マルチ一人称だっていいじゃない

平井敦史

第1話

 一人称視点で書かれている小説で、メインである主人公の語りから、別の場面では他の人物の語りに移行する手法。WEB小説では、もはやお馴染みと言っていいでしょう。

 これに関して、「邪道だ」とか「混乱する」といった否定的な意見も根強いのですが、新しい表現形式として積極的に認めていっていいんじゃないかなあ、と思ったので、エッセイにまとめてみました。


 元々、一人称という形式は、語り手の心情をダイレクトに伝えることができ、読者の感情移入も誘いやすい、というメリットを持つ一方、語り手が知りうる範囲外のこと――語り手にとって未知の事実や、他者の心情――を描写できないというデメリットを持っています。


 一幕物の短編などであればさほど問題はなく、また、ミステリー物なども、語り手が知りうる情報の範囲内で読者にも推理を楽しんでもらう、という意味で相性が良かったりするのですが、物語が壮大になり登場人物の数も多数になってくると、どうしても視点固定型一人称では描写しきれなくなってきます。ファンタジー物などで、その時点での敵サイドの動向とか、わかるわけないですからね。

 また、歴史物なども、リアルタイムでその時代を生きている主人公の主観的情報だけで語るのは中々難しいでしょう。未来からの転生主人公が多いのは、それも一因なのではないでしょうか。


 そこで登場するのが、一人称における視点の移動。必要に応じて、メインの語り手(多くの場合主人公)以外の人物を語り手にえて描写する、という手法です。時には、主人公視点を離れる時は三人称を用いる、といった手法も見られますね。

 これらの、一人称の視点を固定しない表現形式を、ここでは「マルチ一人称」と呼ぶことにします。これは私の造語(多分)ですが、もし正式な呼称が存在するようでしたら、ご教示いただければと思います。


 このマルチ一人称に対し、一人称で書くのなら視点は絶対固定しろ、それが無理だというのなら最初から三人称で書け、というような批判が見られます。創作論としてそういった主張をされている方も少なくないようですね。

 まあ、その主張にも一理あるとは思います。私自身、安易に視点を変更することに対して批判的に考えていた時期もありました。


 しかし、自分でもマルチ一人称の作品を書いてみて、「やっぱりこれを淡々と三人称で書いても面白さ半減だよなぁ(個人の感想です)」というのが正直なところです。


 以下、拙作を引き合いに出してあれこれ語ります。ご了承ください。


 私がはじめて書いた(厳密に言えば「はじめて公表した」ですがそれはともかく)小説『フリードリヒ二世の手紙』は、純粋な三人称形式でした。

 多くの登場人物が離れた場所に点在しており、また一般に馴染みのない歴史的舞台背景の説明にも多くの筆を割かなければならない都合上、たとえマルチであっても一人称で書くのは無理な内容だったでしょう。


 その後書いたいくつかの作品は、固定型一人称形式と三人称形式を、内容に応じて使い分けてきました。

 まあ、中にはほぼ台詞だけで構成されていて人称という概念と無縁の『ウィルヘルミナのラジオ☆オラニエ』みたいなのもあるのですが。


 そして、はじめてマルチ一人称で書いてみた作品が、『ハギスと女王と元女王』。

 これは前半がメアリー=スチュアート、後半がエリザベス=テューダーの一人称語りで構成されています(こうしてあらためて書いてみると、中々すごいですね(笑))。

 スコットランドをわれ、イングランドで半幽閉生活を送っていたメアリーのもとをエリザベスが訪れ、会食をしながらお互いの本音を探り合う前編部分。ここはメアリー視点で、彼女の立場や心境と、彼女から見たエリザベス像を描写し、後日譚となる後編部分は、エリザベス視点で彼女の心情を吐露してもらう、という構成です。

 いや、これ三人称で淡々と書いてみたり、終始エリザベス視点で書いてみても、面白いとは思えないよなあ。


 もちろん、三人称と一口に言っても、色々なパターンが存在します。

 完全に客観視点で、あまりキャラクターの心理には立ち入らず、突き放した描き方をするものから、特定のキャラクターに寄り添い、その心理も詳しく描写するものまで、かなり幅は広いです。

 それでも、やはりこの作品はこの書き方が正解だっただろう、と思っています。


 そして、このたび完結しました『幼馴染をいかにもチャラそうな男にかっさらわれた陰キャボッチ、ひょんなことから学年一の美少女とラブラブになる。やればできるとわかって後悔してももう遅い。』(略称『おひや』)。

 この作品は、前半が佳宏よしひろ視点、後半が有紗ありさ視点となっています。


 内容を簡単に説明すると、二人は幼馴染で、有紗が彼氏と泊まり掛け旅行から帰って来たところを佳宏が目撃、「寝取られた」と嘆く佳宏でしたが、学年一の美少女・舞音まいんとラブラブになって……というお話です。

 実際には二人は付き合っていたわけでもなんでもなく、有紗は佳宏に対して幼馴染以上の感情は皆無だったので、「寝取られ」などでは全くないのですけどね。


 この作品のキモは、佳宏の主観視点で寝取られただのなんだのと騒いでいるけれども、あれ、何かおかしくないか?と、読者様に疑問をいだいてもらい、有紗視点の描写で、ああ、やっぱりね、と納得してもらう、という流れです。

 これを、たとえ心理描写ありでも三人称で書いてしまったのでは、面白さは半減でしょう。



 やはり、一人称視点で語り手の心情をダイレクトに描写しているからこその味わいというものは、三人称では代替しきれず、一人称でカバーできない部分は別の登場人物の一人称(または三人称)に切り替えてフォローする、という表現形式は、大いに可能性を秘めていると思うのです。


 もちろん、不用意な視点変更によって、「あれ、ここは一体だれが語り手なの?」と読者の混乱を招いてしまうようなことの無いよう、注意は必要ですけれどね。


 それと、一人称で語られるとどうしてもそのキャラクターに感情移入してしまうので、途中で視点変更はしないでほしい、というご意見もあるかもしれません。

 私自身は、一人称だからといって必ずしもそのキャラクターに感情移入してしまうタイプではないので、あまり気にはならないのですが。

 例えば、ピカレスク物とか、そこまでいかなくてもすさんだ人生観の持ち主の一人語りに対して、共感はできないけどだからといってこれを三人称で書かかれてもね、と思いながら平気で読み進めるタイプです。

 が、そういう読み方が苦手な方も中にはいらっしゃるかと思いますので、そこのところに関しては、合う合わないで割り切ってもらうしかないのかな、と。

 だからと言って、視点変更はすべきではないとも思いませんので。



 一人称の視点変更について、読み手として書き手としてああ思うこう思う、といったご意見をお寄せいただけましたら幸いです。

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