天使女

天使女

 僕が通う高校には、天使女と呼ばれている女子生徒がいる。

 という話を、僕は放課後、近所のカフェで、ミルクティーを飲みながら友人に話していた。


「ええ、天使みたいに綺麗な女の子ってこと?」


 そう言った友人に、僕は首を横に振って否定した。否定してからそれはそれで失礼だな、と思い至って、「どっちかというと可愛い系」と付け足しておく。


「ふうん。じゃあ、なんで天使女って呼ばれてるの?」

「天使の絵を描くんだよ。毎日ずっと飽きずに。しかも、すごくうまいんだ」

「天使以外の絵は描かないの?」

「描かない」


 僕が即答すると、友人は「変なの」と言って笑った。

 僕は彼女と同じ美術部に所属しており、入学時から毎日彼女が絵を描いている姿を見ているわけだが、二年生になった今でも彼女が天使以外の絵を描いているところは見たことがない。


「よっぽど天使が好きなんだね」

「いや、好きとかいう域を超えてるんだよ。もう怖いくらい。あれは狂気だ」

「ふうん」


 いまいちわかっていないと言った顔でコーヒーを飲み干す友人に、僕は彼女の天使狂いぶりを語るべく口を開いた。友人は他校の生徒であるからわからないのだろうが、一度彼女と同じ学校に通ってみればわかる、彼女が天使女と呼ばれる所以が。

 先ほど「彼女は天使以外の絵は描かない」と言ったが、それは美術の授業課題にだって適応される。彼女は校舎内の風景を描きなさいと言われて天使を描き、自分の手を描きなさいと言われて天使を描き、教科書に載っている絵画を模写しなさいと言われて天使の絵を描いた。

 もちろん教師も最初は注意していた。しかし彼女の生み出す天使の絵はどれも素晴らしく美しいものばかりだったので、やがて教師も彼女の絵に魅了されて彼女を注意するのをやめた。


「そんなにすごいんだ」

「もう、本当にすごいよ。彼女は天才だ」


 そう、なんだかんだ言って、僕も彼女の描く天使に魅了されている一人だった。僕は同じ美術部員として、あのような美しい絵を描くことができる彼女を多大な尊敬と少しの劣等感をもって見つめていた。


「なんで天使の絵ばかり描くんだろうね?」

「さあ?」

「今度聞いてみてよ」

「やだよ、喋ったことないもん」

「同級生なのに?」

「同級生でもないの!」

「ふうん。でも、チャンスがあったら聞いといてね」


 そう食い下がった友人の言葉に頷いたのは、僕自身も気になっていたからだ。どうして、彼女は天使の絵ばかり描くのか。


「いいよ。まあ、チャンスなんてないとは思うけどね」


 しかし、ないと思われていた質問のチャンスは、割とすぐにやってきた。

 それは美術の授業でのことだった。二人一組でペアを作り、お互いの似顔絵を描きなさいという課題で、僕の相手は彼女だったのだ。やはりと言うべきか、彼女はペアである僕のことなど一瞥もせず一心不乱に美しい天使の絵を描いていた。僕が必死に彼女のことを観察し彼女の似顔絵を描いている間ずっとだ。

 あの美しい天使が実は僕の似顔絵……なわけないよな、と思いながらぼんやりとその天使の絵を眺める。そうしていると、ふと友人とカフェで喋った内容を思い出した。


 ──チャンスがあったら聞いといてね。


 今がそのチャンスなのではないか?


「どうして天使の絵ばかり描いてるの?」


 ダメもとでそう聞いてみる。すると、彼女はキャンバスに筆を走らせる手を止めることなく口を開いた。


「初恋なの」


 相変わらずその目は僕を見ない。けれども答えが返ってきたことが嬉しくて、僕は声を上擦らせながも必死に会話を続けようとした。


「は、初恋? 天使が?」

「ええ」

「天使に会ったことがあるってこと?」

「あるわ。幼い時に一度だけだけれど。一目惚れだったの」

「その時からずっと天使の絵ばかり描いてるの?」

「そうよ」

「どうして?」


 その時、彼女は初めて筆を動かす手を止めて顔をこちらに向けた。初めて彼女と目が合う。そのまっすぐな瞳に見つめられた瞬間、僕は恋に落ち、そして次の瞬間に失恋した。


「描いている間は思い出せるの。あの天使の顔も、声も、この恋も。だから私は描くのよ、全てを忘れないために」


 それだけを言って、彼女はまたキャンバスに向き直り、筆を走らせ始めた。真っ白だったキャンバスの上に、美しい天使が姿を表していく。僕はもう彼女に声をかけることなく、ただ静かに、その光景を見つめていた。


