3-5

 朝日の中新宿に戻ると、彼はしまった、と呟いた。

「買い物頼まれてたことを忘れてた。手伝ってくれる?」

「構わないけど、どこ行くの?」

「ドラッグストア。僕、店の皆と共同生活してるんだ。人数が多いからいろんなものがすぐになくなる」

 裕福ではない者が似た境遇の者と共同生活をして生活費を軽減するという話はさほど珍しいことではないだろう。特に歌舞伎町は様々な事情を背負った若者が流れ着く場所でもある。店によっては従業員に寮を提供してやることもあると聞いたこともある。

「ドラッグストアなんて、朝からやってるの?」

「ここは歌舞伎だよ」

 彼の言う通り、チェーン店のドラッグストアは早朝から何食わぬ顔で営業していた。買い物カゴを持って彼の後ろをついて歩く。洗剤やシャンプーなどの生活必需品で、瞬く間に二人分のカゴは一杯になった。なるほど、これは二人でなければ重労働だろう。

「一緒に暮らしてるみたいだね」

 不意に投げかけられた言葉に、思わず両手で持っていたカゴを落とした。爪先がカゴに潰されて、恋は無様な悲鳴を上げた。

「なにやってるの」

「君が変なこと言うからでしょ」

「嫌?」

「そういうわけじゃないけど」

 自分でも驚くほど動揺している。ただの戯言だというのに。

「本当に一緒に暮らしちゃおうか」

「そんな営業かけたって、無い袖は振れないよ」

「違うよ、本気。この街を出て、お姉ちゃんの弟として転がり込むんだ」

「待って、それは困る。あたしの家、六畳一間だから」

「大丈夫だよ、僕には一畳くれれば」

「何言ってるの。その体じゃ足が一畳からはみ出すでしょ」

「お姉ちゃんは、僕と暮らしたいと思わないの?」

 冗談で煙に撒こうと思ったが、やたらと粘ってくる。仕方なしに、恋はまた少しだけ本音を晒した。

「真面目な話をするとね、今は無理。先立つものがないもの」

 一緒に暮らしたくないと言えば、嘘になる。月曜日から金曜日まで労働に勤しみ、日曜日になれば来る月曜日の事を思い憂鬱になりながら、六畳の部屋で震えて過ごす生活は、ひどく虚しい。

 彼と出会うまでは、土曜日と日曜日は何もない、ただ体を休めるだけの日だった。三十路にもなれば友達も結婚したり子育てをしたり、今後の身の振り方を考え直したりと、気軽に呼び出せるものではなくなっていた。彼がいれば、そんな孤独と虚しさからは逃れられるだろう。だが、それは自分の都合だ。

「二人で暮らすって簡単な話じゃないの。今のままじゃ、あたしに何かあったら立ち行かなくなる」

「僕を養うだけの力がないってこと?」

「そうだよ。だって君、今の世界から抜けていきなり昼の仕事なんてできる? それに、あたしの方が年上なんだから」

「貴方はそれを過度に気にするよね」

「当然でしょ。年下を守るのは年上の責務よ」

 彼が今の世界から逃げたがっていることには、薄々勘づいてはいた。

「貴方は自分を年上だっていうけど、僕だってこの姿に落ち着いたのが数年前っていうだけで、本当は貴方の百倍くらい生きてるんだよ」

「また変な設定を生やしてきたわね」

「テケリ・リ!」

「奴隷じゃん」

「そう、奴隷。だからお酒を飲まなきゃいけないんです」

「それを言われると頭が痛いな」

 本当は、酒を飲んで吐いてを繰り返すような生活などさせたくない。だが、今の自分では彼の人生に対して責任が負えない。

「真面目だね」

「真面目だよ」

 やや拗ねたような表情と口ぶりで言った冷に対して、恋は敢えてぴしゃりと撥ねつけるように言った。しかし、冷は引かない。

「そんなに気負わなくて大丈夫だよ。僕には寝る場所と、名字だけくれればいい」

「早くレジ行ってきなさいよ」

 後半部分は聞かなかった振りをして、彼を小突いてレジに向かわせた。

 店を出て、膨らんだビニール袋を持ちながらまた早朝の街を歩き出す。そういえば、どこまでこれを運ばせる気なのだろう。

「さっきの話、真面目だからね。僕は好きな人の名字が欲しいんだ」

 歩きながら、再び彼が言った。

「そうなれば、もっと真面目に考えなきゃいけなくなるわ。あたしだって君の事を思えばこそ、適当なこと言えないし、できないの」

「知ってるよ、そういう貴方が好きだし、信頼もしてる」

 突然、彼がぴたりと歩を止めた。

「信頼ついでに教えるけど、僕が暮らしてるのはここ」

 見上げると、小綺麗なマンションが建っていた。立地も考えると、一人で暮らそうと思えばなかなかの家賃を払うことになりそうだ。

「結構、綺麗な所じゃない」

「教えたのは貴方が初めてだよ。なんでかはわかるよね」

 ぺらぺらと吹聴した場合に起こりうることを想像してみる。商売が商売なだけに、最悪警察沙汰もありえるだろう。そう考えると、本当に信頼されているのだと実感する。

「そりゃどうも」

「荷物運び、手伝ってくれてありがとう。ここまでで大丈夫」

 恋の手からビニール袋を取って、彼はひらひらと手を振る。

「気をつけて帰るんだよ」

「なんだ、一人で持てるんじゃない」

 憎まれ口を叩き、手を振り返して駅に向かって歩き出す。マンションが見えなくなったあたりで、恋は頭を抱えた。

 結婚──このあたしが、結婚?

 考えてみたこともなかった。一生縁の無いことだと思っていた。結婚は人生の墓場という言葉もあるし、責任も増える。勝手気ままに遊んで暮らすこともできなくなると思っている。だが、彼と共に生きられるなら、その責任は十分に釣り合うものだと思えた。たとえ墓場だったとしても、入って構わないと思えた。

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