第6話 新しい朝

「アグニ、起きてーっ!」

「わぷっ⁉」


 うつ伏せで寝ていたアグニは、顔に突風を感じて飛び起きた。寝ぼけ眼で宙を舞った掛布団を追っていると、ひょっこりと視界に入ってきたコガが片手を上げる。


「おはよっ」

「お、おはよう……」


 半分寝ているような声で返事をすると、コガは満足げに笑った。寝起きとは思えない朗らかさだった。アグニはコガがすっかり身支度を整えていることに気がつき、慌ててぼさぼさと立ち上がった前髪を撫でつけた。


「ここね、食べ物が何もなかったの。朝ごはんどうしよう」

「ふあ、うん……どうしよう……」


 コガは目を擦るアグニをじっと見つめると、ふっと目を細める。


「ふふ、二度寝しないでね」


 そう言ってスキップで退室していく背中を、アグニはふわふわとした気分で見送った。コガは相当朝に強いようだ。半ば畏怖のようなものを感じながら、アグニはベッドに視線を落とした。開きっぱなしの分厚い本が枕に乗っている。どうやら、本に顔を突っ込んだまま寝落ちてしまったらしい。


(えっと、僕、何時に寝たんだっけ……)


 アグニは大きなあくびをすると、重たい本を閉じてサイドテーブルに置いた。数年前に大流行して、映画化までされたSF小説だ。城の図書室は、古今東西の名作だけでなく、児童書から図鑑、参考書まで幅広いジャンルを取り揃えている百点満点の品揃えだったが、肝心の王妃たちがそれほど読書家ではなかったのか、貯蔵年数の割には綺麗な本ばかりだった。


 結局昨晩は、これから住むことになる城の簡単な案内を受けたあと、早々に解散することになった。それもこれも、アグニは図書室に後ろ髪を引かれ、コガは広いキッチンに心を奪われ、すっかり集中が切れてしまったからだ。

 建物は四階建てで、一階には大きな食堂やキッチン、浴室があった。二階より上はほとんどが寝室だが、図書室や談話室、ピアノが設置された遊戯室などもある。聞けば、王妃だけではなく、一部の使用人たちも暮らしていたらしい。国王が住む建物に比べると小さくはあるが、日常生活を送るには申し分なく、贅沢すぎるほどの設備であることに違いはない。

 ともかく、城内の探索は翌朝の楽しみとして、アグニとコガはそれぞれあてがわれた一室で眠りについたのだった。


(なんて、僕はあんまり寝てないんだけど……)


 アグニは夜明けまで読んでいた本を眺めながら苦く笑った。


(SF小説はあんまり自分では買わないけど、結構面白いな……専門的な言葉が出てきても話の流れで大体分かるから難しすぎないし、何より、未知の世界へのロマンがある。それも、現実世界と地続きになっているようなロマンが……)


 じわじわと続きを読みたくなり、アグニはぶんぶんと首を振った。もう引きこもりではないのだ、と気合いを入れる。昼夜が逆転しない、きちんとした生活を送るのは久しぶりだった。

 いそいそと身支度を整え、カーテンと窓を開けた。爽やかな朝の風が吹き込む。朝日の眩しさに目が慣れると、昨晩はおぼろげだった景色がよく見えた。


「うわ……」


 アグニは小さく声を上げた。日光を受けて輝く草木は、ぼうぼうと好き勝手に伸びている。緑の隙間を縫うように歩道らしきものも見えるが、放置された資材や庭道具で塞がれていた。こちらの区域は全く使われていないと説明は受けたが、一国の城がここまで荒れ放題になるのはまともではない。昨日受けた説明と相まって、グリア王国の異常さが見え始めていた。


 アグニは寝室を出ると、がらんとした廊下を歩き出した。床はこつこつと音を立て、無人のフロアによく響く。一定の間隔をあけて吊るされたシャンデリアは美しいが、ほこりのせいか鈍い輝きでしかなく、虚しさの方が際立った。

 アグニはふと身震いして、歩いてきた廊下を振り返った。当然、誰もいない。


「なんだか寂しいんだよな、このお城……」


 ぽつりと呟く。かつて大勢の人間が住んでいたこの建物は、今は人の気配など全くなく、もぬけの殻になっている。全盛期の賑やかさが想像できるだけに、ふっと命を抜かれたような、ぽっかりと穴が開いているような、そんな寂しさがあった。


(まあ、『幽霊屋敷』に住んでいた僕が言えたことではないんだけど———)

「アグニ」

「ひゃあ!!」


 突然名前を呼ばれて、アグニは悲鳴を上げた。驚いて振り向き、そこに立っていた人物を見てがっくりと肩を落とす。

 セシルは驚かせた自覚もないのか、昨日とそっくり同じ格好でじっと立っていた。長いまつ毛を伏せてアグニを見ると、するすると連絡事項を読み上げ始める。


「言われた通り、君の母親には昨晩連絡した。あまり賛成していないようだったが」

「あはは、そうだろうね……今日僕から説明しに行くよ」


 めちゃくちゃな惨状の家に帰ってきた母親の心境を想像して、アグニは心から申し訳なくなった。しかも昨晩、「お前の息子は預かった」に等しい連絡が機械のような男から届いたのだ。平常心で寝付けたとは思えない。今すぐにでも顔を見せた方がいいだろう。


