初めて名付け親になったウマがメイクデビューを勝ったせいです。

Aki Takanawa

初めて名付け親になったウマがメイクデビューを勝ったせいです。

「きゃ!」


「うわっ」


 函館競馬場の展望デッキへ向かう通路の曲がり角で、僕の白いワイシャツとスラックスは、豪快にビールを浴びてしまった。


 ビールのカップを片手にスマホを見ながら歩いてきたのは彼女の方だ。

 

 黒いサングラスにベージュのハンチング帽。

 爽やかなベルガモットがフワッと香る。


 ルイヴィトンのショルダーバッグからタオル地のハンカチを取り出すと、申し訳なさそうに僕に差し出してきた。

 ノースリーブの白いワンピースから伸びた健康的な腕に目が奪われる。

 

 「ごめんなさい、ごめんなさい、ホントにごめんなさい。」


 サングラスを取って詫びる彼女の素顔に、僕は唖然とした。


 小ぶりな鼻と唇、奥二重のあっさりとした顔立ち、透明感のある白い肌——



——えっ!小野夏子!?



 思わず声が出た。


「わたしのこと知ってくださってるのは嬉しいんですけど…あぁ…シャツもズボンも…よりによってビール…申し訳ないです。」


「ハンカチ…いいんですか?」


「いえいえ、そんなの全然いいです。」


 知ってるも何も…人気女優、小野夏子だ。


 10代で連続テレビ小説のヒロインとしてデビュー。塩顔美人として話題になった。


 その後もコンスタントに映画やドラマで活躍を続ける実力派で、紅白歌合戦では紅組の司会に抜擢された実績がある。

 アラサーとなった今も、テレビCMやファッション紙の表紙など、僕の日常でもたびたび目に触れるその顔が…


 今、目前にある。


——え…と、ここは函館、しかも競馬場、まだ午前11時半、ビール…??

 そうか!きっと、CMか何かの撮影に違いない。


「小野夏子さんってホントに存在してるんですね。」


 気が動転した僕は自分でもワケのわからない言葉を掛けた。


「ははは、ちゃんとした人間ですよ。」


「お仕事中ですか?」


 辺りを見回したが、カメラマンとか、スタッフらしい人影はない。


「やっぱそう思っちゃいますか?実はプライベートなんです。羽田から朝イチの便で飛んで来たんですよ。」


「えっ、お一人ですか?」


「そう、一人。」


「芸能人って、マネージャーさんとか周りにお付きの人がいるのかと思ってました。」


「びっくりしました?結構一人で来るんですよ、競馬場。小倉も行っちゃいますから。」


 7月。偶然にも彼女と遭遇した動揺も手伝って、汗でインナーがぐっしょり濡れているのがわかった。


「お兄ちゃんたち大丈夫かい?」


 突然、清掃員と思しき高齢男性が声をかけてきたので、僕は少し慌てた。


「ごめんなさい、ビールこぼしちゃって。」


「あぁ、あとでモップかけとくから、えぇよ。ホレホレ、行った行った、本馬場入場始まるで。今日は天気もええで。」


 僕と彼女は促されるまま、階段を上がり、展望デッキへと出た。この日のメインレースは条件戦、そしてまだ午前中とあって、人気ひとけまばらだった。


「こんな暑い日にネクタイ締めて…何か大切なご予定でもあったんじゃないですか?本当に申し訳なくて…。」


「あぁ、これ?って分かりますか?次のレース、僕の馬が走るんですよ。

 勝ったらウィナーズサークルで記念撮影できるんです。」


「え?すごい、馬主さんなんですか?」



——快晴の函館競馬場。5レースはメイクデビュー、芝の1800メートル、出走メンバー12頭の本馬場入場です!



