第一章・完 ⑧
「なあ、マーニー。サルバはまだ帰ってないのか?」
「ええ、まだ帰宅なさっておりません。」
「サルバは今どこだい?」
「調べたところ、まだ美術館にいらっしゃるみたいです。」
「もう、19時だ…。タルカスの連中が徘徊し始める時間だぞ。」
「ええ、よければ私が様子を見に行きましょうか?」
「いいのかい?ありがとうマーニー。君も気を付けるんだよ。」
「大丈夫です。私にはまだ心がありませんから。」
マーニは車を出し、CGAへと向かった。
速度を上げるためになるべく高く飛んだ。マーニの乗る車の横に、1台の車が猛スピードで飛んでいた。そのボディが鮮明になるにつれ、その車種が今年発売された許りの、Jaguar-4《マイナス4》であることが分かった。マーニはその時、運転席の者がタルカス階級であることを悟った。2320年代から、人類社会全体の階級が統一された。上から、タルカス、アルカディア、その他である。タルカス階級の者は、いわゆる虚無信仰であった。その下のアルカディア階級の者は、一般にアルカディア信仰を幼少時から教育され、彼等は、この世界は全て善であると説いた。一方、タルカス階級の者は、ニヒリズムを信仰していた。彼等はそれを知性と呼んだ。現実をクリアに見られる者を、知性高き人とし、人間の無力を受け入れ、それに沿った生活を営む人間を、エリートと呼んだ。
ただ、歩け!
ひたすら歩け!
屍に相違ない徒歩こそ、本当の我らなり!
それが彼等のモットーだった。
彼等は9才になるころ、心を抜く儀式を行う。心が抜けきらない者は、ヤヴと呼ばれ、迫害された。ヤヴとは貧しき者、欠如した者という22世紀末の心理歴史学者・アンドリュー・ポートノイにより作られた言葉である。
タルカス、アルカディア、その何方にも属さない人々は、その階級的には最下層である。マーニの住むオールディス家も、名の無い階級の者たちであった。
マーニーはフォード社製の大衆車に乗っていた。タルカス階級の者たちは、同士以外、人間にあらず、と教えられている。名の無い階級の家庭に置かれているAF《Artificial Family》など、人で無い以上、彼女に対して何をしても、罰せられないのである。人権尊重の法はあるが、タルカス階級には一切通用しないのである。マーニーは帰りの心配もしていた。帰りはサルバドールも一緒である。
近付いてきたJaguarは、ふらふら、と、しはじめた。すると運転席の男がマーニーを一瞥した。彼は唇を歪め、鼻で笑うようにして、また前を向いた。まだ30歳程の男だった。彼の乗る車は、速度を上げ、はるか彼方へと去っていった。マーニーは警戒を解いた。彼女はホログラムを自分にかけた。これにより、彼女の見た目は、20代の女性のようになった。彼女のセルフナビゲーションシステムは、ここですという音声をだし、マーニーはCGAの駐車場に車を停めた。そらには暗雲が立ちこめ、雨が降りそうである。マーニーは急いで、美術館の中に這入った。
美術館の中ではAFの機能は自動的に制限させられる。特にCGAのような新しい美術館では厳しいのだ。彼女はホログラムを消した。ホログラムはタルカス階級の者からの被害を最小限にとどめる為のものである。勿論それは、マーニー独自の方法だが、多くのAFがそうしている。
サルバドール。サルバドール。
暗闇の中で、誰かの声が聞こえた。僕は次第に目を覚ました。視線の先には、マーニーがいた。
「美術館で寝ていたのですか?」
「寝ていた?」
「ええ、もう19時20分ですよ。」
「何だって…。」
僕は自分の声に驚いたが、そこまで大きくは無かったようだ。
「もう、帰りましょう。」
「そうだね…。でもね、全く記憶が無いんだ。いきなり意識がとんだようだったんだ。」
僕とマーニーは目の前にある、マグリットの人間の条件を見詰めた。
「ルネ・マグリットの絵ですか…。」
「そうだよ。良い絵だと思わないか?」
「ええ…。では、そろそろ…。」
「そうだね。申し訳ないよ、マーニー…。」
「いえいえ、お父様の設けた門限が、少し早過ぎるのです…。」
「父さんはタルカスの奴らに話しても、聞き耳を持たないって、嘆いてたからね…。」
「人間は面白いものですね。」
「これは、笑い事なのかなあ?」
「今は笑ってやりましょう!」
「君らしくないね。ハハッ…。」
「屍のように、といえども、彼等だって歩きたいのですから。」
「良いこと言うね…。」
「さあ、車へ…。」
僕とマーニーは車に乗った。マーニーは相も変わらず、速度を上げる。なるべく速く飛ばないと、階級差別で煽り運転の被害に遭いますから、とマーニーはいつもスピードを上げるのだ。闇の外では雨が降り始めていた。僕はそれを眺めた。
魚たちの沈黙 ToKi @Tk1985
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