第2話 初めての友達
アグニは目を開けた。ぼんやりした意識のまま、目だけで辺りを見回す。そして視界に入って来たのが、自室の天井や、眠り込むまで読んだ分厚い本ではないのを理解した途端、飛び上がるようにして上半身を持ち上げた。
「ぼ、僕……」
自分の身体をぱたぱたと触るが、目立った異常はなかった。お気に入りのパーカーもだぼついたズボンもいつも通りで、指先から爪先までしっかりと動く。特に外傷は見られない。強いて言えば、焦げ臭いような匂いがするだけだった。
次に、周囲をぐるりと見回した。
「お城……?」
無意識のうちに出てきた言葉はそれだった。
アグニが寝ていた床には、分厚い絨毯が敷かれている。ぞんざいに転がされていた割にそれほど身体が痛まないのは、どうやらこれのおかげらしい。
部屋にある家具は、椅子やベッド、クローゼットまで全て白地の木製で、金色の縁取りがきらめいていた。調度品のような重厚感はなく、あまり使い込まれていないようだが、高級品には違いない。
(ここって……)
思い当たる『お城』は一つしかなかった。
ここ、グリア王国には、街の中心部に大きな城がある。名前の通り国王を君主としているこの国は、数十年前、海底火山の噴火で生まれた島国だ。島の開拓にあたり、最も資金を投じた世界的な大富豪が建国し、そのまま国王の座についた、というのが、ざっくりとしたグリアの歴史だった。
「もし、ここがそのお城だとして、ど、どうして……うわぁ!?」
ぶつぶつと呟きながら立ち上がったアグニは、部屋の中央にあったベッドを見て悲鳴を上げた。床から見た時は気づかなかったが、掛布団には一人分の膨らみがあり、微かに聞こえる寝息とともに上下していた。
アグニはフードを被ると、息を潜めながら恐る恐る近づく。内心どこかで、起こさないように、と気を遣っている自分が滑稽だった。
(じょ、女子だ……!)
枕に頭をうずめているのは、黒髪の少女だった。寝顔は幼く、年はアグニと同じくらいか、短い髪や健康的な肌色から年下のようにも見える。
アグニはまじまじと見つめたあと、突然悪いことをしているような気持ちになり、慌てて目を逸らした。母親以外の女性と遭遇するのは数年ぶりだった。
一旦距離を置き、呼吸を整える。寝ている少女を起こすという勇気ある行動を取る前に、全ての可能性を潰しておきたかった。
部屋中をくまなく散策し、他に誰もいないこと、ドアと窓が開かないことを確認する。窓からは月明かりに照らされた庭が見えたが、草木が生い茂っており、人の往来もない。ここから助けを求めることは不可能だった。他に手がかりもなく、ついにベッドに向き直る。
(何を言おう? 自己紹介をして……いや、その前に怪しい者じゃないって言うべきなのかな?)
ベッドの周りを行ったり来たりしながら、ぐるぐると考える。
(無理難題だよ! 母さん以外とコミュニケーションをとったことなんて、ここ数年ないんだし……ま、まずは挨拶と自己紹介! だよね?)
再び少女の方に視線をやったところで、踏ん切りがつかず立ち止まる。
「いや、でも、寝てるところを起こすのは……」
「ううーん……」
「ひッ!!」
少女が大きく伸びをし、アグニは悲鳴をあげて壁際に飛び退いた。
手で顔を隠し、指の隙間からベッドの方を覗く。少女は何かむにゃむにゃと言いながらも、ぱちりと目を開けた。
「んん、あれ、わたし……」
少女はむくりと上体を起こした。掛布団に隠れていたが、よく見れば、青と白を基調とした奇妙な和服姿だった。少女は数回瞬きをしたあと、部屋の様子を見て大きな目をさらに見開く。驚異的な寝覚めの良さだった。そしてどうやら、少女もこの部屋に見覚えがないらしい。
(とりあえず、敵、じゃないのか……)
アグニはその様子を遠巻きに見つめつつ、顔を覆っていた手を下ろす。
(よし、あいさつ、あいさつ……)
ベッドの方にじりじりと近づいていく。こんばんは、こんばんは、と、最も一般的な挨拶の言葉を心の中で復唱しながら、息を大きく吸った。
「こ……!」
一音目でつまずき、中途半端な姿勢で固まる。
(うう、緊張して、声が出ない……!)
アグニが部屋の隅でもがいている間、少女はさっぱり心当たりのない景色を前に、おぼろげな記憶を整理していた。
(たしか、お庭の掃除をしながら、晩ごはんのことを考えてて。そしたら、お客さんがきて。メガネのお兄さんだったかな? そこから……)
うーん、と首を傾げる。それ以上のことは思い出せなかった。
(もしかして、わたし、ユーカイされちゃった……?)