 場内に入場曲が流れ始めると、2頭の誘導馬に続いた若駒たちが、初めてのターフへと駆け出していった。


 僕の馬、それは青毛の牝馬、スールソレアード。

 いよいよ待ちに待ったデビューを迎える。


 といっても、僕は30歳の普通のサラリーマン。アパート暮らしの独身だ。馬主になれるような資力はない。


 僕は馬主の疑似体験を楽しんでいる。いわゆる「一口馬主」というものだ。


 僕はライジングサン・サラブレッドクラブというクラブ法人を介して、彼女に一口出資している。出資といっても大したものではない。一口あたりの価格は5万円。とてもお財布に優しい庶民派クラブなのである。


 何だか隣にいる大スターにそんな説明するのは気恥ずかしかったが、彼女は「へぇ、楽しそう!」と言って笑ってくれた。


「朝からビール搔っ食らって、馬券やってるわたしとは違いますね、ってやつですね。」


 改めて横に立つと、彼女はテレビで見るよりも小柄な印象を受けた。


「ほら、あの7番。僕が名付けたんですよ。」


「すごい、しかも2番人気じゃない!お父さんロードカナロアか、近親にヴィクトワールピサいるんだ。

 追い切りいいね、デビュー前なのに馬なりで古馬のオープンクラスあおってる。ヤバいね。」


 彼女はサングラス越しに、その視線を手元のスマホと本馬場の間を行ったり来たりさせながら、競馬オヤジさながらの発言を繰り返した。


「ホントに小野夏子さんですよね?」


「え?」


 僕は思わず吹き出してしまった。


「いや、僕の知ってる小野さんじゃないから…」


「ははっ、わたしの何を知ってるんですか。今日初めて会ったんじゃない。」


「いやいや、なんでそんなに競馬詳しいんですか?」


「うーんとね、あれ何年前だったかなぁ。

 オルフェーヴルの日本ダービー。プレゼンターさせてもらって。

 あの年は震災もあって、気持ち的にも仕事的にも色々あって…

 あんな大雨のなか泥だらけになりながら走る姿見せられるともう…感情がぐちゃぐちゃになって吹っ切れた。とても救われたの。」


「へぇー。」


「それからも時々取材とか競馬関係の仕事やらせてもらってね。

 …ねぇ?地元の人?」


「僕ですか?福岡から来ました、昨日の夕方。」


「福岡!?ウソでしょ。」


「ははは…。明日は仕事なんで、このレース見たらすぐに帰ります。」


「すっごい愛情。大したことできないけど、さっきのお詫びに一緒に応援する!」


「ありがとうございます。」


 場内のビジョンにスターターが映し出され、正面スタンドの最前列に人が集まってゆく。

 ファンファーレが空に吸い込まれ、夏子は小さく拍手した。



——函館競馬場第5レース、メイクデビュー、2歳の新馬戦、芝の1800メートル、12頭の出走です。函館上空は青空、良馬場です。11時半時点で気温は27度を超えました。


——最後に12番トランキルがゲートに入ります…体制完了、係員が離れます。


 スタートしました!!


 7番スールソレアードはやや立ち遅れて後方から…

 リバージュ好スタート、すぐに内から1番のアマノテリハが並んでいきます!



「あぁ…見てられない…」


「大丈夫、大丈夫。」



——ここにいました、1番人気のローゼンシャトーは中団の好位を追走…

 …スールソレアードは外から徐々にポジションを押し上げていきます!

 最後にポツンと一頭トランキル。



「ここから、ここから。」


「いけ、いけ。」


夏子は胸の前で手を組んで、祈るようにターフを見つめる。



——さぁ第4コーナーを回って依然先頭はアマノテリハ!ここでローゼンシャトーが並びかけ残り200メートル!

 内からグランクラシック!さらに大外から一頭!!!!



『いっけ〜!!!!』



——スールソレアード凄い脚!!!!

前を一気に捕える勢い!!!



 僕と夏子は残り50メートルのところで勝利を確信し、腕を天に突き上げた。


『よっしゃぁあ!!!!』



——勝ったのは7番スールソレアード!!

