「時間は存在しない」と、かの人は言った

藍条森也

龍の泉が輝く時

 「時間は存在しない」

 その歳老いた魔導士はひとり、そう呟いた。

 そして、小石をつまみあげると水面に放り投げた。

 龍の泉。その名で呼ばれ、時の伝説に彩られたその水面へと。

 ポチャン、と、音を立てて小石が水面に落ちた。水面が波立ち、波紋が生まれた。波紋は水面を広がり、大きくなって、やがて、消えた。

 「世界とは波紋そのもの。原初の衝撃によって生まれた世界はその衝撃の力を吸収することで広まり、大きくなり、拡散していく。やがて、衝撃の力が失われたとき、世界も終わる。

 世界が広まる間、世界を構成する最小単位である『素因』は絶えず移ろい、位置をかえる。かえつづける。そのために世界は動く、一時の停滞もなく変化していく。その変化がもたらす錯覚。それが時間。

 そう。この世界に時間など存在しない。あるものはただ運動のみ。過去は現在となり、未来はまだ存在しない。それが、我らが過去に戻れず、未来を覚えていない理由。時間の正体。

 移ろう素因がまったく同じ動きを逆向きに再現し、過去を再現することなどあり得ない。仮に、世界が運動する方向を逆転させても過去へと戻ることはない。すべての素因は新たな運動を行い、逆方向への未来が生まれるだけ。

 そう。時は決して戻らない。

 過去は再現できない。

 あまりにも多くの素因が集まり重くなった場所は、原初の衝撃力によってももはや動くことはなくなる。そのために、素因が移ろうこともなくなる。すなわち、その場においてのみ時はとまる。

 時をとめることはできる。だが、戻すことは出来ない。過去は決して帰らない。

 それが、この世界の構造からくる宿命。

 わしは何度も、あいつにそう説明した。説得した。だが――」

 歳老いた魔導士は顔をあげた。その目の前に広い泉が広がっている。しかし、魔導士の目は目の前の泉ではなく、はるかな過去の日を見ていた。決して帰ることのない過去の日々を。

 「あいつはわしではなく、伝説を信じた。

 『龍の泉が輝く時。時は帰る。そのものの望む時へ』

 その伝説をだ!」

 ギン! と、魔導士はいまこそ目前に広がる光景を見た。

 魔導士の目の前。そこには一頭の巨大な龍がいた。その四肢を固体化した雷に縫いとめられ、身動きひとつすることを出来なくされた龍が。

 「魔龍クロノス!

 息子ゼウスによって天から落とされた零落れいらくの神よ! 本来、農耕神であるきさまは地上に落とされてより時間の神をかたり、龍の泉の伝説を広めた。身動きできなくされた身で人を食うために偽りの伝説を広め、その伝説にすがってやってくる人間を食らったのだ!

 そして、きさまが時の伝説を広めたのはきさま自身の願い。時を戻し、自分が神々の王であった頃に戻りたいとの浅ましい願いからだ。そのきさまの妄執もうしゅうによって、我が妻はきさまに食われた!

 『我にその身を捧げれば龍の泉は輝く。龍の泉が輝けば時は戻る。汝の望む時へと』

 妻はその言葉を信じた。いや、信じたがった。幼くして死んだ息子を蘇らせたい。その一心でだ。そして妻は、必死にとめるわしの声も聞かず、きさまに身を与えた。きさまは妻をむさぼり食った。

 むろん、そんなことで時が戻るはずもない。そんなことは、この世界の構造が決して許さない。神と言えど世界の摂理を超えることは出来ぬ。龍の泉が輝くことはなく、息子も蘇りはしなかった。ただただ、妻がきさまに食われた。それだけのこと。

 魔龍クロノス。きさまは我が妻のことなど覚えてもおるまい。きさまの広めた偽りの伝説を信じて、我が身を食わせた愚かもののひとりに過ぎぬのだからな。だが!

 わしは忘れたことはない。ありもしない希望にすがってきさまに食われた妻の姿。妻を食らったきさまの顔。妻を食らうときの音! そのすべてがいまもわしの目に、耳に、焼きついておる。

 そして、わしは決めたのだ。きさまを倒す。きさまを倒し、その妄執もうしゅうを消しさり、偽りの伝説に終止符を打つと。そのために生涯のすべてを修行に捧げた。そうして得たすべての力をもっていまこそ、きさまの妄執もうしゅうから世界を解きはなつ!」


 ……その日。

 名も知れぬ、ひとりの歳老いた魔導士が零落れいらくの神に挑んだ。そして――。

 その日より『龍の泉の伝説』は人の世から消えた。

                 完

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