「いだっ!!」
「ひゃああ!!」
少女が悲鳴をあげて振り向く。そこには、足をもつれさせ、絨毯の上に倒れ伏したアグニがいた。
「だ、だれ……?」
アグニは、少女に根付いたであろう最悪な第一印象を憂いながら、不安げな少女の声を聞いていた。覚悟を決めて起き上がる。顔から突っ込んだからか、恥ずかしさからか、鼻先が赤くなっていた。
「こ、こんばんは。僕は、アグニです。えっと、怪しい者じゃないんだ、君から見れば怪しいと思うけど……」
「あぐに……」
少女は名前を復唱した。しばらく困惑した表情をしていたが、はっとして眉をつり上げる。
「わたしをここに連れてきたのはアグニなの?」
「違う!」
アグニは焦って否定すると、両手で部屋の中を示した。
「僕、誘拐されたんだ。目が覚めるとここにいて」
少女は示された通りに部屋中を見渡したあと、アグニの方に向き直った。細身の少年は、オロオロとひどく動揺した様子だが、目はまっすぐと少女の方を見つめている。嘘をついているようには見えなかった。
「……じゃあ、わたしと一緒だね。わたしたち、ユーカイされちゃったみたい」
少女は肩をすくめ、ベッドから下りた。短いズボンからすらりと伸びた足は、軽やかに絨毯を踏む。アグニの正面に立つと、少女は背筋をぴんと伸ばし、少し上の位置にあるアグニの顔を見つめた。
「し、信じてくれる?」
アグニが緊張した声色で尋ねると、少女はにこりと笑った。瞳からは疑いの色が消え、ただ澄んだ青色を映している。
「うん、信じるよ。なんだか、嘘がつけなさそう人だし」
「そ、そう? よかったぁ」
アグニはほっと胸を撫で下ろした。この状況に解決の兆しは見えないが、自分と同じ境遇の少女がいて、彼女の疑いが晴れたことは喜ばしい。ところどころ最悪な点はあったものの、結果的に上手いコミュニケーションだったんじゃないか、とアグニは自分で自分を褒めた。
少女はそんなアグニの様子をまじまじと観察したあと、すっと手を差し出した。
「わたしはコガ。よろしくね」
「あっ……」
アグニは言葉に詰まって、差し出された手と、少女……コガの顔を交互に見た。コガが首を傾げると、アグニは遠慮がちに手を伸ばす。火傷をさせてしまわないかが気掛かりだったが、幸い手のひらは熱を持っていなかった。
「よ、よろしく。コガ、さん……」
「コガって呼んで!」
コガはそう言って、もだもだと宙を彷徨うアグニの手をさっと掴んだ。その時だった。
ざわっと肌が波打つような衝撃があり、二人は同時に目を合わせた。呆然とする間もなく、アグニは頬をさらりと撫でる風を感じた。実をつけた植物がさらさらと音を立てて揺れるような、心地よさに思わず目を閉じるような、爽やかな風だった。
一方コガは、手のひらにじりじりと燻る熱を感じた。咄嗟に手を引き戻しかけたが、それは火傷を起こすようなものではなかった。ただ、焚き火のそばにいるような、優しいあたたかさだけが手を通して伝わってきていた。
幻としか言いようがない、奇妙すぎる現象だった。
しかし、二人には幻で済ませられない理由があった。
「あ……」
沈黙を破り、先に声を発したのはコガだった。しっかりと結ばれた手に視線を落とし、何かを言おうとして口ごもる。そして再び目を合わせたとき、その目の奥に不安と期待があるのを見て、アグニは息を飲んだ。アグニと同じ孤独を知っていて、今この瞬間起こった奇跡を信じている目だった。
「う、う、うわぁ~ん……」
「ええ、ちょっと、アグニ!」
アグニはへなへなと崩れ落ちると、コガと手を繋いだままわっと泣き出した。コガは慌ててしゃがみ込むと、空いた方の手でアグニの背中をとんとんと叩いた。その優しい手つきに一層安心感を覚え、涙はいよいよ止まらなくなっていく。
「コガ、君も僕と同じなんだね」
しゃくりあげながら何とか言葉を紡ぐと、コガは数秒固まったあと、こくりと頷いた。手がぐっと強く握られる。
「アグニもそうなんだね。わたし、ずっとこの日を待ってたんだよ」
アグニはぼやけた視界の中で、眉を下げて微笑むコガを見つめていた。歓喜のためか、深い青色の目はきらきらと輝いている。お互いの奇跡を握り締めて触れ合う手は、彼女が同類であることを強く主張していた。
(僕もそうだ、ずっと待ってたんだ)
アグニは、空いた方の手で目を擦りながらそう思った。制御し切れずに生み出した炎を眺めているとき、窓の外の賑やかな往来を見て死にたくなったとき、世界のどこかに自分と同じような人間がいるのでは、と考えたことは何度もある。この気持ちを真に理解してくれる人がいればどんなに良いか、心の内を分かち合えればどれほど安心するか。
アグニは何度か深呼吸して、声を出すために息を整えた。
「コガ、僕さ」
「うん」
何とか話し始めると、コガは続きを促すように頷いた。
「その、コガと、仲良くなりたいんだけど」
「うん!」
コガはアグニが何を言おうとしているのか察したのか、屈託のない笑みを見せる。アグニは気恥ずかしさを抑えると、隠しようのない手の震えから目を逸らしながら囁いた。
「友達、に、なってくれる……?」
「もちろん!!」
途端、手を振り解いたコガが飛びついてくる。アグニは辛うじて体を支えると、柔らかいコガの体に触れないよう両手を上げた。顔が真っ赤になっているのが自分でも分かった。
「わぷ、ちょっと、コガ……」
「わたし、友だちって初めて」
耳元で聴こえる声はか細く、アグニは強張らせていた体の力を抜いた。ふうと息をつきながら呟く。
「……僕もだよ」
「なんだ、もう目が覚めたのか」
突然第三者の声がしたのはその時だった。
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