第18話 母来訪

 母が家に来る日がやって来た。


 時刻は午前十一時ちょっと前。


 例によって、俺と萌香は二人揃って不安と緊張に襲われていた。


 「本当に大丈夫なのでしょうか……」


 萌香は肩を震わせ、今にも泣き出しそうな声でそう言った。


 「大丈夫だ。ちゃんと説明すればきっと理解してくれる」


 俺はそう断言するが、もちろん確証なんてどこにもない。たしかに俺の母は比較的寛容な人だが、今回ばかりは事の重大さが違う。いくら寛容な母とはいえ、少なからず顔を渋らせる未来は安易に想像ができる。だからこの際重要なことは、いかに萌香を歓迎してもらうかではなく、いかに妥協点を引き出すかであると、俺は考えていた。


 「もうあと十分くらいですね……緊張します……」


 母が家に到着するのは十一時頃らしいので、もういつ来てもおかしくない。


 しかしながら、母は萌香を見た瞬間果たしてどんな顔をするのだろう。あまりの衝撃にフリーズするというのが一番可能性としてはあり得そうだが、それ以上————例えば失神するとかいうことにだけには、どうかならないでもらいたい。


 ……と、その時。


 誰かがアパートの階段を上がって来るドタドタという音が耳に入ってきた。


 ほぼ間違いなく母だ。


 「……来たな」


 俺が言うと、ついに萌香の顔は硬直した。


 「……はい」


 そしてベッドに腰掛けていた俺たちは揃って立ち上がり、俺は玄関の方へ、萌香はその場に留まった。


 やがてそのドタドタという足音は大きくなっていき、しばらくしないうちに俺の家の前まで来ていることがわかった。


 ————ピーンポーン。


 ついにインターホンが鳴った。


 一応ドアスコープで誰なのか確認すると、そこには間違いなく母の姿が映っていた。


 俺はいつにも増してそっとドアガードと鍵を開け、その扉を開いた————。


 「やっほー久しぶりー。元気にしてたー?」

 「お、おう……。元気だよ、元気元気……」


 現れた母は、いつも以上の笑みを顔に浮かべ

ていた。しかし母は俺の様子が少々おかしいことに気がつくなり、首を傾げた。


 「元気という割には、随分ぎこちなくない? 会うの久しぶりだし無理ないか」

 「そ、そうだな。四月以来だし……」

 「うんうん。ほんっと、久しぶりだよー……」


 すると母親は一歩こちらへ踏み込んで、家の中を見渡してきた。


 俺の心拍数は今までに類を見ないほど跳ね上がる。


 「なんだか思っていたより片付いてる……って、え……」


 どうやら母は萌香の存在に気がついたようだ。


 ふと後ろを振り返ってみると、母と目が合った萌香が、両手を胸の前に当てながら立ち尽くしていた。


 再び母の方へ目をやると案の定、固まって目を丸くしていた。


 「その子はもしかして……彼女さん?」


 なんとなく、最初にそう言われるような予感はしていた。


 「違う。彼女じゃない」


 その少女が俺の彼女ではないとを知った母は、余計に訳がわからなくなっているようだった。


 「それじゃあどういうご関係で……?」


 パニックからか、言葉遣いが丁寧になっている。


 そして俺は、ここで自分の心を一旦落ち着かせるために一つ小さく息を吐いた。


 「……そのことなんだけど、色々と深い事情があるんだ。詳しいことはこれから話すから、とりあえず中に入って」

 「わかった」


 母さんは案外素直に頷き、靴を脱いで家へ上がった。


 「適当にベッドにでも座ってもらって」


 母にそう促すと、母は持っていた手さげのバッグを床に置いてからそっとベッドに腰を下ろした。萌香は依然として両手を胸の前に当てながら立ち尽くしている。


 萌香のことを黙って見つめる母を横目に、俺は萌香の隣へ歩み寄った。


 すると萌香は何かを決心したように胸の前に当てていた両手を下ろし、俺より先に口を開く。


