卯→逃げ→立つ

武江成緒

卯→逃げ→立つ




 冬の月はまだまるく、下弦と呼ぶにはまだ間がある。

 その隙に、兎は月から逃げ出した。




 べつに不満がある訳でもない。

 訳ではないが、毎年々々、年の暮れにもかかわらず、月沙レゴリスだけがひろがる荒野で暗黒くろ一面の空の下、ぺったらこ、ぺったらこ、と餅を永劫にいていることに、ふと違和感を覚えたのだ。

 ほんの些末さまつな、月沙レゴリスの塵の一粒にみたぬ違和感であれ、芽生えてしまえばそれは月の世界に在りつづけるを耐えられずとするけがれとなる。


 夜にぐ姫も、このような穢れを帯びて大地へとち、月へかえるにあたっては情という名の穢れをすべて涙とともに振り捨てたのだ。

 そも己が月の世界の住人に加えられたも、その己に対する情を焼き捨てて肉と血すべてを天帝インドラに饗したゆえではなかったか。

 玄武岩の黒くたゆたう嵐の大洋うみをつよく蹴り、闇天に青く耀く地上に向けて跳びあがり、跳び降りた。




 堕ちた大晦日の地上は、玄武のうみより、闇のそらより暗澹たる渾沌だった。


 かつて己をあぶり焼いた時よりも、姫が若竹なよたけ異天体イセカイ転生した時よりも、地上にはいまや八十億の俗塵ケガレあふれ。

 過ぎ行く年への悔恨と、来たる年への欲望とがぶつかり合い混ざりあい、貪瞋癡に七つの大罪、混沌たる妄念より咲き誇った百八の煩悩は鐘の音では祓われもせず、むしろ昨今は苦情者クレーマーという喉を備えて鐘のほうを黙らせるほど。


 その猛威は容赦なく兎を襲い、玉のごとき身をおかし、ぶよりぶよりと腐肉のごとき軟体と変え。

 かつてじょうが封じられし蟾蜍ひきよりも穢らわしき姿へ変えて行く。


――― 何たること。これではただの月獣ビーストと成り果ててしまう。




 慌てて兎ははしり出した。

 奔れど奔れど果てはなし。神話伝説の時代は遠く、いまや地球はまるいがゆえに。

 背後に迫る煩悩のなみに、兎の脚は遅々と進まず。ああまさにその様たるや、アキレウスに追われる亀よ。


 それでも兎は奔り続ける。

 恐怖、悲嘆、憤怒、欲望、そして希望。月世界では穢れでしかない激情を燃やし、かつて天帝インドラに捧げ尽くしたはずの血肉を灼熱に耀かがやかせ。


 そして遂に、腹の中にてたぎり熱された蒸気がぜ。

 声なき兎の喉の奥から、咆哮となってほとばしったとき。




 猛燎たる白き気は兎の身を隠し呑み込み、その八雲やくも八重垣やえがきの、霹靂へきれきとともに東天へと渦巻いて立ち昇れば。

 夜闇を切り裂く閃光を目から放ち口より吐き、あおき龍の姿となっておどりいずるや、その振りかざす雷霆らいていは百八の煩悩なべてことごとく焼き払い。

 ふるき年の落とし子たちの燃えゆく様をかえりみず。そのまま地平の淵へと身を投じたかと見ゆるに。


 令和の御代みよに五つ目となる初旭はつひへと変じ、蒼天へとその輝きを覗かせていた。

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卯→逃げ→立つ 武江成緒 @kamorun2018

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