#4 酷く一方的な歌
「音そろそろ入るで、ネラの呼び方間違えんといてな」
レモンからの合図を受けて、ポテチに伸ばしかけていた手を仕舞い、口を閉じた。
今の
つまり、俺はしばらく息を潜めるのが正解。
まあ、マイクを持たない限り音は配信に入らないから、そこまで過敏にならなくても大丈夫だけど。
例え足音が乗ったって、スタッフだと思われるだけだ。
「ネラネラネラネラネラ。よし、おっけー!」
『もう音入った?』
濫もレモンも、マイクを手に持っている。
手持ちを前提にした、ダイナミックマイクだ。
俺用のマイクだけが、机の上に転がっている。
「まだやで、まだ、五、四、三」
二から先は、スタッフの手の動きだけで示された。
誰かのマネージャーなのか、今日限定で関わりのあるスタッフなのかも俺には判別出来ない。
そして、俺が判別出来ていなくても恐らく大きな支障は発生しない。
コンビニで買い物してくることはこの現場内の誰にでも出来るだろうし、俺が歌う予定の歌をカラオケで歌うことだって、誰にでも出来ることのはずなのに。
二人居ても気づかれないし受け入れられているのなら、三人でも四人でも変わらないんじゃないか、とか。
俺が
俺って、一体誰なんだろう。
「こんばんはー!」
誰も、その場から一歩も動いていないのに、俺以外の全員が舞台の上に立っているような気がした。
声の張り方、話し方、表情、それらのすべてが、突然作り物のそれに変わっていた。
声量は体感で二倍以上になっただろうか。
確かにこれも彼らではあるんだけれど、例えば電話に出る時の外面に近いような、感覚としてはそれより遥かに遠いような。
ただ、彼らの創り出す虚像の表面をなぞっている。
特に
配信向けに喧嘩の真似事を出来るのは、むしろラインをきっちりと見極めており、尚且つ信頼関係がある証拠でもあるのだと思う。
ヒールを演じる役者が裏ではしっかりしていて礼儀正しいみたいな。
というかあんまり煽らないで欲しい。
俺も、スタッフ側でありたい。
代替性のある歯車になりたい。
カメラのレンズを向けられるのではなく、せめてマイクを差し出す側になりたかった。
スポットライトの当たらない場所で息をしたい。
配信で何を話そうか考えると頭が痛くなるから、歌に逃げて。
配信をつけようと思うと震える指を隠して、徐々に頻度を減らし、こうして周囲に全部お膳立てされた場にようやく立っている。
その上、
だから、俺の居場所はここくらいなんだけれど。
いつどうなるか分からない
仮に俺が彼方者ではないか、三歳児扱いではなかったとして。
選択肢がもっと存在したら、少なくとも俺はここに居なかっただろう。
出来ることと、やりたいことは違う。
容姿が世間一般から非常に好ましいと言われる人が居たとして、その人が必ずしもモデルになりたいとは限らない。
俺だって、それと似たようなものなんだろう。
入れ替えの都合もあって、あまりはっきりと表情をトラッキングしないように調整されたガワが心底ありがたかった。
仮に、もっと喜怒哀楽のはっきりと映し出される他のガワを今の俺が被ったら、さぞかし緊張に張りつめた固い表情をしているだろう。
固いのなんて右腕だけで十分だ。
そろそろ進行する時間になったのか、レモンがひときわ声を張り上げた。
「『寝らん』、俺らを挟んで喧嘩すな!」
寝らんはネラと濫を繋げたコンビ名だ。
画面上での演者の席順は、
つまり、レモンがガワとしては存在しない俺を勘定に入れてしまったが故の、複数形だった。
『お? レモン、今噛んだ?』
「ちょっとレモン緊張してるの?」
そのどちらもレモンへのフォローであると、演者の全員が理解している。
『それじゃあ、先にオレが歌いますね』
そう言って先陣を切って話題を変えたのは
「座ってる順で、次ネラにしたら?」
『俺かよ』
たった今から、話すのは俺で、黙っているのが
曲に紛れて、
普段、
十年以上前から、それが当たり前だったような気さえしていた。
キャラメルを噛んだ時に歯に残る感触にも似た、薄く何かが続いている印象。
手元にあった小分けのポテチをつまんで、歯の浮くような感触を誤魔化した。
食べきりサイズのそれは曲の一番が終わるよりも早く空になる。
手持無沙汰な手でポテチの袋を細かく折りたたんだ俺に、濫がマイクから口元を離したまま顔を寄せた。
「このチョコ、高くて美味しいやつだよ」
濫が袋ごと寄越して来たのは、色とりどりの包装紙に包まれたボンボンショコラだ。
緑色のパッケージ、ピスタチオ味のそれを開いて、口の中に放り込んだ。
「うっま」
ボンボンショコラへの美味さへの感動半分、たった今歌い終わった
『それは何ですか? オレの歌が? それとも今食べてるお菓子?』
「菓子に決まってんだろ」
『言ったな』
「冗談、冗談」
声色に笑っているような空気を含ませることは出来ているだろうか。
指先の温度がどんどん下がっているような気がする。
温かいものを飲みたい。
「ネラが今食ってんの食いたいわ、どれや? 何味?」
「ボンボンショコラのピスタチオ。これ、マジで美味い」
レモンにそう返してから、右手で自分の口を覆った。
例えば、ブラックコーヒー派の
双子だからって味覚まで同じ訳もなく、むしろ正反対に近い。
つまり、明確は失言だった。
「ネラが好きな味ってことはカカオ大目かぁ」
『席順ですよね? 次歌うのネラですよ』
濫がその直前に独り言をマイクへ吹き込んだのは、明白なフォローだった。
イントロと同時に、音の中へ沈み込んでいく。
不幸な歌が好きだ。
明るく爽やかな歌より、泣き叫ぶような歌の方が気持ち良い。
恋の歌は経験が無くて何も分からないから論外。
感情を込めると考えた時に、人間関係の歌だとあまりにも薄っぺらくなってしまうような気がして億劫になる。
そうやって、人間のふりをする怪物の揶揄に辿り着いた。
この歌は自嘲に近いのかもしれない。
皮膚から剥がれ落ちた白い破片を拾う時、歪な自らを認識する。
三年前より昔の話は知識としてしか無いようなもので、きっとこの成人した見た目と人生経験の薄さは酷くずれている。
六歳になったら小学校にでも入ればいいんだろうか、この見た目で?
そんなことが急に腑に落ちてしまって、この感情を歌以外のどこへ持って行こうか。
自分の意思で歌っているという感覚は、正直なところあまり無い。
どこまでも、どこか他人事だった。
体から飛び出した意識が、歌っている俺自身を外から眺めている。
空になった器に、何かを降ろしてでもいるかのような。
歌くらいしか取り柄なんて無い癖に、その歌が自分のものなのかどうかすら不安になっている。
俺が生まれるまでの約二十年間、歌を練習していたのは
それらのどちらの要素も、俺が努力して手に入れたものではないから。
俺と
「うっま……」
賛辞の中にひとさじ混ざっているのは、きっと恐怖だ。
同じ空間で聴いているからこそ感じられる、その場の空気。
役者が役に吞まれることがあるように、水でも雰囲気で酔うように、人は随分と気の影響を受けるらしい。
歌っておいて何だけれど、カラオケで一曲目に歌う曲として、一考の余地は大いにあった。
双子の片方が現在進行形でゴーストシンガーをしている時点でまあ、人間のふりをする怪物の歌詞との親和性はばっちり最悪だった。
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