植物手帖

オキタクミ

植物手帖

 大学に入ってすぐに、髪を限界まで短く切った。「一女」というそれまで聞いたことのない呼称で呼ばれて、「彼氏いる?」とか「いたことある?」とか、まるで挨拶だか鳴き声だかのように聞かれるのが、鬱陶しかった。ぎりぎり坊主頭ではないくらいのベリーショート。とはいえ本当の限界はスキンヘッドなわけだから、私は髪の長さのぶんだけ自分の中途半端さに苛立った。

 髪を切ったあと、鳴き声は減りはしたもののなくなりはしなかったから、今度は耳にピアスを空け、それを一個ずつ増やしていった。左右合わせて十二か十三になったあたりで、やっと鳴き声は止んだ。ただ、やってられないことに友だちも減った。

 友だちが欲しくてマッチングアプリに登録した。「男女間の恋愛」に限らない「新しい出会い」を謳っているやつ。システム上は全てのひとをマッチング対象にできて、目的は趣味でも仕事でもそれ以外でもなんでも良い。だが実際に登録してみれば、こちらのプロフィールなんかほとんど関係なく、恋愛、というかやりたいだけの男ばかりからライクが飛んできた。

 辟易して、一週間と経たずに退会しかけていたところに、「よつは」さんとマッチした。プロフィールは私と同じ十八歳。女性。写真では、どこか原っぱの上を、サンダルにショートパンツの女の子が歩いていた。サンダルといっても、マジックテープで留めるタイプの、川遊びとかで履くようなやつ。ショートパンツも、半ズボンと言ったほうが良い感じ。上は長袖のウィンドブレーカー。顔は横顔しか写っていないが、真っ直ぐ伸ばして切り揃えた長い黒髪、薄い眉、どこか眠そうな一重瞼。

 最初のメッセージは「よつは」さんからだった。

 『ラフレシア見たくないですか?』

 見たい。そう返すと、上野の博物館で開催中の展覧会の情報が送られてきた。


——


 公園口を出たところの植え込みの縁に座って待った。待ち合わせ時間ちょうど、「よつは」さんが改札から出てきたときにはすぐわかった。髪型も服も靴も、プロフィール写真と完全に同じだったからだ。夏も終わり、街は秋の空気に片足を踏み入れていたから、その格好は傍目にはやや肌寒そうに見えたが、本人は平気そうに見えた。立ち上がって手を振り合図すると、向こうも気づいて近づいてきた。

 「『ゆう』さん?」

 「そうです」

 普段と違う名前に、一瞬反応が遅れた。

 「『よつは』さんですよね。はじめまして」

 そう挨拶したが、「よつは」さんは返事をせず、不思議そうにこちらを見上げてきた。

 「……なんですか?」

 「男のひとだと思ってたんだけどな」

 「え? なんで」

 「髪短いから。えーどうしよう。困った」

 なんだか、十八歳にしてはずいぶん幼い感じがした。自分と同い年のようにはどうにも思えない。

 博物館に行くまえにお昼ご飯を食べようということになって、谷中のほうの古民家を改装した喫茶店に入った。畳に座って、コーヒーと、だし巻き卵をライ麦パンで挟んだちょっと変わった玉子サンドを食べながら話した。

 「『よつは』さんは、アプリのひとと会うの何人目ですか?」

 「えーわかんないな。五十人くらい?」

 「うそ。多くない?」

 思わず敬語が外れた。

 「マッチする相手を四十歳以上の男性に設定して、おじさんの家を泊まり歩いてるんだよね」

 「私は、四十歳男性には見えないと思うんだけど」

 「うん。なんとなくたまに設定変える。女のひとの家に泊まったことはないけど」

 ああ、「困った」というのはそういうことかと思った。

 「まあいけるか。泊めてくれる?」

 「んー、寮だからなあ」

 正直、数少ない友だちをこっそり呼んで泊まりがけで飲んだりしたことはあるし、似たようなことをたいがい皆やっていた。けれど「よつは」さんの場合、泊めているのを見つかったら問題になって、私の責任が問われそうな気がした。自分で断っておいて、反射的に「よつは」さんを厄介者扱いしてしまったことに、後ろめたさを覚えた。

 「そっかー。じゃあ前マッチしたひとたちに聞いてみる」

 話すうちに少しずつ、「よつは」さんのことがわかっていった。小学五年生くらいから、学校をさぼって図書館に通っていた。なので文学に詳しい。読書に飽きると視聴覚コーナーに行ったから映画にも詳しい。地元の公立の小さな図書館だったので最近の本や映画はほとんどなかったが、有名な古典はひととおり。映画はストーリーはあまり気にせず、音を聞いて映像を見た。今はフリーター、というか無職。家族のいる家は都内にあってたまに帰るが、数日もすると耐え切れず、アプリで見つけたひとの家を泊まり歩く生活に戻る。図書館ではなく、泊まったひとの家にある本を読み、映画を見る。手塚治虫全集を全巻持っているおじさんがいて、その人の家には不定期で繰り返し行き、少しずつ読み進めている。

 出汁の風味とディルの香りとケッパーの酸味。玉子サンドはホットのブラックコーヒーととてもよく合った。


——


 ラフレシアは造りものだった。考えてみれば当たり前だった。博物館の展示室であって植物園の温室ではないのだから、資料や模型の展示には適しているが、生きたままの植物を置くには向いていない。ましてや実物のラフレラシアなんて無理に決まっている。

