地獄のような恋模様

可燃性

血の味がするキスをしよう

「やっぱり……俺、諦められない」


 真っ直ぐに前を見たまま、遠矢とおやは言った。

 テスト期間がようやっと終わって、吐く息がすっかり白くなった冬の日のことだ。

 俺と他愛もない話を交わしていた遠矢は突然真面目な顔になって、「なあ、雪刃ゆきは」と俺を呼んだ。


「なに?」

「……この前、話したじゃん」

「この前?」

「……櫻子さくらこさんのこと」

「……ああ」


 遠矢の家の近くに、目を見張るほどの美人が住んでいる。それが櫻子さん。遠矢の後に越してきたらしい彼女は、既婚者である。旦那さんもなかなかイケメンだった。美男美女の夫婦か、なんて他人事のように思っていた。

 ある日遠矢から滅茶苦茶深刻な顔で相談を持ち掛けられた。何事かと訊くと遠矢は、「……好きになった」と小さな声で言った。

 既婚者の櫻子さんを遠矢は気まぐれや勘違いでもなんでもなく、本気で好きになったという。俺はどう返すべきなのかわからなくて黙っていた。いろいろ考えて結局口に出したのは「……やめとけよ」だった。遠矢は俺の返事に特に不満を抱くこともなく、「そうだよな」とだけ言ってその話は終わった。

 遠矢は頭がいい。だからきっとなんとか折り合いをつけるだろうと思っていた。

 でも、無理だったらしい。


「諦められないよ、俺」

「……遠矢」

「わかってるよ、お前の言いたいこと。でも、やっぱ無理だよ。あのひとが笑いかけてくれるたび、いってらっしゃいって言われるたび、苦しいんだよ。……あのひとで、何回も、」

「ああ! いい! そういうの、いい……聞きたくねえ……」

「……悪い」


 かたや受験間近の高校生。かたや美人の既婚者。旦那さんと不仲なんてこともなく、いつだって仲睦まじい夫婦である。

 そんなふたりの仲を裂こうとするなんて、本当にひどい話だ。遠矢だってわかっているだろう。けれど頭でわかっていても、心はどうしようもない。いつだって振り回される。自分の心なのに自分の思い通りにならない。

 わかる。俺にも覚えがある感情だったから。


「……雪刃」

「……なあ、遠矢。……やめとけよ」

「……え?」

「……その、好きになるのは、さ。どうしようもねえけど……なんていうか、ヤバいことするのは……」

「……ヤバイことってたとえば?」

「……え、えぇーと……」

「……」

「……こ、殺す……とか?」

「は?」

「……ごめん、なんでもない……」


 誤魔化したのを遠矢は追及しなかった。

 遠矢が少し先を歩く。俺はどうしても、隣に並んで歩く気にならなかった。


「……俺、櫻子さんに告る」


 俺は奥歯を噛み締めた。それから、遠矢に聞かれないよう息を吸って吐いて、


「……そっか」


 とだけ返事をした。


 ◇


「ねえ、ゆっきー」


 俺を〝ゆっきー〟と呼ぶのは幼馴染のれいだ。麗は周囲をちょっとうかがってから耳打ちする。


「……あとで、いつもの場所に」


 返事を待たずに麗は去っていく。今の応酬を他人が見たら、逢引のように思われるのだろうか。実際そうではない。麗と俺はずっと兄妹のような関係だった。

 いつもの場所とは、誰も来ない旧校舎のことである。老朽化が進んでいるから近々取り壊しになるらしい。立ち入り禁止の表示を無視して中に入る。廊下の途中で黄昏る麗を見つけて俺は声をかけた。


「麗」

「……ゆっきー」

「なんだよ、新ネタねえぞ」

「うそ。……ねえ、遠矢君って誰の事が好きなの?」

「は?」

「ちょっと噂聞いたの。遠矢君が誰かに告るって話」

「……」

「誰か知っているんでしょ」

「……」

「教えて」


 麗はずっと遠矢に片思いしている。一度告白をしたが「妹のようにしか見られない」と振られていた。でも麗は一回振られたからと言って、きれいさっぱり諦めるタチではなかった。彼女は昔から人より少し執着が強いのである。

