 その力を白い仮面の戦士が復活する為に利用され、あまつさえ碌な休息も取れないまま、連戦状態となっている。

 その体はふらつき、そして階段を一段、不意に踏み外した───。


「うおッ!?」

「きゃあッ!?」


 レイは思わず上半身から下の階段に転びそうになり、手を握られていたユウリも釣られるように倒れそうになる。


『…………!!』


 レイたちが転ぶ直前。

 水の戦士はその尾を長く伸ばし、二人の体へと巻きつけると、そのまま大勢を立て直させるようにして動き、二人を立たせる。


『キヲツケロヨ』


 甲高くぎこちない音をどこからか発しながら、水の戦士は再び前を向く。


「本当にわりい……」

「気にしないで……でも結構辛いかも……」

「だよな……俺もだ……でも行かないと……早く降りようぜ……」

「うん……」


 そう。

 立ち止まってはいられない。


 レイはユウリの手をさらに強く握り、ユウリもまたレイの手を握り、二人はまた階段を降っていく。


 水の戦士は二人の先を行くように、また動き始めた。


 ♢Ⅲ


 この春の風さえ届かないホテルの中で、ユウリとレイが逃げていることを祈りがなら……青龍の戦士は戦っていた。

 客たちが倒れていく中で。

 そして螺旋階段の中で水人間たちが溢れていきながら。

 青龍の戦士タダユキはいつも通りではなくなったホテルの中で戦っていた。


 その出入り口の一つ。

 《非常口》と書かれた緑のLED看板。その付近には筆記体で《13》と書かれている。

 いつも通りの日常なら「なんで高校生をそんな高層の部屋に止まらせてるんだ」と悪態づくところであるが、今の青龍の戦士タダユキにはそんな余裕は微塵もない。


 レイとは違って力を吸収されてはいないものの、ここに来るまでに力を使い過ぎてしまっていた。怪物との戦い、白い仮面の戦士との戦い、そしてここに来る為の手段……つまりレイがいつも通りしている瞬間移動。

 黄竜の戦士が出来ることを青龍の戦士も出来る、それは訳もない。訳もないのだが……その為に力を使い過ぎていることには変わりない。


『カッコつけ過ぎちまったな……』


 バシャ。

 バシャ。


 ピシッ。

 ゴンッ。


 バシャ。

 バシャ。

 

 カチッ。


 ピシッ。

 ゴンッ。


 もはやそれもいつも通りになっている。

 上下から来る水人間たちを凍らせ、破壊する。

 しかしそれを続けていれば、タダユキの身が持たないことも明白だった。


 元凶が間違いなくいる。

 怪物は間違いなくいる。


 青龍の戦士タダユキは水人間たちを処理しながらも、13階の出入り口から遂に躍り出た。


 そこで結晶の仮面の奥で目にしたのは……いつも通りではないこの夜の地獄。


『やりやがったな……怪物ネクロフィア……』


 青龍の戦士は怒りを隠すことなく、言葉を吐き捨てた。


 ピシャ、ピシャと天井から流れる水。

 垂れ落ちたその先には、倒れた、人。

 そして代わりにその場でゆらゆらと揺れながら立つ、水人間。


 エレベーターに乗り込もうと客たちは一斉に避難しようとしたのだろう。

 終わりを告げる天井の雨が降り続けているとも知らずに……。


 エレベーター前にいる客たちが全員倒れていても、未だにその水は滴り、止まることを知らずに流れていた。


『…………消えろ』


 エレベーター前の通路でゆらゆらと揺れる水人間に自分の激昂した感情を隠すことなく告げると、奇妙なことに腰を低く落とし、右腕の龍を結晶の仮面の前に掲げ、左腕の尾を腰に当てた。


