静けさの中で
甘月鈴音
第1話
「雪だわ」
暗闇に舞い落ちる真っ白な雪が、ガラス窓から淡く、儚く、ぼんやりと浮かんでいた。
「花が舞ってるみたい」
しんしんと静かに降り積もる雪が、祝福しているかのように、ゆっくり落ち、茶色の地面に沈みて消えていく。
道路を走る音も無く。田舎の森の中から聞こえてくる動物たちの気配すら感じない。
木造の一軒家。ガラス窓に触れれば氷のように冷たい。
窓の隙間から漏れる冷気が、足の先から体へと流れ、じんじんと痛んだ。
「
皺の増えた母が、炬燵に入りながら蜜柑を片手に、声をかけた。
父は炬燵でぬくぬくと、ずり落ちた老眼メガネをあげ、新聞片手に、湯気の立つお茶を静かに啜っている。
控えめのテレビの音量から、騒がしいお笑いコンビの笑い声が、やけに耳に入る。
ぐるりと家を見回す。
明かりの消えた仏間から祖父と祖母の遺影が、笑うようにこちらを向いているように思えた。
畳の和室の臭い。お線香の臭い。母が作るお汁粉の臭い。
母、ひとり。父、ひとり。娘、ひとり。
祖父の建てたこの家で私は育った。
寂しさと懐かしさが、心に落ちる。
『──ワン』
ふっ、と犬が鳴いてるような気がした。
窓の外に視線を戻す。
「カバ丸」
ずいぶんと前に死んでしまった雑種の犬を思い出した。幼いころ、林の向こうで捨てられた子犬を見つけ、私は泣きなら連れ帰った小さな犬。
「そうね。あなたも私の家族だわ」
くたびれた青い屋根の犬小屋を見つめ、目を細める。今は野良猫が住みつき、まったくっと言いながら、母は楽しそうに、今朝、フカフカのタオルを犬小屋に敷いているのを見かけた。
「見捨てられない質なんだから」
外はもう真っ暗。
温かな
この寂しいような、温かいような、なんとも言えない感覚を、昔、どこかで味わったことがある。
あぁ、そうだ。あれは私が中学生の時だ。
学年末テスト中に熱が出て早退したことがあった。両親は共働きで、田舎のこの場所から離れた都心で働いていた。
熱を出した私は帰宅することになり母が仕事を早退し向うことになったが、1時間半はかかる。仕方なく私は重い体に鞭を打ち、ひとりで家に帰った。
あの日も、今のように酷く寒い冬の日だったのを覚えている。
家に着き、靴を脱ぎ捨てると、ポンっと驚くほど靴の大きな音が響いて、誰もいない家の静けさに、妙に落ち着き無く心がザワついた。
薬を飲み、自分の部屋に入り、着替える。布団に入り目を瞑る。
しんっと静まり返る家が他人の家のような錯覚を起こす。それと異なり、外からは色んな音が、慌ただしく聞こえていた。
その雑音を聞きながら、熱に浮かされ、薬の助けのおかげで私はそのまま、深い眠りについた。
──トントントン。
目が覚めると台所で母が料理をしていた。陽気に鼻歌を歌っている。漂う匂いが赤味噌の香り。味噌汁を作っているようだ。
あっけらかんっとしている母は「風邪には味噌汁が一番」っとわけの分からないことを言い、我が家では風邪の時は味噌汁を飲むことになっていた。
ガチャリっとドアノブが回されると、母が入ってきた。
「起きたのね。気分はどう?」
そう言ってオデコで熱を測る。
「大丈夫」
力なく答えた。母が乱れた布団を見て、綺麗に整える。
すっと布団を撫でると、しゅるりっと擦れた音がし、ポンっと手を添えると、しゃっと布団の音がした。
その気持ちのいい静かな音に、どうしようもないくらい、落ち着いて、ほんのりと心が温かく感じた。
──あの温もり、絶対に忘れない。
窓ガラスに映る町並みを見ながら、 今の、この気持ちは、あの頃と感覚によく似ている思った。
「幸恵」
と背後に心配そうに母が立ち、そっと花柄で真っ赤な、ちゃんちゃんこを肩から掛けてくれた。
「体を冷やすわよ」
「色々、思い出してたのよ」
「そう」
そう言って母は私の肩に手をかけ、引き寄せ、抱きしめた。
「大きくなったわね」
「ふふ。私、もう28歳よ」
温かな母の温もり。
優しい手。
「幸恵、覚えてる? こんな雪の日に、あなた遭難したことがあったのよ」
「そうだっけ」
「そうよ。近所の悪餓鬼の風太君と山に入って迷子になったのよ」
「何歳のときよ」
「幸恵が6歳のとき。母さん本当に心配したのよ」
「んん。ヤバい、覚えてないわ」
首を傾げて、悪びれもなく笑った。
「まったく。村中総出で探したのよ」
「昔のことだから、時効ね」
「時効なんてものはありません。──結局、神社の中の本堂に入って、二人して、寝てたんだから、本当にビックリしたわよ」
「そうだっけ?」
「そうよ。帰りにお父さんが幸恵をおぶって、母さんと父さん、疲れきって何も喋れなかったんだから」
『──生きてて良かった』
朧げに父の安堵した声が頭に過ぎり響いた。
すっかり忘れていた記憶の断片。あの静かな温もり。
暗闇に白い雪が落ちてきて、父の頭に積もる。薄っすら開いた瞳の中に映った遠い私の記憶。寒い外気の中、父の背中が、湯たんぽのように温かくて、安心しきって私は目を閉じた。
「うわ、なんか思いだした」
「うわっとはなによ」
「ごめんなさい」
「ふふふ。28年か、母さんも、父さんも、年をとるはずだわ」
ゆっくりと降り積もる雪を眺め、私と母は、三日月のように目を細めた。たぶんきっと、炬燵で新聞を読んでいる父も、同じ目をしているだろう。
「結婚おめでとう」
母は嬉しそうに、けれども、雪でなければ聞こえなかったんじゃないかと思えるほど、小さく寂しそうに言った。
心に疼くのは寂しさと、懐かしさ、そしてこれからの人生への期待。
──28年。
私は
明日からは、
ボーン、ボーン。
っと斎藤幸恵でいる最後の夜の柱時計が鳴り響く。
静けさの中で 甘月鈴音 @suzu96
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