 「……は、初めまして。湊川萌香と言います。今は……圭太くんの家に住まわせてもらってます」

 「す、住まわせてもらってる……?」


 母は驚きのあまり開いた口が塞がっていなかった。


 「え、えっと……でも、圭太の彼女さんじゃないんでしょう?」

 「……ああ、彼女ではない」

 「ちょ、ちょっと説明してもらえる?」

 「わかった」


 満を辞して俺は母さんに萌香との出会いから今までのことについてできるだけ正確に、かつ詳しく話した。実家のこと、イラストレーターを夢見ていること、俺と同じカラオケ店でバイトを始めたことなどなど————全てだ。


 母さんはそれを真剣に聞いてくれているようで、時折萌香に向けてその不憫さを慰めるような眼差しを向けていた。その間、萌香は何も喋らず、ただただ俺の言っていることを聞いていた。


 一通り話し終えたところで、それまで黙っていた萌香が待ちかねていたように前屈みになって口を開く。


 「あ、あの……! 圭太くんは本当に優しくて、いつも自分勝手な私のことを真剣に考えてくれています。その……私に手を出すようなことも、全くないです。だから……どうか圭太くんのことは叱らないでください! 悪いのは私ですから……」

 「萌香……」

 「……別に、圭太を叱るつもりはないよ」


 母はいたって冷静な声でそう言った。


 しかしその瞳は、決して俺を完全に認めているようには見えなかった。


 「でも圭太、あなたのやっていることは一歩間違えば犯罪だよ? ……いや、解釈次第ではもうすでに犯罪なのかもしれない。それくらい危険なことをやっている自覚はある?」

 「ああもちろん」

 「そう、ならいいけど。……ってまあ、よくはないんだよ? ただ、お母さんが一つ感心しているのは、圭太がこのことを隠さずに正直に打ち明けてくれたこと」

 「…………」

 「だって圭太はお母さんが来ることを事前に知っていたわけだし、いくらでも萌香ちゃんのことは隠せたはず。それでも圭太は、隠さなかった」

 「それは……俺がただ単に一人で全て背負い切るのが無理だと思ったからで……。だからせめて、母さんにはこのことを知ってもらって、アドバイスというか、何かしら言葉をかけて欲しかったんだ」

 「なるほどね。……でもさ、もしそれでお母さんが『一緒に住むのはやめなさい』って言ったら、圭太は言うこと聞くの?」

 「……聞かないと思う」

 「でしょうね。そんなの、二人のことを見ていたらなんとなく伝わってくる」


 数秒間の沈黙が流れた。


 しばらくすると、母は萌香の方に体を向けた。


 「……えーっと、萌香ちゃん」

 「は、はい……!」


 急に母から名前を呼ばれた萌香は、随分と裏返った声で返事をした。


 「すごく可愛いねっ」

 「は、はい……?」


 あまりの急展開に、萌香も俺も目を丸くした。


 「こんなに可愛いなら、圭太が惚れるのも無理ないかぁ」


 何を言い出すのかと思ったら、そんなことだった。


 「お、おい! 勝手に変な設定にするな!」

 「でも可愛いことは認めるでしょう?」

 「ま、まあ……」


 そう聞かれれば肯定するしかない。ていうか、なんで萌香は顔を赤らめるんだ。自分が可愛いことは自覚しているくせに。


 そして母はどこか諦めるように短くため息をついた。


 「まっ、とりあえずなんとなくの事情はわかった。色々言いたいことはあるけど、その前にお昼ごはん食べに行かない? もちろんお母さんの奢りで。萌香ちゃんとの親睦も深めたいし」


 母はそう言って立ち上がり、玄関の方へと向かった。


 「食べに行くって、どこに?」


 俺が尋ねると、母は靴を履きながら振り返る。


 「行きたいお店があるの」


 俺と萌香は思わず顔を見合わせたが、母は今にも外へ出ようとしていたので、何か意見を言う暇はなかった。

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