第7話 亡き妻との旅

 林医師は、温泉地へ向かう電車の中で、隣に座る亡き妻、美智子の幻と会話していた。彼の表情は柔らかく、美智子の幻に向かって穏やかに笑いながら話していた。


「なあ、美智子。このまま、どこまでも行ってしまおうか?」


「そして、私のところへ来る?」美智子の幻は、優しく微笑んだ。


 電車の窓から見える景色は美しく、春の新緑が心地よい。しかし、林医師の心は過去と現在の間で揺れ動いていた。美智子の幻に、仕事で忙しくて一緒に過ごせなかったこと、家族としての時間を大切にしなかったことを謝ると、彼女は「今は一緒にいるからいい」と優しく答えた。


 周りの乗客は、林医師が一人で話しているのを見て、奇妙なものを見る目で彼を見た。中には、気味悪がって他の車両に移る人もいた。彼は精神的に不安定な人々が抱える苦悩や孤独を、深く理解し始めていた。それは、彼自身も同じ状況にいるからだ。


 林医師は、美智子との思い出を語り合いながら、彼女との再会がもたらした、心の変化を感じた。彼女の幻との会話は、素直に楽しかった。電車が次の駅に止まる度に、彼は窓の外を見ては美智子の幻と笑い合い、心の中で彼女との新たな旅を楽しんでいた。



 温泉地に到着した林医師は、亡き妻、美智子の幻と、デートを楽しんでいた。彼らは手を繋いで歩くようなしぐさをし、時折立ち止まっては何かを指差して笑い合っていた。


 しかし、周囲の人々には美智子の姿が見えず、林医師が一人で誰かと話しているようにしか見えない。彼が空中に手を差し伸べたり、何もないところにキスをする姿は、周囲から見れば、とても異様な光景だった。


 一部の人々は、彼のこのような行動を白い目で見ていた。ある老夫婦は、首を傾げながら「あの人、大丈夫かしら?」と心配そうに話していた。


 一方で、林医師の隣のベンチに座った優しい老紳士は、彼の話に耳を傾け、美智子の幻が見える振りをして会話を楽しんだ。彼は林医師に「奥様は、とても素敵な方のようですね」と微笑みかけた。


 林医師は、美智子の幻と温泉街の名所を巡り、生前の彼女が好きだったような、お店に立ち寄る。彼は店の人に「妻が、これを気に入っています」と言いながら、美智子の好みだった小物を購入した。店の人は戸惑いながら、危険が通り過ぎるのを待った。


 夕方になり、林医師と美智子の幻は川沿いを散策し、昔の思い出話に花を咲かせた。彼は美智子に向かって「君と、もっとたくさん旅行に来ればよかったね」と話し、美智子の幻は「ほんと、楽しい」と答える。彼にしか見えない幻に向かって、林医師は微笑んだ。



 林医師と美智子の幻が、静かな温泉旅館に到着した。林医師はフロントに近づき、「林と美智子、二名で予約しています」と告げた。しかし、従業員は林医師の隣に美智子の姿が見えず、戸惑いの表情を隠せなかった。


「お客様、お連れ様は?」と従業員が尋ねると、林医師は「妻が、ここにいますよ」と美智子の幻に話しかけるように答えた。周囲には何も見えないため、従業員は、さらに困惑した。林医師が、一人で話しているようにしか見えなかったのだ。


 従業員は内心、このような状況に、どう対応すべきか迷った。林医師が、精神的な問題を抱えているのではないかと心配したのだ。旅館では以前、心に問題を抱えた客が不慮の事故を起こしたことがあり、そのような事態を避けるように言われていた。


「申し訳ありません、お客様……」と従業員は言いかけたが結局、林医師を部屋に案内した。林医師は美智子の幻と話しながら、従業員に感謝の言葉を述べた。



 林医師は温泉に浸かりながら、妻の美智子の幻と楽しく会話を交わしていた。


「男湯に入ったのは初めて」と、美智子は子どものように、はしゃぎながら言う。


 林医師が一人で話しているように見えることから、他の客は彼の行動に戸惑い、次々と湯船を出ていった。湯の中で一人で会話を続ける林医師の姿は、他の客にとって奇妙で不可解な光景だった。


 そのうち、酔っ払った客が林医師に近づいてきて、「おい、誰と話してるんだ?」と面白がって絡み始めた。林医師は一瞬戸惑いつつも、落ち着いて「私には妻が見えているんです」と静かに答えた。酔っ払いの客は笑いながら「ここは混浴じゃねえぞ?」と話を合わせ、他の客たちを誘って林医師の周りを囲んだ。


 林医師は、この状況に苦笑いしながらも、美智子の幻に対して「こんなこともあるんだね」と話しかけた。美智子の幻は、「面白がられてる」と笑った。二人は、再び他愛もない話に花を咲かせた。温泉の暖かさに包まれながら、夫婦は特別な時間を心から楽しんでいた。



 浴衣に着替えた林医師は、部屋で美智子の幻とともに、くつろいでいた。窓からは温泉街の静かな夜景が見え、和やかな雰囲気が漂っていた。そこへ仲居の女性が二人分の食事を運んできた。彼女には美智子の幻が見えないのだが、気を利かせて、美智子の前にも料理を配膳していった。林医師と美智子の幻は、人の心の温かさに感謝した。


「精神に問題を抱えている、患者さんの生活を体験できたよ」


「あなたのことを白い目で見たり、優しくしてくれたり、いろんな人がいたね?」


「こんなときでも仕事の話をして、ごめん」


「ううん。それを承知で結婚したんだから……」


「こんな俺と結婚してくれて、ありがとう」


「こちらこそだよ。私、ずっと幸せだった」


 美智子の幻は静かに消えていき、林医師は一人になった。


 翌朝、旅館をチェックアウトする林医師は、一人で誰かと話すことはなく、従業員たちも彼の落ち着いた様子に、安堵の表情を浮かべた。林医師は、彼らに感謝の気持ちを伝え、一人で東京へと戻る道を歩き始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る