 目の中にめらめらと嫉妬の炎が燃えていた。こういうときの麗は人の忠告や助言を聞き入れないし、とても頑固だ。


「……知らねえよ」

「うそ」

「……本当だよ」

「嘘だよ。ゆっきー、嘘つくとき絶対下向くじゃん」

「……」


 幼馴染だから誤魔化されない。俺は何というべきか迷った。

 既婚者であることを言うべきか、それとも近所の美人とだけ言うべきか。

 いずれにせよ、言わなくてはいけない雰囲気になっている。

 妥協して、「近所の人だよ」とだけ教えた。


「名前は?」

「知らねえよ」

「は? そんなわけないでしょ」

「あるんだよ。きれいなひとだから……俺が知って、好きになったら困るからって……」

「……」

「本当だっての!」

「……」


 麗は懐疑的な目をしたが、俺の言い分を信じたようだ。

 ふうん、と言って唇を尖らせたままそっぽを向いた。


「……ねえ、ゆっきー」

「なに」

「『死神の噂』って知ってる?」

「は? ……知らないけど」

「真っ黒な公衆電話があるんだって。それで、その公衆電話に死んでほしいひとの名前を告げると殺してくれるって噂」

「……嘘に決まってんだろ、そんなの信じてんのかお前」

「やってみないとわかんないじゃん」

「嘘だろ。つうか、お前殺すとか……物騒なこと言うなよ」

「……だって、好きなんだもん」


 麗の横顔はまさに恋する乙女だった。でも、好きだからって人殺しはだめだ。

 人を殺すのは、何の解決にもならない。ただ人がひとり死んで、いなくなるだけ。

 寂しさが心に穴を開けるから、他人の入り込む余地ができあがって、その〝余地〟にちょうどいい代用品がはまって、恋が実ったと勘違いするだけ。

 結局、嘘っぱちなのだ。恋は成就どころか破綻している。


「麗……好きな人の好きな人がいなくなっても自分のことを好きにはなってくれない。子どもじゃないんだから、わかるだろ」

「……」


 麗は不満そうに口をへの字に曲げた。


「ゆっきーのいじわる」

「……いじわるじゃねえっての……」


 子どもっぽい仕草は、変わらない。


 ◇


 煙草の匂いがする。瞼を持ち上げると、刺青だらけの背中が目に入った。

 俺が目覚めたのに気付いた男が振り返る。煙草をくわえた彼はにやりと口角を吊り上げた。


「よう、おはようさん」

「……」


 苦い香りの中に、鉄さびの匂いがほのかに混じっている。

 俺は目を擦りながらだるい体を持ち上げて、「……仕事?」と訊ねた。

 男は紫煙を吐き出しながら、「ああ」と気だるげに答えた。


「おもしれえ、仕事だったぜ」

「面白い仕事……? 人殺しに面白いもクソもあるのかよ……」


 男は笑ったまま俺の腰をぐいと引き寄せた。

 仕事に行く前に手酷く抱かれているから、二戦目は勘弁したかった。


「……っ、なに」

「妻が旦那を、殺してほしいって」

「……は? ……別に、よくある話じゃないの」

「そう、話自体はよくある。腐るほど、ある。……で、面白いのはこっからだ」

「……」

「女の名前は橙丘だいだいおか櫻子」

「え……っ?」

「櫻子ってやつは旦那と離婚したかった。でも旦那は離婚に応じなかった……だから殺した」

「な……なんで、離婚?」

「――好きな奴ができたんだとよ」

「好きな奴……?」

「そう、……お前だ、雪刃」

「っ!!」


 嘘だろ? そんな、まさか。

 俺の事を? だって、二、三度くらいしか会ってない――。


「心はなあ、雪刃。ひとの勝手にゃならねえのさ。恋に落ちるっていうだろ? 落とし穴なんだ、恋ってのはさ。だから……思いがけず落ちることなんざ腐るほど、ある」

「……」

「俺がお前に惚れたように、お前が俺に惚れたように……な?」


 唇をなぞられた。

 なぞった指が首筋を通って、顎を伝い後頭部に回った。ぐっと強く押さえつけられる。

 目と鼻の先に、凶悪な男の顔。ますます血の香りが濃くなった。


「……ふ、風蛇ふうださん……」


 長い舌が現れて俺の口をぱっくり食らった。無理矢理ねじ込まれて舌と舌が蛇みたいに絡み合う。


「ン……んぅっ……ん゛ッ」


 酸欠になりかけたところで、風蛇さんは俺を離した。唾液が銀色の糸を引くのが見えた。


「……大丈夫だよ、雪刃。お前のことはだあれにも渡せねえから」


 腰に回っていた手が下降する。やわく揉まれて、あわいを探られた。

 だめだ、と警鐘を鳴らす頭とは裏腹に俺の体は期待に熱く昂っていた。


「……堕ちちまおうぜ、俺と地獄に」

「……ふうださん……」


 遠矢は櫻子さんが好き。

 麗は遠矢が好き。

 櫻子さんは俺が、好き。

 俺は風蛇さんのことが好き。

 風蛇さんも俺のことが、好き。

 風蛇さんがたとえ『死神』だったとしても、俺は構わない。

 ああ、俺だけが相思相愛なんだ。幸せなのは俺ひとりだけだ。

 なんて――罪深いんだろう。

 ここは、まるで地獄らくえんみたいだ。

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