19.すべての因果の収束

「明文……じゃなかった!」

 はっと口を押えた紫珠と目が合う。

 これは幻だと頭では理解していても、あまりにも彼女は現実的で、はっきりとしていて。

 思わず近づいてしまう。その存在を、至近距離で確かめたくなる。

「ごめんなさい。なんか似てるからまちがえちゃったです」

 たどたどしい敬語でペコリ、と頭を下げる少女に向かって、明文は戸惑いながらも、

「そうなんだ。明文くんは、クラスの友だち?」

 膝を折り曲げて目線を合わせ、何食わぬ顔で聞いた。

「そうです」

 紫珠は即座にうなずいた。よかった。一応友だちという認識をしてもらえている。

「いつも来るから。また学校でもらったプリントとか持ってきてくれたのかと」

 はにかんだ笑顔で肩をすくめる。こんなにだれにでも人懐っこい子だったのか、と少し驚かされる。

「学校、行けてないの?」

「はい。紫珠はここの病院に入院してるんです。お兄さんは? 怪我?」

 紫珠の視線が、明文の左腕に向く。この状態だと病院にいてもそんなに違和感がないらしい。ありがたい。咄嗟に口を突いて出た説明も、決して嘘ではない。

「あー僕は、……学校の先生してるんだけどさ。実は階段から落ちちゃったんだ」

 キミに驚いて足を滑らせちゃったんだ。と続けるべきか迷ったが、はそのことを知らないようだからやめておいた。

「そうなんですね。痛そう。早く治るといいですね」

 紫珠は気遣わしげな眼差しを三角巾に寄せた。慰めの言葉をかけ慣れている。たくさん記憶していたはずな彼女の言葉やしぐさだが、ひとつひとつがこんなに意味を持っていたなんて。子どもの自分はなにも見えていなかった。

「紫珠は最近、学校休みまくりで退屈なんです。こっち、三階が入院病棟です」

 エレベーターを指さすと、紫珠はついてきて、とばかりにちょこちょこ歩き出す。紫珠は三階まで階段で上がるのは禁止されていた。歩きながら、

「いまごろクラスの子たちには忘れられてるだろうなあ」

 軽く言うので、

「そんなことないよ!」

 と力強く否定した。ただ実際、紫珠はクラスに友だちが少ない。たまに学校に来ると、比較的やさしい女子グループの子たちが距離感を見定めつつおっかなびっくり話しかけてあげるのは見るけれど、放課後一緒に遊ぼうとはならないし、帰りはいつもひとりだった。ほんとうは気にしているんだろうな。と思う。

「あはは、お兄さんおもしろー。けど先生ってかんじですね。お話ししやすい」

 紫珠は都合よく勘違いしてくれていた。

 二人乗りの小さなエレベーターがゆっくりと三階に到着して、扉が開く。ほんとうに幻覚なのだろうかと疑わしくなるほど入院病棟も当時のままで、三階は一階に比べて人が少なく静かだ。

「到着。ここが紫珠の入院してる部屋でーす」

 三階。奥の個室。この前来たときは、錆びついたフレームだけになったベッドがぽつんと置かれた場所だったが、いまそこには、紫珠が入院して使っていたときの荷物やいすの配置など、おなじみの光景が広がっていた。

「豪華でしょ。ママが、個室にしてって頼んでくれたんです」

「そうなんだ」

 古坂りえ、もとい古坂恵子のことを思い出し、明文の心に黒いものが渦巻いた。

「退屈なので、お兄さんも一緒にお絵描きしませんか?」

 というひとことで、我に返る。ベッドに上がると、備え付けのテーブルに、スケッチブックを広げる。鹿助の使っているやつと同じだということに初めて気づく。

「明文は——あ、明文っていうのは、よくお見舞いに来てくれるお友達で、学級委員長をやっている、頭のいい男子なんですけど——いっつも難しい本ばっかり読んでて、全然一緒に絵、描いてくれないんですよ」

 紫珠は病室に帰ったとたん、リラックスしているのか饒舌だった。不満げに頬を膨らませながら、

「そういうのって、どう思います?」

 明文の顔を覗き込んで聞いてくる。

「よくないね」

 苦笑いで答えながら、内心でもう、疑いを確信に変えつつあった。これは幻覚なんかじゃない。たしかに存在する世界だ。この病院の過去なんだ。僕はいま、十四年前の青木病院にいる。それなら。

