4-10

 稽古場全体が揺れるかと思うほどの怒号に、全員が身を縮こまらせた。

「ここは恋人が殺害されて恐怖と絶望に墜ちるシーンなんだ! そんな悲鳴じゃ変質者に出くわした子供みたいじゃないか!」

 犬養が怒号を飛ばしている相手は、劇団で最年少の女優だ。

「すみません、上手く想像を働かせることができなくて」

 女優は今にも泣きそうな様子で、蚊の泣くような声で弁明する。

「死体を目の当たりにした恐怖を想像できないと?」

「はい。すみません、教えてください」

 女優が頭を下げる。

「君達。狂信者が騎兵隊長に斬りかかる直前までやってくれ」

 二人の俳優に指示を出しながら、犬養はゆっくりと車椅子を動かし始める。二人の俳優は、戸惑いながらも演技を始めた。

「目を覚ませ! 君に邪神の血など流れてはいない! 君に、僕に流れているのは、カステイン家、人間の暖かい血じゃないか!」

「黙れ! やはりお前は王に相応しくない。偉大なる黄衣の王に血統であることを誇るどころか、下賤な人間であることに執着するなど! お前はいつも私を嘲笑していたな。今だって、私がなにも手に入れられなかった人生に絶望して、出鱈目な妄想に縋っていると馬鹿にしているんだろう!」

 察するに、騎士団長と狂信者は血縁関係にあるのだろう。狂信者は自分に黄衣の王の血が流れていると妄想し、自分が次代の王になろうとしている。騎士団長は彼を正気に戻そうとしているのだろう。

「どうしてそう思うんだ? 僕達は子供の頃から、従兄弟として、友人として、一緒に育ってきたじゃないか!」

「よくも思ってもないことをべらべらと言えるものだな! お前の目には、いつも私に対する侮蔑の色が宿っていたぞ! このような軽薄な奴が王位継承者の座にいるなど、黄衣の王の面汚しだ! ここで貴様が存在していた記録を抹消してやる!」

 そして、二人は手に持った棒を交える。本来は、ここで殺陣が入るのだろう。

 途中、何かを拾うような仕草をした犬養は、稽古場をぐるりと回り、女優の隣で止まった。

「二人は剣を交える。これは、君を巡る争いでもある。狂信者もまた、君に密かに恋していた。騎士団長と君が並んでいるのを見て、歯噛みしたこともある。カステインと聞いて外に飛び出した君が騎士団長ではなく狂信者だったことに気づいた瞬間に浮かべた失望の表情に、狂信者は幾度となく傷ついてきた」

 これは演技指導だ。そのはずだ。だが、彼の言葉はまるで彼女を非難し、追い詰めるかのような色があった。お前のせいで騎士団長は死ぬのだ、とでも言いたげに。女優の顔も、心なしか引きつっている。

「君は内心では安心していた。恋人は騎士団長だ。剣の腕なら国内で右に出る者はいない。負けるはずがない。そう信じ切っていた。だが、既にハスターの寵愛を受けていた狂信者は人知を越えた力で騎士団長の首を──」

 犬養の手元から、ちきちき、という音がした。勤め人時代オフィスで、あるいは学生時代に教室で、聞いたことのある音だった。まずい。恋は咄嗟に犬養の元へ走ろうとする。だが、あまりにも遠すぎた。