 鞍上、西川真一騎手!ロードカナロアの産駒です!

 2着8番ローゼンシャトー、3着1番アマノテリハ。

 勝ち時計は1分53秒2、ゴールまでの800メートル50秒5、600メートル37秒6、スールソレアードみごと新馬勝ちです!



「すごい、小野さん!勝利の女神ですね!」


「おめでとう!早くウィナーズサークル行かなきゃ!早く!早く!」


 夏子に背中をポンと叩かれ駆け出した僕だったが、すぐにその足を止めて振り返った。


「あの!!!」


「え?」


「オレ、桜庭一郎っていいます!

 もし彼女が…彼女がG1に勝ったら!また会ってくれませんか!!」


僕は勝ち馬を指差し、夢中で叫んだ。



「桜庭一郎さん…。あなたって面白いね!その時はわたしのインスタにDMちょうだい…ちゃんとあなただってわかるように。」



 僕は拳を突き上げ、口取りの集合場所へと走った。

 ビールの匂いに酔いながら。



——14:40発、羽田行きご搭乗のお客様へご案内致します。只今より、小さなお子様連れのお客様、妊娠中のお客様、車椅子のお客様のご搭乗を開始致します。その他のお客様につきましては今しばらくお待ちください。



 函館空港のトイレで着替えたのち、出発ロビーで僕は夏子のインスタグラムを検索し、早速アカウントをフォローした。


 フォロワー数250万人…2235件の投稿がされているが、パッと見、競馬に関するものは見当たらない。


 映画やドラマの告知、<仲のいい◯◯◯◯ちゃんとお茶しました>とか、<大先輩の◯◯◯◯さんから差し入れ頂きました>とか、<撮影現場で皆さんに誕生日のお祝いをしてもらいました>とか、まさに住む世界の違う華やかなショットばかりが載っていた。

 

 誰がどう見ても、まさかローカルの競馬場に一人、しかも朝からビールを飲みながら馬券を買っているなんて想像も及ばないだろう。


 高速でスクロールしながらさかのぼっていくと、4年ほど前の投稿に、流星と黄金の毛並みが美しい、一頭のサラブレッドとのツーショットがあった。


<ひさびさにオルフェくんと再会。あの日、君の走りに流した涙は雨が隠してくれた>


 この投稿に15万8千件のいいね!が付いていた。僕も遅ればせながら、いいね!を押した。

 僕はスマホを機内モードにすると搭乗ゲートへと向かった。


 ◇


 羽田を経由して福岡空港に到着したのは20:40を過ぎた頃だった。


 僕はスマホを取り出して機内モードを解除した。夏子のインスタを開く。


 20分ほど前に新しい投稿がされていた。

夜空のワンショット。どうやら彼女も無事に東京へ戻ったのだと僕は安堵した。


 彼女の投稿には、キャプションが添えられていた。



<きっとまた陽のあたる場所で>



 それに対して、早くもファンから数え切れないコメントが寄せられていた。


<なっちゃんは既に陽のあたる舞台で活躍してるよ!>


<大丈夫?何かあったの??心配だなぁ。>


<ナッツはすごいね!いつも向上心が高くて。これからも応援してます!>


<なんか意味深な投稿で不安になるなぁ。>


<夏子…

<なっちゃん…

<ナッツ…

<なつっち…



 今から半年ほど前。

 僕はライジングサン・サラブレッドクラブの馬名募集企画に、自分が出資した一頭の牝馬の馬名を考え応募した。

 以下、僕がクラブに宛てた応募メールを一部抜粋する。



——美しい流星に左後一白、漆黒の青毛。父は海外も含めG1を6勝したロードカナロアだ。きっと走る。


<応募馬名>

スールソレアード


<馬名の由来>

スペイン語で陽だまりという意味。

陽のあたる舞台で大活躍して欲しいという願いを込めて。




=FIN=

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