よろこぶ

 菜穂子なほこは、いわゆる幼馴染みだった。昔から親同士が仲良くて、よく互いの家に行き来もした。漫画に出てくるような、たとえば学校に行く前勝手に部屋にあがって起こしに来るなんてことはさすがになかったけれど、それでも菜穂子はつねに僕の近くにいた。

 勉強を教えてくれた。部活で落ち込んだときは励ましてくれた。好奇心で煙草をすったときは真剣な顔で怒ってきた。バレンタインにチョコレートをくれた。手作りしたときも既製品のときもあった。一緒に登校した。一緒に下校した。友達と喧嘩をしたと相談されたこともあった。僕はたしかに菜穂子のことが好きだった。

 絶対に両思いだから、といくらまわりに言われていても、告白するときはさすがに緊張した。好きなんだけど、と半ば投げやりに告げた僕に対して、菜穂子は笑った。昔からずっとみてきた、控えめな笑いかた。バースデーケーキのろうそくをそっと吹き消すように、まず口もとがほころぶ。それからころころ転がしていた飴玉を見せびらかす子どもみたいに、口をひらいて、

「やったー」 

 そんなふうに喜んだ。

 お似合いだとか理想的だとか、たくさん言われた。幼馴染みとの恋愛という、ありふれていそうで案外少ないシチュエーションは、よく話題の種になった。僕自身、注目されるのはまんざらではなかった。それはおそらく菜穂子もだった。

「ぜんぜん、ふつうだよ。なんにも特別なことじゃなくて」

 だれかの僕たちのことを言われるたび、謙遜するようなことを口にしながらいつだって嬉しそうにしていた。

 高校のころから八年。無条件にかわいいと思っていた菜穂子のことを、いつしか好きだと思うことに条件が必要になっていった。とくに理由がないのに一緒にいることに無性に苛立つこともある。それでも苛立たず満たされる瞬間もある。凪いでいるようでいて、海面の下に塵がひたすら溜まっていくような、そんな年月。

 結婚という言葉が出るようになってから、ずっと海に潜っているような息苦しさがあった。ときどき顔を出して空気を吸って、また潜る。まるで水中で交わしているかのような菜穂子との会話は、口に出した途端に泡となって崩れていく。踏み切れずに聞こえないふりをしたまま過ごしていたら、菜穂子が言ったのだった。

「子どもができた」

 コドモガデキタ。一文字ずつ、ひらひらと宙を舞っているみたいだった。それくらい、その言葉は僕にとって現実味のないものだった。

「そうなんだ」

 失敗の返事だ。今ならわかるのに、当時はそれしか言えなかった。僕がなにか見当違いのことを言うと、菜穂子はいつも表情を顔から消す。言葉にはせず、深い穴のような瞳で僕をみつめてくる。けれど彼女はそのとき、笑っていた。僕がなんと返しても、きっと同じように笑っていたのだと思う。

「拓実くんのこと、逃がさないよ」

 僕は失敗の返事をしたけれど、それなら正解はなんだっただろう。菜穂子が僕の告白を受けたときと同じように、「やったー」と、喜ぶことができたなら、よかったのかもしれない。

 

 実家が近く、幼稚園、小学校、中学校、高校、すべて同じところに通った。友人たちはみんな僕たちのことを羨ましがった。

「絵に描いたような幼馴染みだね」

 そんなふうに言って、うっとりする女の子もいた。けれどそれは、絵に描けるほど想像しやすい関係ということだ。喧嘩をしたタイミングで別れを告げたこともあった。そのたび菜穂子は「絶対に別れない」と強いちからを込めて頑なに拒否した。

 菜穂子も、まわりの友人も、そして親までも、彼女との別れをゆるさなかった。

「別れたら後悔する」

「あんなにいい子なのに」

「それ以上の人にはきっともう出会えない」

 好き勝手に言い立てて、最後に「意外と幼馴染みとつきあえるってないんだよ。そもそもそんなに仲のいい幼馴染みなんていないし」と、そんなふうに締めるのだった。

 けれど僕は、が、たいそう羨ましかった。


 みよと出会ったのは大学三年生のときだ。話してもどこか素っ気なく、つんとした振る舞いは菜穂子とは正反対で、僕が彼女のことを気にするようになるまで多くの時間はかからなかった。

 みよは僕よりも二つ年下で、アルバイトをしていた居酒屋に新人として入ってきた。自己紹介のときは、ただ素っ気なく名前を言うだけで、緊張しているんだろうと思った。けれどバイトのメンバーが話しかけても接客中もつんとしている。次第にまわりから疎まれていくのがなんだか放っておけなくて、不必要に構うようになった。そんなとき、ひとりの女の子がふざけてこう言ったのだ。

「かわいい幼馴染みがいるんだからちょっかいかけちゃ駄目だよ。片瀬さんも期待しちゃうよ」

みよに対してのいやみを言ったのだろうけど、そう言われたときの僕は、「幼馴染み」という存在を出されてただただうんざりした。また「かわいい幼馴染み」が、僕の行動を制限する。

 僕が「そういうんじゃないよ」と言おうとしたとき、みよの表情がぱっと明るくなった。それはぱちっとスイッチを押したら、一瞬で電気が点いて部屋が明るくなるような、「ぱっ」だった。

「幼馴染みがいるんですね」

 どうしてか彼女はとても嬉しそうにしていた。普段ほとんど表情を変えない人だったから、一緒にいた女の子もその変わりようを訝しんだほどだった。

「幼馴染みって、いいですよね。憧れてるんです。幼馴染みがいる人、私とっても好きなんです」

 幼馴染みがいて羨ましい。これならそれまで幾度も言われたが、幼馴染みがいる人が好きだなんて初めて言われた。言っている意味がよくわからなくて、僕はうまく返事ができなかった。ただ、いつもは素っ気無いのに少女のように笑った彼女のことをかわいいと思った。だれもが羨む「かわいい幼馴染み」よりも、ずっと。

 幼馴染みはいらなかった。けれどみよはきっと、幼馴染みがいない僕には興味も示さなかっただろう。

「私のこと、みよって呼んで」

 ふたりで会うようになるまでは早かった。少し遠くの街に行って食事をしてホテルに泊まった。当時、菜穂子も僕も一人暮らしだったから怪しまれることなんてないと思っていた。けれど菜穂子は気づいている。連絡を返さなかったり、デートの回数が減ったり、自分ではたいしたことがないと思っていたことの積み重ねを、菜穂子はすべてかかえこみ、疑念を確信に変えていっている。

 いつからだろう。菜穂子はいつから僕とみよのことに気づいていたのだろう。いつまでなにも言わずに僕を泳がせてくれるつもりだろう。

「逃がさないよ、拓実くんのこと」

 僕は菜穂子から逃げたかった。美化されて固定された幼馴染みという関係から自由になりたかった。けれどもう遅かった。僕の足は菜穂子のテリトリーに埋められていて、今まさにセメントを流し込まれようとしている。手が届く範囲にかろうじてみよがいるけれど、いつまで届くのかはわからない。

 コドモガデキタ。この報告を受けてから、菜穂子が自分のお腹を愛おしそうに撫でる場面をよく見ている。菜穂子にだけまぶしい光があたっているかのように、ときおり目をすがめている姿が印象的だった。

 だけど僕は彼女から、産婦人科でもらうであろうエコー写真というものを、まだ一度も見せてもらったことがない。

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