「掻き切った!」

 犬養は叫びながら、右手に握ったカッターで自らの首を切りつけた。稽古場の空間は、それを目の当たりにした女優の悲鳴に満たされた。

「良い悲鳴だ。それを忘れるな」

 首から流れる血が白いシャツを襟元から染め上げていく。にも関わらず、彼は女優の悲鳴に心底満足そうだった。

「何してるのよ! 信じられない!」

 タオルを持った紫が彼に駆け寄る。かなり深く切ったのか、傷口に当てられたタオルにもすぐに血が染み込んでいった。

 すぐ側に居た俳優が車椅子を押し、彼を別室に連れて行く。紫も傷口を押さえたまま、それについていった。

 重苦しい沈黙の中、誰かの携帯の音が鳴る。女優が一人、荷物から携帯を取り出して短い会話をした。

「午後から来る予定だった花村さん、救急車で病院に運ばれたそうです」

「どういうことだ?」

「電車の中で過呼吸を起こして倒れたみたいで」

「無理もないな。最近稽古に来るのも辛そうだったし」

 役者達が口々に言う。

「こんなんじゃ、本番を迎えるより前に皆がノイローゼになっちまう」

 精悍な顔の俳優──宴の日、恋に紫を頼むと言いながら酒を煽っていた男、武田が呟いた。

「……私、桔梗さんにさっきの電話の件、報告してきますね」

 恋は稽古場から出て、紫達が向かった方向に進む。彼女らがどこにいるかはすぐにわかった。廊下にまで言い合いをしている声が響いていたからだ。どうするか逡巡したが、このまま怒鳴り合いを続けさせてもきっと埒が空かないだろう。ノックをして、入室した。

「すみません。花村さんという方が、こちらに来る途中で倒れて救急車で搬送されたという連絡がありましたので」

「そんな」

 紫は青ざめる。

「詳しいことはわかりますか?」

「又聞きになりますが、電車内で過呼吸を起こしたそうです」

 それを聞くなり、紫は再度犬養を振り返って言う。

「あんたのせいよ、これでも、まだわからないの?」

 般若が降臨したのかと思うほどの剣幕だ。整った顔は、怒りに歪んでいる。しかし、犬養も一歩も引かずに言い返す。

「皆、覚悟が足りないんだ。三年、三年だぞ! この三年を取り返すほどの公演をしなければいけないんだ! それが何故わからない!」

「三年なにもできなかったのは、あんたの都合でしょ!」

 紫のその言葉を聞いた瞬間、犬養の表情が変わった。ただでさえ出血して血の気が引いていた顔が蒼白になる。

「お前に……」

瞬時に眉間に深い皺が寄り、紫を睨んだ──などという生温い視線ではなかった。今にもカッターで紫の首を切り裂くのではないかと思うくらい、その目は「殺意」に満ちていた。

「お前に、なにがわかる!」

 瞬間、彼は片手で傍らのパイプ椅子を掴み、放り投げた。恋は目を疑った。ずっと車椅子に座っている、少年のように細い体。それが軽々と、片手で、椅子を放り投げるなど。

パイプ椅子は窓に直撃し、硝子が粉々に砕け散る。警備システムが反応したのか、けたたましい警報が鳴った。すぐさま警備員が駆けつけてくる。

「ふざけるな! なんの思想も無い、役を入れるだけの器に、僕の何がわかる!」

 紫に掴みかかろうとしたのか、彼は前のめりに車椅子から崩れ落ちる。しかし、彼は這いずりながらも依然として紫に食ってかかろうとしていた。その姿はまさしく、憎悪に燃えた犬であった。あまりの剣幕に、その場にいた全員が唖然としてそれを見ていた。紫も流石に気圧されたのか、彼を睨みながらも後ずさる。

「主宰、落ち着いてください!」

 恋は我に返り、犬養を押さえようとした。しかし、言葉として聞き取れない叫びと共に物凄い力で振り払われてしまった。思わず恋はよろける。

 それを見てようやく自分達の職責を思い出したのか、駆けつけた警備員達が全員で犬養を押さえ、車椅子に戻そうとする。しかし、犬養の細い体はびくともしない。気が狂った犬のような唸り声が部屋に響く。おぞましい光景であった。

「片須さん、巻き込んでごめんなさい。後は私達でなんとかしますから」

 紫が恋に囁く。

「でも」

「大丈夫です」

 まだ怒りが醒めないのか、そう素っ気無く言う紫に何も言うことができず、恋は言われるままに稽古場を後にした。

「疲れた」

 思わず声に出して呟いてしまった。このまま公演が中止になってくれれば、ハスターも諦めてヒアデス星団に帰るだろうか。どう見ても、犬養はまだ活動を再開できる状態にないのは明らかだ。

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