「ですよねぇ! さっすが。お兄さんならわかってくれると思ってた」

 元気の良い声が、思考を遮る。

「そこ座ってください。明文がよく使ってるから」

 そう、このパイプ椅子。座ってよく本を読んでいた。錆びてもいない。破れてもいない。腰かける。幻じゃない物体に、体重をたしかに支えられる。

 なんとかして、過去を変えられはしないだろうか。

 無謀な選択肢が、胸をよぎる。希望を持ってしまう。

「紫珠ちゃんは、絵が上手だね」

 正体を明かしたい衝動に駆られながら、でも信じてはもらえないだろうと思い直し、口ではなんということのないような感想を述べる。紫珠は無邪気にうれしそうな顔をする。

「ありがとうございます!」

 紫珠は動物の絵を描くことが多い。二頭身の、ゲームのキャラクターが好きでよく描いていた。

「実は、将来はイラストを描く人になりたいんです」

 ちょっと照れたように、紫珠は明かした。

「そうして有名になって、お金持ちになって、ママを楽させてあげたいです。ひみつだけど」

 ガラス片が突き刺さったかのように胸が痛くなった。紫珠は母親のことを嫌ってはいなかった。むしろ慕っていた。母が仕事で家にいないときもひとりで留守番をこなし、従順で、聞き分けが良く、非の打ち所のない娘だったと思う。それなのに古坂恵子は、そんな紫珠をないがしろにして、紫珠を苦しめ続けた男に入れあげ続けた。あまりに理不尽で、怒りが湧いた。

「立派だね、紫珠ちゃんは」

 喉の奥から言葉を絞り出しながら、どうやったら紫珠が死ぬ過去を変えられるか考え続けた。どうやったら、救えるのか。青木健一の罪を告発する? でも証拠がない。なら殺すか? 手っ取り早い。けどそのあとは——自分自身はどうなる。すべてを、捨てられるのか?

 迷い続ける心の真ん中に、紫珠の言葉がふっと聞こえてくる。

「そんなことないです。ほんとは絵が好きだからなんです。それに、紫珠は病気だけど、絵なら描けるって、明文が言ってくれたから」

 いっさいの穢れがない思いだった。純粋な将来への希望を込めたその言葉を、紫珠が大切に胸にしまっていてくれたのだという事実が、明文の胸を打った。

「そんなの、覚えてたんだ」

 思わず、明文は立場を取り繕うのも忘れてつぶやいた。

「覚えてるよ、うれしかったもん」

 紫珠の答えも無意識にか、明文が明文であるとわかったうえで話しているように聞こえた。

「ありがとう。話せてうれしかったよ」

 椅子から、ゆっくりと立ち上がると、きいっと音が鳴った。昔はもっと軽い音がしたように思う。

 僕はこの世界の僕じゃないんだ。

 そう悟る。

 きっと過去は変えられない。でも、このゆがめられた時空の中で、やるべきことはまだあるはずだ。

「もう行っちゃうの?」

 病室を出ようとする明文の背中に、紫珠が寂しそうに問いかける。

「うん。実は探している人がいて」

 振り返らずに、明文は返した。

「だれ?」

「死神」

「それって、あの人?」

 少し考えてから紫珠の声がする。はっとして、明文は思わず振り返った。

「知ってるのか?」

「うん、スーツの人! 紫珠、ともだちだよ」

 にこっと笑って、紫珠はうなずいた。

「ともだち……」

 その瞬間、とてもいろいろなことを思い出した。


「そういや紫珠ね、病院に行き過ぎたせいで、死神さんと仲良くなっちゃった」

「死神さんはね、背が高くって足が長くてすらっとしてて、黒いスーツを着てる、かっこいい男の人なんだよ」

「死神さんは、紫珠の味方だよって、言ってくれたもん。敵の名前を教えたらすぐに呪ってくれるんだって」

「それとね、死神さんはね、病院にいるひとたちのなかで、だれがもうすぐあの世へ行くかがわかるんだって。そのひとを最期まで見届けるのが、死神さんのお仕事なんだって」


 紫珠は僕にずっとその存在を主張していたじゃないか。


 僕は信じていなかったけれど。


 ほんとうにいたんだ、死神は。


 十四年前から、ずっと。


 紫珠は天井を指さした。

「死神さん、いつも屋上にいるよ」

「屋上か。どうもありがとう。助かったよ」

「待って」

 紫珠が切実な声を出した。ベッドからぴょこんと飛び降りて、小走りに駆け寄ってくる。そうして差し出したのは。

「これ、お兄さんにあげる」

「消しゴム?」

 どこでも売っている有名文具メーカーの、おなじみのカバーがついた消しゴムだった。文字の消しやすさには定評があり、うちの学級の児童のなかにも愛用している子がたくさんいる。死神にこれをもらった記憶が、フラッシュバックする。違っているのは、紫珠のくれた消しゴムは半分ほどの大きさにまで使い込まれていたことだった。紫珠は丁寧にカバーも短く切り取りながら残しておく派だったのか、これも初めて知ることだった。

「なんか、お兄さんにあげたほうがいい気がするんです。お兄さんになら、見つかっても大丈夫かなって」

 きまり悪そうに視線をさまよわせながら、紫珠はそう口にした。そんな彼女に託されたものを突き返すわけにはいかなかった。

「使わないで、大切にする」

 明文はそう言うと、小さな消しゴムを拳で握りこんだ。

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