2.リュカ

第4話 悪い出会い

 リュカ・ジェラルド――彼は、生まれて間もないころから、独特の雰囲気を宿す子供であった。

 赤ん坊の頃は最低限泣くことで感情を表現してはいたのだが、ある程度成長すると泣くことはおろか、微笑むことも顔を顰めることも稀になった。周りの子供が大笑いするような出来事があっても無表情で、大泣きし暴れるような出来事にも平然としているのみであり、プロスペールや周囲の大人は大層リュカを心配していた。

 もしかして目が見えていないのでは、耳が聞こえていないのでは、声帯に異常があるのでは……と心配したプロスペールは、可能な範囲でリュカのことを医者に診せた。しかし特に異常はなく、ただ感情表現が乏しいだけだと結論づけられた。その証拠に、リュカは何かを目で見たり追ったりすることは出来たし、呼べば反応し、ジェスチャーでの返答もした。ただ、声を出して返事をすることはあまりなかった。

 プロスペールは、妻であるマルゲリットとの離婚や再婚の中でリュカの今後を憂慮したが、3回目の離婚までの間、結局彼が豊かに感情を顕にする様は見られなかった。

 そんなふうに父親に心配されていたリュカだが、当の本人は何も気にしていなかった。最低限の意思表示はできていたし、呼ばれたら返事もする。寧ろそれの何がいけないのかと言った様子にすら見えた。大人には心配され、近所の子供には冷たい言葉をかけられるリュカだったが、それを嫌だとハッキリ思ったことはなかったのだ。


 そんな淡々とした感性を宿した幼児は、4歳の夏の日、今後の人生に大きな影響を与える出会いを果たす。

 その日、リュカは家の周りに生えているいくつかの大きな木の下に座り込み、ぼうっと空を見上げていた。

 新しい父親のトビや兄のジュールは、今日もそれぞれ働きに出ており、母親は家に知らない男を招き彼と話している。何をしてるのかは知らないが、外に出ていなさいと言われたので、何をするでもなく指示に従った。

 ちなみに、近所の公園ではリュカと近い年頃の子供たちが遊んでいる筈だが、その中に混ざる気にはなれなかった。行ったところで『変なやつが来た』という目を向けられるだけだし、やり取りをするのも手間に感じてしまうからだった。

 また、散歩に行こうにも面倒くさいという惰性が勝ち、更に家にはあまり本もないので外で本を読んで過ごすといったことも出来ず、結局家の近くでボーッとしているという選択に落ち着くのだった。

 人通りの少ない青い空の下、夏の暑さを感じながら空を舞う鳥を目で追っていたその時、ふと知らない声が聞こえてきた。


「こんにちは」

「…………?」


 声のする方に目を向けると、そこにいたのは1人の男だった。半袖の白いワイシャツに黒いベストを羽織り、胸元にはネクタイの赤が色取りを加えており、ベストと同じ色合いのスラックスやスラックス帽子を身につけていた。いわゆる普遍的な格好をした人物であり、細い瞳と短い赤髪が映える。年齢は、30代半ばか後半ほどだろう。背は少なくともトビよりは低く、体つきも細身に見えた。その彼は、不思議そうな顔をするリュカの隣にしゃがみこみ、声をかける。


「君、こないなところで1人でどないしたん? お友達は?」

「…………」


 リュカは無言で首を振った。それを見て、男は続けて質問をする。


「お父さんやお母さんは?」

「…………」


 リュカは、少し離れた所にある自らの家と、遠方にある大きな建物を指さした。それで何かしら伝わったのだろう。そうなんだ、と返した男は、続けて問う。


「君、お名前は? おじさんはロイク・ゲランっていうんやけど」

「…………リュカ」


 ロイク・ゲラン――そう名乗った男相手に、リュカは短く名前を口にした。今日初めて発した言葉は、きちんとゲランの耳に届いたのだろう。いい名前だと返され、彼はにこやかに目を細めた。

 その言葉になんと返せばいいか迷ったが、リュカはひとまず彼に礼を述べる。するとゲランは、真面目だなぁと零しケラケラと笑ったかと思うと、さて、と区切りをつけて本題に入る。


「さて、リュカくん。名前も分かったところで、君に話しかけた理由を説明せんとね。……あのね、君に、お願いしたいことがあるからなんや」


 首を傾げるリュカの前で、ゲランは手にしていた革製の鞄から長方形の分厚い茶封筒を取り出した。表にも裏にも文や名前の記載はなく、玉紐でくるくると封がされており中身は確認できない。手に取るとずっしりと重く、ただ書類が数枚入ってるだけのようには感じなかった。これはなんなのか? 問いかけるように見つめると、ゲランは少し間を置いてからこう答える。


