第21話 理想と現実

 その日は俺だけシフトが入っていたため、萌香は家で留守をしていた。


 俺は勤務が終わり家路に就きながら、今晩萌香はどんな料理を作っていてくれているのだろうかと期待に胸をふくらませていた。


 実際のところ料理担当が明確に決まっているわけではないのだが、俺が全く自炊の経験がないということもあって、萌香が率先して料理担当を担ってくれていた。当初は負担ではないかという思いもあったが、萌香いわく好きでやっているということだったので、これ以上に有難いことはなかった。


 やがて自宅アパートに到着した俺は鍵を回して扉を開いた。


 「ただいまー」


 玄関に足を踏み入れ、そう声を出した。


 ……しかし十秒ほどが経過しても一向に萌香からの返答がない。いつもならすぐに出迎えてくれるのだが、その姿がまるでどこにも見当たらない。


 現在時刻は午後七時を回ったところなので風呂に入ってるには早いし、玄関のすぐ側にあるトイレの電気もついていない。台所で料理を作っているらしい音も聞こえてこないので、俺はますます不可解だと思って一通り家の中を見て周った。


 それでもやはり萌香の姿はどこにも見当たらない。


 これはもう外出しているに違いなかった。買い出しにでも行っているのだろうか。


 今ここで萌香に連絡してみるというのもありだったが、さすがに心配のし過ぎだと後でからかわれそうなので、とりあえずしばらくはそのまま家で待っていることにした。


 ————そして約三十分が経過した。


 未だに萌香は帰ってこない。


 近くに買い出しに行っていたとしても、ここまで時間がかかるということは考えにくい。そもそもこの辺りのスーパーは基本8時で閉店するので、買い出しに行っているという可能性すら低かった。


 ここまで来るとさすがに萌香の動向が気になるので、俺は試しに電話をかけてみることにした。思えば萌香に電話をかけるのはこれが初めてのことだった。


 コールが繰り返し流れる。


 萌香はなかなか出なかった。家の中から着信音が聞こえてくるということもなかったので、萌香がスマホを持ち出しているということは確かだ。


 『おかけになった電話をお呼びしましたがお繋ぎできませんでした。ピーっと鳴りましたら————』


 結局萌香からの応答はなかった。


 ————これはおかしい。


 そう直感が働いた。


 そして気がついた時には、俺はすでに玄関で靴を履いていた。


 萌香がどこにいるかなんて何もわからないし、もしかしたら今にもひょっこり帰ってくるかもしれない。それでも俺は心配でいてもたってもいられなかった。だからとりあえずスマホと家の鍵だけ携えて、すぐに外に出る。


 夏の夜は蒸し暑く、外気に触れるだけで汗が滲み出てきそうだった。


 俺は急いで家の鍵を閉め、急足でアパートの階段を降りて行く。


 まずはなんとなく最寄りのバス停に向かってみることにした。


 バス停に向かって走りながら、脳裏にふつふつと嫌な予感が湧き上がってくる。


 ————もしかしたら萌香は、家を出て行ったのかもしれない。


 そんな予感がしてならなかった。


 かと言って、何か予兆があったわけではない。今日の萌香はいたって普通だった。


 しかし萌香のことだ。親に無断で鳥取から京都まで来てしまうような人だ。俺に無断で家を飛び出して行っても、なんら不思議ではない。


 走れば走るほど、俺の中には不安が蓄積されていく。


 今の萌香が一人で家を飛び出して、この先一体どう生きていくのか。バイトもまだ始めたばかりだし、まとまった金を持っているわけでもない。まさか当初言っていたように、本当に体を売るつもりなのだろうか。


 考えれば考えるほど、萌香の相変わらずの無謀さには苛立ちさえ覚えてくる。また同時に、心配で堪らなくなってくる。


 しばらく走って、最初に萌香がいるかもしれないと目論んだ最寄りのバス停に到着した。

 しかしそこに萌香の姿はなかった。


 バス停で待っていた人は、ぜいぜいと息を切らして立ち尽くす俺を不思議そうに見ている。


 「くそっ……!」


 俺は思わず唇を噛んだ。


 バス停にいた人は、そんな俺を見てとうとう距離を置いてきた。


 これからどこへ行けばいいのだろう。しばらく考えてみたがこれといった結論はでなかった。なので俺はとにかく走り出すことにした。このまま立ち尽くしていては、その間に萌香がどこか遠くへ行ってしまいそうな気がしたからだ。