 そうするといつも通りの姿から青龍の戦士の体は水のように軟化し、姿形を細く、長く、その顔を右腕と融合させていく───。


 水人間たちにその姿を見識するほどの知能はない。


 だから青龍の戦士がさらなるを迎えても、ずっとゆらゆらと動いていた。


 ゆらゆらと。

 ゆらゆら───カチカチカチカチ。


 水人間たちは為す術もなく、全て凍てつく。


 そして───ガシャンッ。


 水人間たちは倒れた人々に被さるように、またホテルの床に倒れ、砕かれる。


 それをすれ違いながら超高速で突き進む───龍。


 それは神が自らの姿を変えて、現世に降臨するような行為。


 すなわち正真正銘の実体のある龍。

 細長く紺碧の肉体に透き通る結晶のような鱗を生やし、長く尖った口から牙を尖らせた龍。


 エレベーター前の通路を削るように巨大になりながら突き抜け、突き当たりにある壁代わりの強化ガラスを当然のように破り去ってから、下のエントランスを見下ろせる吹き抜けの空間に龍はその身を渦巻きながら、顕現した。


 青龍の戦士タダユキ……否───青龍タダユキが。


『ゴォオオオオ!』


 それはタダユキの声にも似た方向。

 しかしまるで全てを震わせかねない低く激しい声はホテルの中に轟いた。


『ーーーーーーーー』


 そしてそれに呼応するように鳴る声。


 青龍タダユキはそれに気付く。

 いや、厳密には声に気付いたわけではない。

 龍のような姿をしながらもその周りの光景に違和感を覚えた。


 その周りの光景はまるで光が何かを通過して色づいているように見えた。さながら、ステンドグラスを透過した光の色。周りの光景を青い光に包んだような光景に、思わず青龍タダユキはその龍の目で真上を見つめる。


 そこには……いた。怪物が。


 水の怪物が。


 この高級ホテル全体の天井を覆い隠すような巨大な怪物が。


 春の夜空にはない、月の光を浴び、その光を青く変色させる怪物。


 その半径10m海月くらげのようにゆらゆら動いていた。

 しかし蛸のようにも見える。ゆらゆらとその傘のような丸い頭部を動かしながらも、下部中心部から一点に生えた八本ある触手をホテル後部の各階層へとまばらに突き立てていた。

 触手からは青龍タダユキにも認識できるほど、水が滴っており、強化ガラスを破って突き立てられた触手からホテル内部に向けて水が流れていることは明確だった。


『ゴォオ…………』


 全く……いつもだったら、もう少し上手く力を使うのにな……。

 衝動的な自分の行いを恥じながらも、青龍タダユキは目の前の巨大な怪物に目を凝らした。


 これを倒せば、全て解決する。

 まず間違いない。この怪物がこのホテルでいつも通りの日常を阻害しているのは火を見るより明らか。

 

『ーーーーーー』


 悲鳴のような鳴き声。


 怪物はその海月のような見た目でも気付いた。


 敵がいることを。

 

 自身の真下に敵がいることを。


 そうして海月くらげのような怪物はその触手を動かした。


『ーーーーーー』


 再び、悲鳴のような鳴き声。

 高級ホテルのいつも通りの日常には決して響くことはない鳴き声。

 その悲鳴はエントランス、そして吹き抜けた中間に、春の夜空に届くほどに響き渡る。


 そうしてゆらゆらと浮かぶ海月くらげのような怪物は、その八本の触手を強化ガラスを薙ぎ倒すように横にずらしていきながら動かしていく。

 そうすると割れたホテル後部の壁際に位置する強化ガラスの破片はエントランスへと水混じりに、まるで雨のように落ちていく。

 

 青龍タダユキはまるで関係ないと、その直径10メートルほどある海月クラゲの怪物へとその巨体を唸らしながら顔を向け、一直線に飛び込もうとした。


『ーーーーーー』


 再び、悲鳴。

 しかしそれは悲鳴ではない。

 威嚇する為の鳴き声。


 青龍タダユキはその一瞬の攻撃に気付かなかった。


 ───突如として無数の切先が、青龍タダユキの全身を刺し貫いた。


『ゴォオオオオオオオッツ!?』


 一体何が起きた!?

 青龍は何が起きたのかも理解できず、しかし痛みを堪えながらも海月くらげのような怪物へと向かっていく。

 さりとて謎の攻撃は止むことはない。

 まるでマシンガンのように連続で、そしてショットガンのように強く撃ち込まれていく。

 青龍タダユキの体からはおびただしく不気味なほど真っ赤なラインが流れていき、その線は流線上になってフロントに垂れていく。


 一体全体なんなんだ!?