「大事なお手紙と、商品が入れたぁるんよ。……これをね、もうすぐここらを通るおじさんに渡してほしいんや。ゲランおじさんからって、言ってええからね」


 ゲラン曰く、あと5分か10分ほどで青い髪に灰色の服や帽子を身につけ、眼鏡をかけた男が来るという。その人にこれを渡さなくてはいけないのだが、ゲランは訳あってその人と顔を合わせたくないという。だから、代わりに渡してほしいのだ、ということであった。

 リュカは、それを聞いて直感で『これは悪いことだ』と判断した。思えば、単なる世間話だけならともかく、大の大人がたまたまここにいただけの子供にこんな頼み事をするなんておかしい。なにか事情があるなら大人に声をかければいいし、どうしても顔を合わせたくない相手にものを渡すとしても、何かほかにやり方がありそうだ。中身も詳しくは教えてもらえないことも加えて、『いいこと』という感じはまったくしなかった。

 しかし、リュカはそれを引き受けた。決して楽観視したわけでも、面白がったわけでもない。ただ、断ったら面倒なことになりそうだと思っただけだった。

 リュカが承諾すると、ゲランは礼を述べて一旦その場を去った。それから木の下で封筒を片手に待つことおよそ5分。青い髪に灰色の服と帽子、メガネというゲランの言った通りの特徴の男がリュカの前を通りかかった。その男は、道の端で足を止めると、キョロキョロを辺りを見回している。きっとゲランを探しているのだろう。

 それを確認してから、リュカはゆっくりと立ち上がるとその男に向かって歩き出した。最初は、見知らぬ子供の姿を明らかに無視していた様子だったが、リュカが手に持っている封筒を見たことで、顔つきが一気に変わる。


「……坊主、お前、それ、誰から……」

「…………ゲラン、おじさん、から」


 名前を出す許可は得ている。リュカはそのまま封筒を両手で差し出すと、メガネの男は恐る恐るといった様子でそれを受け取り中を改める。想定されていた物が入っていたのだろう、小さく頷いた彼は、封をし直しそれを手持ちの鞄にしまうと、懐から別の茶封筒を取り出してリュカに手渡した。


「書類、ありがとうね。これ、君とゲランで分けるといい」

「……おおきに」


 ぽんぽんと無遠慮にリュカの頭を撫でた男は、どこか悲しさを湛えた笑みを向けると、何事も無かったように去っていった。

 そこから暫く彼の背中を黙って見送っていたリュカは、背後から聞こえた別の声に気づく。振り返るとそこには満足そうな様子のゲランがいて、ニコニコと口元を綻ばせていた。


「いやぁ、おおきにな、リュカくん」

「……うん」


 服の所々についた葉っぱを軽く叩き落とすゲランに、先程の茶封筒を差し出した。彼はそれを受け取り中身を確認すると、やや口元を綻ばせたあと、そこからいくらかの硬貨を取り出しリュカの前にしゃがみこむと、手を出すように指示した。リュカはそれに素直に従う。


「お手伝いをしてくれたお駄賃や。これでおやつでも買いな」

「…………!」


 リュカの小さな手の上でチャリ、と数枚の硬貨が踊り、反射的に目を瞠った。その金額は、リュカにとっては2週間分のおやつを購入できるほどの金額であった。もちろん、これはリュカがまだ幼く金銭感覚が充分に養われていないということも、そもそも家が貧乏であることもあるだろう。しかし、たったあれだけの手伝いで、こんなにも金が貰えるということは、リュカにとっては形容しがたい衝撃であり、ものすごく惹かれるものであった。

 リュカは、手のひらに置かれた硬貨をぎゅっと強く握りしめ、ゲランを見上げると、感激に打ち震えながら必死に喉を震わせた。


「……あ、ありが、と……ありがと……っ!」

「ええってことよ。こんくらい。その代わり……また、お手伝いしてくれる?」

「……――っ!」


 目を細めたゲランの笑みは、優しいようで怖く、一瞬躊躇いを覚えたが、このような些細な手伝いで報酬がもらえることはありがたいことだとも思えたのだ。

 リュカの家は貧しい。トビだけでなく、ジュールまで朝から晩まで働いている。その中で、自分もこうしておやつ分のお金を貰うことができたら、それは、とても素敵なことではないのだろうか?