 最寄りのバス停を飛び出した俺は、大通りに沿って大学方面へと走って行った。


 途中あったコンビニやドラッグストアにも目を配らせたが、そこにも萌香の姿は見当たらない。


 さすがにこのまま大通りに沿って走っていてもしょうがないと思い、俺は路地に入って大学の裏門の方へと方向を変えた。


 やがて大学の裏門に着くと、どうやら裏門はすでに閉まっているようだった。俺はそこで引き返そうと思ったが、ふとこの前、萌香とキャンパス内の芝生で日向ぼっこしたことを思い出した。


 ————もしかしたら萌香はこの中にいて、出られなくなったのかもしれない。


 これまた完全に直感だった。


 しかし門は閉まっている。それでもその門は、自力で裕に越えられそうな高さだった。そうとわかれば話は早い。俺の体は勝手に動いた。


 案の定、門を越えるのは簡単だった。これでも俺はこの大学の学生なので、万が一誰かに見つかっても言い訳が効くだろう。


 キャンパス内に足を踏み入れた俺は、さっきみたいに全速力で走ることはせず、小走り気味に萌香を探した。


 一番可能性のある芝生のところまではやや距離があったので、少々時間がかかった。


 芝生は普段なら夜でもライトアップがされているのだが、今はそんなものはなく真っ暗なので、本当にそこに芝生があるのかすら疑わしいくらいだった。


 俺はやや離れた場所から芝生を見てみたが、そこに人影らしきものはなかった。暗闇の中、芝生がただ平に映るだけだった。


 俺は諦めて引き返そうと回れ右をした。


 ————その時だった。


 視界の中に、人影らしきものが映ったのだ。


 その人影は椅子の上でうずくまっているような形をしており、なんとなく見える髪型からして女のものだった。


 「萌香!」


 俺は反射的にそう叫んだ。人違いという可能性は俺の中にはなかった。なにせそのうずくまっている姿は、俺が萌香をゴミ箱で拾った時のその姿にそっくりだったのだ。


 「……圭太くん?」


 間違いなく萌香の声が、俺の名前を呼んだ。


 俺はすぐさまその声の方へと走る。


 近づいて行くにつれ、だんだんとその人影の正体が露わになってきた。


 椅子の上でうずくまっていたのはやはり萌香だった。


 「よかったぁ……」


 自然とそんな言葉が口からこぼれた。


 肩を撫で下ろす俺を、萌香は気まずそうに見上げている。


 「……ごめんなさい」


 萌香がそう言った。


 俺は何を言い返せばいいのかわからなくて少しの間黙り込んだ。


 少なくとも、萌香を責める気にはなれなかった。


 「なにしてたんだ」


 一番尋ねたかったことはそれだった。


 萌香は俺から目を逸らすと、「えーっと……」と小さく呟いてから黙った。俺は何も言わずに萌香の次の言葉を待つ。


 「……怒ってますか?」

 「いや、怒ってないよ。俺はただ、萌香がなんでこんな時間にこんなところにいるのかを聞きたい」

 「…………」

 「教えてくれ。じゃないと怒る」


 俺がいつにも増して真剣なトーンで言うと、萌香は心なしか背筋を伸ばした。


 「私は……不安だったんです。怖かったんです……。今の自分とか、これからの自分とかを考えて、不安で怖くなったんです……」


 萌香は声を震わせながらそう言った。


 それを聞き、俺はなんとなく理解した。


 「要するに、実家に帰るのが怖いのか?」

 「端的に言えば、そういうことなんだと思います」

 「そうか。だけど、それでどうして夜に一人でこんなところへ来るんだよ」

 「それは……いてもたってもいられなかったからです。一人で色々考え込んで、それで……それで……」


 萌香は言葉を詰まらせたかと思うと、次の瞬間、嗚咽混じりに泣き始めた。


 あまりに急なことだったので、俺もなんと声を掛ければいいのかわからず立ち尽くしてしまう。