「ということは、街に出なきゃいけないのか……」


 アグニはふと気づいて呟く。想像しただけで背筋が寒くなった。長年背を向けていた場所に、ついに赴かなければいけないらしい。

 セシルは不意に黙りこくったアグニに気がつき、顔を覗き込むように様子を伺った。


「街がどうした?」

「うーん。僕、この国に来てからろくに外に出たことがないから不安で」


 その言葉を受けて、セシルはしばらく思案するように固まっていた。興味深いとは思っているらしいが、グレーの瞳に理解の色はない。


「……何が不安なのか分からない」

「ふふっ」


 案の定なコメントに小さく吹き出すと、アグニは再び廊下を歩き出した。セシルもそれに倣い、二人分の足音が廊下に響き始める。


(理解したふりをされるよりも、理解できないってきっぱり言われる方がいいな)


 アグニはセシルを横目で見ながら考えた。高身長ゆえか歩幅は大きく、歩くスピードも早い。アグニが若干小走りになっていてもお構いなしだ。


(これからここに住むんだったら、セシルのこともよく知らなきゃ)


 ふとそう思い、アグニは口を開いた。


「セシルはここで暮らしてるの?」

「いや、普段は向こうの建物にいる。寝室も向こうだ。仕事はこちらではできないし……国王の病状が回復することがあれば、私がそばにいなければ」


 アグニは首を傾げる。いまいち、セシルがどういう立場か掴めない回答だった。


「もしかして、セシルって結構偉い?」

「国王の側近というだけだ」


 セシルは大して興味もなさげに言った。アグニは「側近」と繰り返す。いつからその立場にいるのかは分からないが、若くして年配の国王に認められ、側仕えを許されるというのは優秀に違いない。


「じゃあ僕たち、セシル以外の人とも会うことになるのかな? そんなに偉いんだったら、僕たちにつきっきりは無理だよね」

「私以外の人間に君たちの存在を明かすつもりはない」


 すぐに否定の言葉が放たれる。セシルは歩調を落とし、アグニと目を合わせた。


「君たちの生活と身の安全は、何よりも優先されるべきだ。ここで暮らしてもらうにあたって不自由ないよう手は回すが、君たちと城の人間を不用意に接触させはしない……」


 セシルはそこまで言って、ふと足を止めた。数歩進んだ先でアグニも立ち止まる。「どうしたの?」と言いかけて、廊下の先から聞こえる異音に気づいた。

 城全体にと轟くように、ごうごうと、不気味な音が響いている。そしてそれは、ゆっくりと、アグニたちの方に近づいてきていた。窓はがたがたと音が鳴り始め、隙間風が悲鳴のように伸び上がっていく。曲がり角の先に音源があることを察したアグニは、身構えてセシルの方を振り向いた。


「セシル……って、あれ?」


 セシルは棒立ちのまま、ひとり戦闘体勢のアグニを眺めていた。そしてふいと顔を逸らすと、音がする方に視線を向ける。

 アグニはその視線を追うと、ぬっと現れたものを見てギョッと飛び退いた。


「何あれ⁉」


 アグニの身長ほどもある、灰色の球体が浮いている。音に合わせてぞわぞわと形を変えるそれは、おぞましさすら感じる見た目だった。よく見ると、何か細かい物体が集まって、球のかたちに渦巻いているようで———


「は、は、はっくしょん!」

「へくしゅっ!」


 アグニが盛大にくしゃみをすると同時に、曲がり角の奥からもくしゃみが聞こえた。鼻を垂らして顔を上げると、袖で顔を押さえたコガがトコトコと現れる。


「コガ……?」

「あ、さっきぶり。セシルもいたんだね」


 コガは真っ赤になった鼻をこすりながら挨拶をすると、もう一度大きなくしゃみをした。手で嗜めるような動きをすると、球体がすっと移動する。コガはその横をすり抜け、アグニとセシルに手を振るが、それ以上近づいてくる素振りはない。


「あのね、暇だからお城の掃除してたの……えへへ、あんまり近づかないほうがいいかも」

「掃除……って」


 アグニは驚いて球体に目を向けた。まじまじと目を凝らすと、見覚えのあるもので構成されていた。ふわふわと綿毛のようなほこり、絡まった糸くず、どこからか入り込んだ砂、あまり直視したくない虫の死骸……それらが全て、コガの起こす竜巻のような風によって一纏めにされている。


「こ、これ、全部ゴミ⁉」


 コガは器用にゴミの塊を浮かせながら、こくりと頷いた。くしゃみを我慢しているのか、大きな目は若干涙目で、鼻元はむずむずと歪んでいる。


「わたし、昔から掃除は得意だったの。ちゃんとすみっこまでキレイにできるんだよ」


 コガは得意げに胸を逸らしたが、次の瞬間には一際大きなくしゃみで身体を折っていた。


「ゴ、ゴミって、どこに捨てればいいかな……」


 コガが早々に距離を置いていたセシルに尋ねると、セシルは無言で手招きした。この建物に収まっていたらしい大量のゴミが宙を移動し、窓から差し込んだ光を透かすのを眺めながら、アグニは言いようのない高揚感を感じていた。

 今までアグニは、自分の力と共存するということを考えたことがなかった。アグニにとって力は呪いのようなもので、表出しないように、飲み込まれないようにするのが精いっぱいだったのだ。

 それなのに、自分と同じ特別な力を持つコガは、その力と共存し、活用している。


「僕も、うまく力を使えるようになるかな」


 無意識に呟いた声は踊っていた。うずうずと高まる気持ちに合わせて走り出すと、勢い余ってコガの背中に衝突する。


「やっぱり、コガと友達になれて良かった!」

「あっ」


 その瞬間、衝撃で集中が途切れたコガが、大量のゴミを床に落とす。紙吹雪のごとく宙を舞ったほこりを吸い込んだ二人は、しばらく止まらないくしゃみに悩まされたのだった。

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