 「本物が見れると思ってたんだけどな」

 「よつは」さんの言い方は、「男のひとだと思ってたんだけどな」のときとおんなじだった。

 「けど、模型としてはよくできてるよね」

 「うん。でも、本物が見れると思ってたんだよ」

 実物大の模型のラフレシアから数歩横にずれると、今度はちょっと大きめの水槽が置かれていて、その中にはなんだか細かい緑色の粒がたくさん浮かんでいた。ミジンコウキクサ、と書いてあった。解説文によると、縦も横も高さも一ミリ以下。そんな世界最小の体で水面に浮かび、その体にさらに小さな、〇・一ミリほどの白い花を咲かせる。花粉はさらにさらに小さいから、この花がどのようにして受粉をおこなっているのかはよくわかっていない。近寄って目を凝らすと、確かに、緑色の粒の真ん中に、ひとまわり小さい白色の粒があって、花の形をしているようにも見えた。世界最大の花と世界最小の花を並べて展示するという趣向らしかった。

 「こっちは本物だ」

 と、私のすぐ横で、私と同じように腰を屈め目を凝らしながら、「よつは」さんが言った。なんだか目が離せずに水槽をじっと見続けていると、「よつは」さんがさらに言った。

 「一回、あそこがすごい小さいおじさんがいて」

 「へ?」

 急になんの話かと、私は腰を屈めたまま首だけ回して「よつは」さんを見た。

 「だから、なんかがんばってたんだけど、いついったのかわかんなかったんだよね」

 「はあ」

 「よつは」さんがこっちを振り向いて、きょとんとした顔で言った。

 「え、そういうことだよね?」

 思わず声を上げて笑ってしまった。静かな展示室の中に笑い声が響いて、私は顔を押さえながらも、周囲からの非難がましい視線を感じた。

 それで嬉しくなってしまったらしく、「よつは」さんはそれ以降、模型と本物の混じったいろんな植物の前に立つたびに、それから連想される今までに会った男の話をするようになった。「よつは」さんの中でどう連想がつながっているのかは、私にわかるときもあれば、わからないときもあった。


 ワタゲトウヒレン。ヒマラヤに咲く高山植物。強風や寒さから身を守るため、体のほとんどが丸くもこもこした綿毛で覆われている。「セーター植物」の代表例。


 「すごく寒がりのひとで、部屋にいったらストーブが三つあって、すごく暑くてね。真冬だったから、そのとき私ちょっと熱っぽかったんだけど、そのひとは『体が熱いほうが興奮する』とか言ってて。朝起きたらそのひとも熱出してた」


 キソウテンガイ。アフリカ南西部ナミブ砂漠に生える。たった二枚の葉を、枯れ落とすことなく数百年以上伸ばし続ける。


 「どの雑誌だったか忘れちゃったけど、ふつうに名前聞いたことある文芸誌の編集長やってたひとに会ったこともある。家行ったら、そのひとの奥さんと、あと愛人ふたりが先にいてびっくりした。けどそのひとはもうお爺ちゃんだったから行為はなくて、みんなで川の字になって寝て終わりだった」


 キバナツノゴマ。南アメリカに自生する。黒く硬い果実には鉤爪のように鋭く長い二本の棘がついていて、牛などの動物の足首に突き刺さり運ばれることで生息域を広げる。


 「そこそこ稼いでるミュージシャンなんだけど、家にいっぱい、いちおう合法なハーブがあってさ。二人でいろいろ試してぼーっとしたあとで地下のスタジオに連れていかれて、キーボード弾いてみろって言われて。楽器なんてやったことなかったんだけど、適当でいいって言うから適当に弾いてみたら、それに合わせてそのひとが即興でドラム叩いてくれたんだよ。あれは楽しかったな」


 たくさんあった植物のなかでひとつだけ、「よつは」さんは男の話をしなかった。


 シロツメクサ。日本各地に自生するが、もとは外来種。かつてオランダから日本に輸入されたギヤマンを入れる箱に、乾燥させたシロツメクサが緩衝材として詰められていた。誰かがそれからとった種を植えてみたのが日本に根付いた始まりとされる。


 「私、前世はギリシャ人だと思うんだよね。昔なんかの本で、国ごと破産したって読んで、ああそっか、全部どうでもいいってみんなわかっちゃってる国なんだなって、共感したんだ」


——


 数ヶ月経ったころ、、「よつは」さんからインスタグラムでメッセージがきた。展覧会のあとにアカウントを教え合っていたのだが、メッセージがきたのはそれが初めてだった。

 『ヒッチハイクしようと思うんだよね。それで、できるだけ西に行く』

 『ギリシャに近づくため?』

 思いつきをそのままたずねてみたが、

 『ちがう』

 と返ってきた。

 『ひとりだけどうしても忘れられないおじさんがいるんだけど、旅に出てみたらそのひとのことがわかるかなって』

 『そのひとに会いにいくってこと』

 『ううん。そのひとは東京』

 『旅が好きなひとなの?』

 『ひきこもり』

 なんだかよくわからなかった。

 『とりあえずいろんな植物園をまわってみるよ。いいとこがあったら写真送るね』


——


 写真はけっきょく送られてこなかった。最初は気になっていたが、だんだんと「よつは」さんのことを考えることは減っていき、ついにほとんど忘れてしまった。そして、二年生の春、キャンパスの片隅に咲くシロツメクサを見かけたとき、今さらのように思い出した。インスタを開いてアカウントを探した。「よつは」さんのアカウントは消えていた。

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