 リュカの『お金』に対する理解は、まだ一般的な子供と何ら変わりない。普通に生活する上で必要なもの、何かがほしい時に使うもの、自分は時々近所にある菓子屋に行く時に使うもの、大人に渡しておくもの、たくさんあるといいもの……そういった認識だ。このお金が、『いい』お金か『悪い』お金かなんて分からない。だから、リュカは、少し悩んだあと、ゲランの質問に静かに頷いた。


「……また、やる」

「ほんま? おおきに! またお手伝いしてくれたら、お駄賃をあげるからなぁ」

「……うん……」


 ゲランは満足気にリュカの頭を撫でたあと、思い出したように最後に付け加えた。


「あぁそう、さっき渡したお駄賃やけど……お父さんやお母さんには渡さんようにね」

「…………?」

「見つかると、おじさん困ってしまうからな。やから、誰にもみられんように、自分だけで使いな。……ええな?」

「…………うん」


 何故親に言ってはいけないのか、と当然の疑問は抱いたが、考えても分からないので、とりあえずリュカは従うことにした。少しの間を置いて短く頷いたリュカを見て、ゲランはそれでいいよ、と微笑んだ。


「それじゃ、おじさんはもうそろそろ行くね。じゃあまたな」

「…………うん」


 小銭をズボンのポケットに入れたリュカは、帽子をかぶり直して立ち上がったゲランに小さく手を振った。続けて、自分から離れていく姿を呆然と見送ったあと、ポケットの中の小銭を確かめて、きゅっと口を結んだ。

 その一方で、ゲランは、自分の目に狂いはなかったことを確信し、ひとりほくそ笑んでいたのだった。



 それから、およそ数日おきにリュカはゲランの手伝いをするようになった。ある時は封筒を特定の人物に渡してほしい、ある時はこの人がどこの建物に入っていったか確認してほしい、ある時は、警察官に何を聞かれても『知らない』と言ってほしいなど、内容は多岐にわたった。その度にリュカはなんの問題もなく手伝いを完遂させ、いくらかのお駄賃を受け取り、それをジュールと共同で使っている部屋にこっそり隠している秘密の箱に貯めていった。

 そういった手伝いをするうちに、リュカは、自分のやっていることはきっと良くないことなのだろうと何となく理解しつつあった。

 何故なら、ある時教えてもらった封筒の中身が、悪い計画を綴った書類らしいことだったり、持っているだけで警察官に捕まってしまうという品物だったりしたことも1つの要因だったのだが、警察官に嘘を言った時が、リュカにとって非常に『悪い事をした』という感覚を強く植え付けたものだった。

 ある日、同年代の男児と共に、何かの『取引』の現場に使われた小屋の近くに待機させられていた時のこと。犯罪者が何かの取引をしているという情報を掴んだのが、何人かの警察官がやってきた。若い警官は、小屋の近くにいたリュカともう1人の男児に『変な人を見ていないか』など質問したが、2人はその全てに否定的な言葉を返した。

『しらない』『みてない』『ぼくたち、ここでずっとあそんでたけど、へんなひとはいなかったよ』――少々緊張しながらも、2人はそういったことを返したのだった。

 警察官は、少々疑問を抱いた様子ではあったが、子供の言うことだから本当に見ていないか、もしくは『変な人』『怪しい人』の理解が出来ていないのだろうと判断された。

 その経験を経て、リュカは『じぶんは、わるいことをしたのだ』と強く感じた。何せ、警察官に嘘をついたのだから。

 しかし、それで過剰に心が痛むわけでも苦しくなる訳でもなく――少々困惑し戸惑いはしたが――リュカは平然とこんなことを思うようになった。

『たしかにじぶんはうそをついた。やけど、それをしんじたんは、おまわりさんや』『ぼくもわるいことをしたけど、ぼくのいうことをしんじたおとなも、わるいんや』――と。

 そんなふうに考えていると、いつの間にか、『悪いことをした』という気持ちは、殆ど消えてなくなっていた。



 景色の色合いが秋になるにつれ、リュカは、ゲランの所属する組織『エタン・アジュール』――通称『アジュール』の面々に、ゲランの弟分のようなものとして受け入れられるようになっていた。周りに『リュカ』や『リュカ坊』と呼ばれて、歳の近い子供たちと共に様々な仕事を与えられた。それを的確にこなすうちにリュカは子供ながらに一定の信頼を与えられ、とある大きな仕事に同行させられることになった。