「ねえ、聞けた? 天使の絵ばかり描く理由」


 後日、再び同じカフェにて、僕は友人にそう聞かれた。僕は聞けたよ、と言おうとして、しかし何も言わずに口を閉じた。代わりに首を横に振る。


「……ううん、聞けなかったよ」


 どうして友人に教えなかったのか、自分でもわからない。ただなんとなく、僕の心の中に秘めておきたいと思ったのだ。


 その後、僕は高校を卒業し、地元の美術系の大学に入学した。驚いたのは彼女も同じ大学に入学したことだ。そして入学してすぐにその美しい天使の絵でいくつかの賞を受賞した彼女は、今ではすっかり有名人となっていた。天使の絵しか描かない、という彼女の個性も一部の人には受けて、いまや天使女は彼女の代名詞であり最上級の褒め言葉となっていた。

 だから、彼女が天使の絵を描かなくなったという噂を聞いた時、僕はすぐに信じることができなかった。思い出すのは、高校時代、美術室で、キャンバスに向かって一心不乱に筆を走らせるその横顔。天使が初恋なのだと語ったまっすぐな瞳。あの彼女が、天使女が、天使の絵を描かない姿など想像できなかったのだ。

 同じ大学とはいえ、高校を卒業してから僕は一度も彼女と言葉を交わしてはいなかった。しかしどうしても噂の真偽を確かめたくて、僕は初めて彼女のアトリエを訪ねた。

 彼女が僕のことを覚えているのか不安だったけれど、彼女は僕の顔を見て開口一番に「久しぶり」と言ったので、僕も安心して「久しぶり」と返した。けれども、その安心はすぐに違和感へと変わった。だって、彼女が僕の目を見て挨拶をしたのだ。そんなの、高校時代にはありえないことだった。彼女は僕にも、周囲の誰にも視線を向けず、ただひたすらに天使の絵だけを見つめていたから。

 アトリエの中を見回す。いくつかキャンバスが壁に立てかけられているけれど、そのどれもが真っ白で、天使の絵は描かれていなかった。まるでもう使われることがないかのように寂しげに置かれたキャンバス。それでも信じきれなくて、僕は彼女にストレートに聞くことにした。


「ねえ、天使の絵を描かなくなったって本当?」

「本当よ」

「どうして?」

「もう描く必要がなくなったの。初恋の天使に会えたから」


 僕が信じられないとでも言いたげな顔をしたからだろう、彼女は「見せてあげる」と囁いた。それは悪魔の囁きのようで、僕は操られるようにしてこくりと一つ頷いた。

 彼女が軽い足取りで向かったのは、お世辞にも綺麗とは言えない古びれたアパートだった。日焼けして色が変わったのであろう壁には蔦が生えていて、とても天使のいる場所だとは思えない。けれども彼女は勝手知ったる様子でアパートの中へと入っていった。慌てて跡を追う。彼女はこれまた古びれた、登るたびに軋んだ音がする階段を登り、三階で止まった。


「ここが私の家よ」


 三○二、と表示されたドアを開ける。

 まず目に飛び込んできたのは、一面の白だった。

 元の壁の色がわからないほど壁を埋め尽くす天使の絵、その全てが神秘的な美しさを放ち見る者を魅了する。しかし、僕は部屋の真ん中にたたずむ巨大なガラスケースから目を離すことができなかった。


「ねえ……これ、なに?」


 喉から搾り出された声はか細く、未知への恐怖に震えていた。だというのに、彼女はそんな僕の様子には気づかず、嬉しそうに目を細めてにっこりと笑う。


「私の天使よ」

「天使って、でも、これ」


 そうっと、手を伸ばしてガラスケースに触れる。

 天井につくほどの高さがある、大きなガラスケース。その床には白い何かが敷き詰められていた。目を凝らすとそれが大量の羽根であることがわかる。

 床からゆっくりと視線を上げると、そこには天使がいた。

 あまりの美しさに、精巧な作り物なのではないかと思うほどだ。まるで美術館に飾られた彫刻のよう。けれども、僕にはなぜか、これが本物の天使だという直感があった。血の気を失い翼と同じ白色をしている顔は、恐ろしいほどに美しく、そして彼女の描く天使によく似ている。──いや、この天使こそが、彼女がひたすらに描き続けていた天使本人なのだろう。

 そして、その体にもう魂は入っていないことはすぐにわかった。天使に死という概念が存在するのか僕は知らないけれど、人間に当てはめるならそれは間違いなく死体だった。その硬く閉じられた瞼や、色を失った唇は、触れると柔らかい皮膚の感触がするだろう。しかし驚くほど冷たいに違いない。飛ぶ鳥のように大空の下でばさりと広げればきっと両手よりも大きく立派であろうことを想像させる翼は、しかし力なく付け根から垂れ下がるだけだった。


「どうしてこんなこと」

「ずうっと、決めてたの。もしもう一度会うことができたら、今度は絶対に逃がさないって」


 彼女はその瞳を細めてそれはそれは美しく笑った。その瞳は、あの日、高校の美術室で、天使の全てを忘れないために描き続けているのだと言い放った時と同じ色をしていた。

 僕は恐ろしくなって、逃げるようにしてその部屋を飛び出した。彼女は追いかけてこなかった。

 彼女が大学を辞めたのは、それからすぐのことだった。その後の彼女がどうしているのか、僕は知らない。ただ、今日もあの瞳を細めてガラスケースの中を見つめているのだろうという、そんな確信があった。

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