【短編】犬と掃除機

三文

短編 犬と掃除機

 わたしは犬を飼ってからというもの、掃除機を掛けることが嫌いになった。犬を飼う前はこうなるとは思っていなかった。


 わたしが初めてその犬と出会ったのは、近くのホームセンターに行ったとき。そこに併設されていたペットコーナーで一目惚れした。犬種はゴールデンレトリバー。もしも、わたしが犬を飼うのなら、きっと柴犬や秋田犬だろうと思っていたし、その日もそれらの犬を目当てにペットコーナーに立ち寄ったのだ。それでも、そのゴールデンレトリバーの黒い瞳に見つめられた時、気付けば店員さんに声を掛けていた。


 はっとした。犬を飼うのならなんて妄想はしていたけれど、でも現実に飼おうとはあまり思っていなかったからだ。そんなつもりもないのに、私は店員さんを呼んでいたのだ。


 それから少し店員さんと話してから、結局、飼うことになった。この話をすると友達なんかは「その人は商売上手だったのね」なんて言うけれど、わたしはゴールデンレトリバーにこそ絆されてしまっていたのだ。ケージの中から解放されたそのゴールデンレトリバーは、まっさきにわたしのところへ駆け寄ってきて、背中を押しあててきて、しっぽをヘリコプターみたいに振って。あんまり可愛いから、きっと借金をしてでも飼っていたと思う。ああ、やっぱりお金の話はやめよう。良くない。


 とにかく、そうして私はゴールデンレトリバーを飼った。難関はすぐに訪れた。名前をどうするかということだった。わたしはもう結婚を諦めていたから、まさか自分が名付けをするなんて、と少し不思議な気持ちになっていた。


 うーんと悩んで。でも、三日三晩考える、なんてことにはならなかった。一時間も考えれば、しっくりくる名前が浮かんできて、もうこれ以外にはないと思えたのだ。わたしは、世界で一番可愛いゴールデンレトリバーに『式』という名前を付けた。


 私が飼ったゴールデンレトリバーは雄で、可愛らしさとかっこよさを同時に持っていた。『式』という名前もそうだと思って似合っていると思ったのだ。しかし、残念なことに名前の由来はそこまで良いものではないかもしれない。昔、父が持っていた金色のロボットのプラモデル、それの名前が『百式』でそこから一文字貰って来たのだ。犬の名前をロボットから貰って来たというと、やっぱりなんだか微妙な気もしたけれど、そこには目を瞑ることにした。


 まあ、そんなわけで私の一人暮らしは終わったのだ。久しぶりの同棲生活にわたしはよく鼻唄を歌うようになった。一人で盛り上がってアルバム作りなんてものも初めてしまった。こんなに楽しいのは初めてだった。今までで一番家事をしない彼氏だったけれど、でも一番生活を華やかにしてくれたのだ。


 もちろん、苦悩だってあった。トイレに失敗されると、わたしはついつい必要以上に『式』に当たってしまっていたし、そんな自分自身の器の小ささが嫌になったりもした。それと、今まではなんとも思わなかった夜の雨が、酷く憂鬱になったりもした。仕事の関係上、わたしは夜にしか散歩に連れていってやれないから困ったものだった。


 そして、なによりもの苦悩が掃除機だった。わたしは普段から掃除が好きな方ではないけれど、『式』を飼ってから嫌いなものへと変わった。店員さんにも「ゴールデンレトリバーはたくさん毛が抜けるから、それだけは大変かもしれませんね」と言われていたけれど、想像以上のものだった。一日に三回は掃除機を掛けないと、床が埋もれてしまうほどだった。一週間もサボれば、きっと毛玉で大きな雪だるまが出来てしまう。いや、それは少し大げさだけれども。でも、とにかく、掃除が大変なのだ。


 『式』に対する不満は色々あった。もし言葉にするのなら、一年は喋るかもしれない。でも、『式』と良い所だって少なくとも十二年は喋れる。これは間違いのないことだ。私と『式』の思い出は全部良いものだったのだ。かけがえのないものだった。私が家に帰ってくると、玄関で待っている『式』。冷房を付けているからドアは閉めといてと言ったのに、ドアがスライド式なのを良い事に体を押し付けて、無理やりドアを開けてわたしの帰りを待っていたのだ。私が『式』を触りながら、スマホを触っているとタックルされたこともあった。散歩は少し面倒臭いことだったけれど、ちらちらとわたしの方を見ているのが可愛かった。バケツの水がなくなると、足音を鳴らしながら私の方にやってきて、そしてチラとバケツの方を見るのだ。賢い犬だった。だからわたしがなにも心配をしないで済むように、何も言わなかったのかもしれない。


 ある日、わたしがいつも通りの朝を迎えて、『式』の頭を撫でているといっこうに目を覚まさなかったのだ。まさか、死んでいるとは思わなかった。本当に、眠るように――。十二歳、そうなってもおかしくはない歳だった。でも、まさかこんなにも突然、そしてあっさりとお別れの時が来るとは思わなかった。本当に『式』は何も苦しい思いをしなかったのか、それだけが不安だった。わたしは眠るようにと表現したけれど、でも本当はずっと何かと闘っていたのかもしれない。『式』は優しい犬なのだ。わたしの為に嘘をついていたのではないかと思うと、わたしは不安でしようがなかった。


 そして、またわたしの一人暮らしが始まった。『式』がこの家を去ってから、わたしは余計に掃除機を掛けることが嫌いになった。掃除機を掛ける度に、『式』の生きた証が、あの金色の毛が家からなくなっていくのだ。思い出が日ごとに失われていく。どんなに掃除機を掛けたくなくても、でもやはり人間として掃除機を掛けなければならなくて、それが辛かった。


 そうして三年が経った頃、わたしの家は『式』が飼う前のようになっていた。犬の独特の匂いはもう、どこかにいってしまって、金色の毛なんて一つも落ちていない。わたしは、それが寂しくなって、ふと『式』のアルバムを取り出した。作ったは良いものの、結局スマホにデータがあってそっちを見てしまうから、アルバムを見るのは久しぶりだった。懐かしい思い出がわたしを慰めてくれて、わたしはまた泣き出しそうになった。歳をとるのはこれだから嫌なのだ。そして、一ページ一ページとめくっていくと、あるページに世界で一番美しい栞が挟まっていた。金色の栞。『式』の毛がそこに挟まっていたのだ。せっかく我慢していたのに、わたしはもう涙が止まらくなった。


 ああ、やっぱり。わたしは犬を飼ってからというもの、掃除機を掛けることが嫌いになってしまった。

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【短編】犬と掃除機 三文 @Sanmonmonsan

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