第6話 幻覚の策略

 林医師は、家のキッチンで夕食の支度をしていた。包丁を手にしても彼の思考は、あの手術室の出来事に引き戻される。彼は、自問自答を繰り返す。「自分は、無実の患者に濡れ衣を着せてしまったのではないか?」と。


 そんな彼の心の動揺を察したかのように、老婆の幻がキッチンに静かに現れた。彼は立ち止まり、直感に従って問いかけた。


「あなたは、私を騙したのですか?」


 老婆の幻は、嘲るように答えた。「あんたは、誰からも恨まれずに生きてるつもりかい? おめでたいねえ。あたしの顔なんて、覚えてないんだろう?」と彼女は高笑いをしながら消えていった。その笑い声が、キッチンの壁にこだまし、林医師の心に不安を植え付けた。


 林医師は、彼の手が命を救う一方で、ときには力不足で患者を失うことも、後遺症を残すこともあるという重い現実に直面していた。


 しかし、その老婆の顔を、彼は思い出せなかった。技術の追求に心血を注ぎ、患者という人間には、あまり関心を払わなかった過去を、彼は後悔していた。彼の手には数え切れない命が託されていたが、その瞳には人間の物語が映っていなかったのだ。


 彼の鍋の中でシチューが煮えくり返る音が、彼の心のざわめきを映し出していた。



 回復室で、渡辺はベッドに横たわり、彼の大柄で刺青だらけの体とは裏腹に、仏のように穏やかな顔をしていた。


 林医師は、そっと近づき、プロフェッショナルな口調で「渡辺さん、手術はうまくいきましたよ。今の気分はどうですか?」と尋ねた。


 渡辺は、ゆっくりと目を開け、「先生。おかげさまで、体が軽く感じます」と静かに答えた。林医師は内心で安堵しつつも、警察に不当な通報をしてしまった自分の過ちに苦しんだ。


 林医師は、渡辺の顔色とモニターの数値を確認し、患者としての彼の状態に満足したが、自分の心には、まだ解決していない問題が渦巻いていた。



 事務局の喧騒の中、林医師は電話機に手を伸ばした。彼の肩越しには、大勢の職員が雑踏のように行き交い、彼の動作一つ一つに何の関心も示さないかのようだった。しかし、彼が受話器を耳に当てると、部屋の空気が微妙に変わった。彼の声が静かに響き渡る。


「先日の通報は、私の思い違いでした。捜査は中止してください」


 その言葉が重く室内に落ちると、職員たちの動きが止まり、驚きの表情を浮かべて林医師を見つめた。


 彼らの質問に対し、林医師は幻を見たとは言えず、深いため息をついて謝罪した。「皆さん、ご心配をおかけして申し訳ありません」と。


 彼の謝罪は、疑問を一掃するには至らなかった。そして翌日、緊急の理事会が招集され、林医師の今後について、厳しい審査が行われることが決定した。



 理事会の厳しい視線の中で、林医師は自身を追及する声に直面した。


 正直に幻を見たことを告白できればと、彼は心の中でつぶやいた。しかし、そんなことを口にすれば、彼の長年築いてきた脳外科医としてのキャリアは崩壊するだろう。自分の精神の健康に疑問符をつけることの苦悩は、計り知れないものだった。


 彼は患者の不安や苦しみが、どれほどのものか、初めて理解したように思えた。そして、彼の状態で執刀医を任せることのリスクを指摘する声に、彼は何も反論できなかった。


 最終的に、林医師の処分は保留とされ、しばらくの間は謹慎することになった。



 帰宅した林医師を迎えたのは、亡き妻、美智子の幻だった。「おかえりなさい」と優しく微笑む彼女に、林医師は困惑しながらも、


「君の幻が見えるようになったということは、もう俺は……」と声を落とす。


 美智子はうなずき、「そう。脳腫瘍になってるのよ」と告げた。


 林医師は自嘲気味に「医者の不養生だな」と、つぶやいた。


 美智子は愛おしそうに「そのセリフ、いつか言ってみたいって、ずっと言ってた」と彼の昔の言葉を思い出した。


「そうだった」と林医師は微笑み、二人は昔の思い出に浸りながら、皮肉な再会を喜んだ。

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