 「……ごめんなさい」


 萌香が泣きながら謝ってきた。


 心臓を鷲掴みされたような心地だった。


 謝られた俺は、そこでようやく自分の不甲斐なさに気づかされる。


 「……いや、謝らなければいけないのは俺の方だ。萌香がこんなに思い悩んでるとも知らずに……勝手に理想を抱いて……ごめん」


 今度は俺が謝ると、萌香はさっきよりも一層激しくわんわんと泣き始めた。


 「圭太くんはっ……なにも……悪くないのにっ……。一番悪いのは……私なのにっ……」

 「そんなことない」

 「あります……!」

 「萌香!」


 俺は叫んだ。こうでもしないと、先に進みそうにないと思ったのだ。


 驚いたように目を丸くしている萌香を前に、俺は続ける。


 「違うんだ。今までのことも、これからのことも、二人の問題なんだ。萌香だけの問題じゃない。だからその不安や恐怖も分かち合うべきなんだ。少なくとも、萌香が一人で全てを背負う必要はない」


 俺の言葉を聞いた萌香は、目を丸くしたまま何も言い返してこなかった。


 「だから、ごめん。俺はもっと萌香の気持ちを理解して、色んな気持ちを分かち合うべきだったんだ。本当にごめん」

 「いいえ、圭太くんは……」

 「もういい」


 萌香が何かを言おうとしたところで、俺はそれを遮るようにして口を挟んだ。


 「一緒に帰ろう」


 俺はただそう言って、萌香に手を差し伸べた。


 差し出された手を萌香は戸惑ったように見ていたが、しばらくしてそこに手のひらを重ねてきた。萌香の手はしっかりと暖かい。


 俺は萌香の手を引いて直立させた後、手を取り合ったまま歩き出した。


 歩いて行くうちに、俺と萌香の距離がだんだんと近づいていく————。


 そして確かに萌香が俺の隣に来た時、俺はより一層握る手に想いを込めた。


 「もう離さないからな」

 「……はい」


 今この時、互いの手は前よりも力強く握り合わされていた。




 萌香が一人で家を飛び出した日、俺たちは同じベッドで夜を明かした。


 普段はベッドと敷布団を代わりばんこで使って寝ている俺たちが、なぜそういうことになったのかというと、それは萌香が今夜は一緒に寝たいと提案してきたからだった。


 提案された時こそ驚いたものの、断る理由は何もなかったので俺は快く承諾した。


 おそらく萌香の精神状態は平常ではなかったので、こうなるのも仕方のないことなんだと思った。


 しかしいざ肩を隣り合わせて横たわってみると、これがまたなかなかに落ち着かないのだった。なんせ異性とシングルベッドで寝るなんて経験は皆無だ。俺は仰向けになりながら、しばらくは心臓の鼓動に弄ばれていた。


 すると萌香はこつこつとしながらも今日のことについて話をしてくれた。


 一人になりたくて大学に行ったらいつの間にか門が閉められていて出られなくなったこと。早々に携帯の充電が切れてしまったことなどなど……。俺はそれを、時折頷きながらも基本黙って聞いていた。


 やがて一通り話し終えた萌香は、まるで何事もなかったかのようにすぐに寝ついた。よっぽど疲弊していたのだろう。


 俺は寝息を立て始めた萌香を確認して、ようやく胸のざわめきを抑えることができた。


 ————そしてその夜は、何事もなく過ぎ去った。


 最初こそ寝つけなかった俺も、萌香が寝たことがわかると案外すぐに夢の中へ行くことができた。


 朝がやってくるとお互い顔を見合わせて少々気まずいような感じにはなったが、それからの行程はいつもと何ら変わらず、また日常が始まっていった。


 その日以来、唯一変わったことは、俺と萌香は同じベッドで寝るようになったということだった。

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