 青龍タダユキには理解できなかっただろう。

 

 ───ガラスの破片が怪物の水を帯び、自らの意思を持つように攻撃していることを。


 それでも青龍タダユキは意思を持っていた。

 自分がやるという意思、いつも通りの日常を守る意思、何より愛するユウリを守る意思を。


 まるで魚が流れる滝の頂上に必死に食らいついて登っていくように、青龍タダユキもまたこの吹き抜けを飛び上がっていく。ガラスの破片に攻撃されながらも、その速度を落とすことは決してせず───。


『ーーーーーーー!!!!!』


 再び、悲鳴のような鳴き声。

 いや、これは間違いなく、悲鳴。

 海月くらげのような見た目をしながらも、その皮膚は水が浮かんでいるのと同じ。

 その水は───破られた。


 ───ついに海月くらげの体内に、青龍タダユキは突入したのだ。


 その中は、はっきり言って水中と同じだった。

 体の向こう側にははっきりとホテルの内部が、そして見上げればホテルの天井の光が輝いていた。


『ゴォオオオオオオッ!!』


 これで終わりだ。

 最後の気力を振り絞るように、青龍タダユキがその龍の口を輝かせた時だった。


 ───青龍の顔は突如、土のように硬く荒い腕によって掴まれた。


 ♢Ⅳ


 《6》と筆記体で書かれた階層。

 もはや、いつも通り水の戦士が水人間たちを次々と撃破し、その背後で必死にレイに手を握られながらユウリが逃げている最中。


 それは唐突に起こった。


 6階の出入り口に差し掛かり、そこにいた水人間の一体を水の戦士がその龍の口で溶かし終わった直後だった。


『…………!?』


 突然、水の戦士は動きを止めた。


「ッ!?どうしたんだ……!?」

 

 レイは階段を降りきり、出入り口付近の水の戦士へと近付く。

 見ると水の戦士はその原型から水をぴちゃりぴちゃりと吐き出しながら、震えているではないか。


「様子がおかしいよ……この人……?」

「おい、大丈夫かよ、おい……!」


 二人は息切れしながら、水の戦士を気遣うように言葉を投げかける。

 だが……。


『スマナイ、ゲンカイダ』


 水の戦士は───消えた。

 まるで水の入った風船が地面にぶつかり破裂するようにして。

 その水は二人の体にかかるが、濡れることはなく、すぐ乾くようにして消えていく。


 どうして突然このようなことが起きたのか。

 それを察知したのは、ユウリだった。


「もしかして……さっき助けてくれた仲間の人さんに何かあったんじゃ……レイ……」

「嘘だろ……!?あんなに強えのに!」


 レイが怒号のように驚愕した声を上げた、その時。


 突然6階に位置する窓ガラスが大きな音を立てて、割れた。


「ッ!?」


 レイは再びユウリの手を強く握る。

 自分が守る。自分が守るんだ。そう強く念じるように。


 ユウリもまたレイの手を強く握る。

 大丈夫、きっと大丈夫。そうレイの顔を見て安心に。


 そうして二人は意を決するように出入り口の向こう側にある光景を見た。


 そして二人は……春には決してしないであろう絶望の表情を浮かべた。


 ───青龍が、色濃く赤いラインを浮かべ、その身を傷付けながら横たわっていた。


 やがて青龍はその姿を保てなくなったのか、その巨体を小さく収縮させるといつも通りの姿に戻り、6階の床で横たわっていく。

 ……その身に赤いラインを多く流しすぎた青龍の戦士の姿に。


「てん……仲間の人ッ!」


 タダユキの言いつけをきちんと守り、レイは青龍の戦士タダユキへと走り出そうとする。


「仲間の人さんッ!」


 ユウリもまた走り出そうとした。


『く……来る、な……来る、な……!!』


 しかし青龍の戦士タダユキはぎこちなく叫んだ。

 自らの深い傷を耐えながらも、言葉を発することが難しい状況でも必死に叫び、その言葉にユウリとレイは脚を止める。


「な、なんで……」


 どうしてそんなに傷だらけなのに。

 レイは疑問に思いながらも、その理由を、言葉を交わすことなくユウリと察した。


 割れた窓ガラスの向こう側。

 

 それは間違いなく“いた”。


 ───土と水をその身に受けた超巨大な怪物ネクロフィアが。


(第九話:水舞すいぶ─スパイラル─ 完)

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