 ゲランが所属する組織の事務所の応接室。見張り役の男が2人ほど出入口に立つ中、高級そうなソファに座らせられたリュカは、ストローでジュースを飲みながら向かいに座るゲランの言葉に耳を傾ける。


「えー……今回の取引は、リュカ坊も着いてきてほしい。君になんかをやらせるつもりはあらへんけど、勉強として、俺と一緒におってほしい。いいかい?」

「…………はい」

「よし。……とはいえ、大事な話は俺が対応する。それを君は横で見とってほしい。でも、ただ見とったらええってもんでもない。相手がどういう人か、じっくり観察してほしい」

「…………かん、さつ」


 こくんと頷いたゲランは、机に置かれたコーヒーカップに口をつけてから、例えば、と前置きをして話を続ける。


「普通に世間話しとったかて、内容によって相手が一瞬嫌そうな顔をしたり反応が遅れたりすることがあるんや。それがその人の癖なのか、それとも、話しとうない話題やったのか……そういうことを判断する練習をしてほしい」

「…………れん、しゅう」

「そう。例をあげるんやったら……そうやな。リュカ坊、君は人の話を聞いてから自分が話始めるまでに結構間を開けるし、ゆっくりとした話し方をするやろ。これは、君の癖や。深く考えなくてもやってしまうことや。そやけど、ほないな話し方をする君が、相手の話を途中で遮って早口で話し始めたら……おかしいと思われることがある。それはなんとなくでも理解できるかな」

「……うん」

「よかった。ほんで、暫くは俺の仕事について、人の話し方や仕草をよう見て、癖なのか、なんか嫌なことあるからなんか、ほんなんを見分ける練習をしてほしい。あくまで練習やから、間違うとってもええ」

「……わかった」


 ゲランの言葉に、リュカは静かに頷いた。人間の言動には、その時の心情が如実に現れる。すぐには無理でも、そういったことを意識して注視すれば、ゲランや他の構成員の役に立てるかもしれないし、今後の報酬も増えるかもしれない。そう思うと、決して嫌ではなかった。

 コップの中のジュースを零さず飲み終えたリュカは、ゲランにその取引の細かな内容や時間を確認する。その取引は明後日の昼の1時からあるということだったため、お昼前には事務所に行くと約束をした。

 そして最後に、リュカはゲランからこんな話を聞かされた。


「明後日なんやけど、君は俺の息子……子供のフリをしてほしいんや」

「…………こども」

「うん。『取引』の場に君みたいな子供を連れていくには理由が必要やからね。無理してお父さんなんて言わなくてもええんやけど、取引相手には親子やということにしときたいんや。……できる?」


 リュカは暫し考える。それは、思えば難しい事のようで、至極簡単だった。今までリュカの父親は何度も変わってきている。プロスペールだけでなく、別の男も、今まで何度も自分の父親を名乗ってきた。リュカは、プロスペール以外の全ての男を、父親として好きにはなれなかったし、『おとうさん』とも呼びたくなかったが、今回は違う。

 あくまで『役』だと言われている。無理に『おとうさん』と呼ばなくてもいいと言われている。そして何より、リュカは、ゲランに対して一定の信頼を向けていた。ならば、家にいるあのトビとかいう男を『おとうさん』と呼ぶより、目の前の相手を『おとうさん』と呼ぶ方が、ずっとずっと気楽だった。

 リュカは、自分の胸の内を確かめて、呟く。


「…………わかりました。よぶときは、『おとうさん』って、いいます」

「おぉう、そうか、君平気なんかい。……別にええんだけどね、呼びたないなら、呼ばんでええからね」

「…………おおきに。だんないだいじょうぶ

「……そうかい。おおきになぁ。……あー、ついでにあともうひとつ」

「…………?」


 申し訳なさそうな顔でそう口にしたゲランは、暫し目線を泳がせたあと、偽名について話をした。

 今、組織ではリュカは本名のまま呼ばれているが、取引現場では念の為に偽名を使いたいという。どこからリュカ本人の名前と姿が漏れ、親にバレるか分からないからだろうか。

 リュカとしては、今の今まで己の行動を親が気にかけてこないのだから特に気を使う必要はないのでは……と考えたが、念には念を、ということだろう。軽く話し合った結果、当日のリュカの名前は『ルイ』に決まった。


「それじゃあ『ルイ』、また今度。明後日、お昼ご飯食べたらすぐ来るんやで」

「…………わかりました」


 リュカは、己が危険な方向に突き進んでいることを、とうに理解していた。

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