パシフィスト・エゴイスト

星影 翔

プロローグ

 寒空の中、異様に感じるほどの輝きを放つ満月と、それに負けじと光を放つ人工建造物の数々。時間にして大体夜の8時頃であろうか…。多くの家では家族の団欒だんらんや個々人の娯楽、中にはディナーを楽しんでいる者もいるかも知れない。未だ多くの人々が活発に活動しているであろうこの時、とあるマンションの一室にそれはあった。


「姉ちゃん!!姉ちゃぁぁん!!」


 黒木くろき けいは真っ赤な鮮血に染まった自身の姉、さくらを抱き起こし、必死に呼びかけていた。

 だが、彼女の腹には大きく切り裂かれたのであろう傷、息も絶え絶えであり、ぐったりとした彼女にはもう起き上がることはおろか自ら腕を持ち上げることすら不可能に見えた。すでに通報は済ましていたが、果たして間に合うのか、そう感ぜざるを得ないほどには悲惨的な光景であった。


「やめなさい。何をしても手遅れよ」


 追い討ちのように冷酷な言葉がどこからか慧に投げかけられる。その瞬間、反射的に言葉の発された方向へ彼の顔が向く。

 正面、少しずつこちらへ歩み寄ってくるそれは、袴姿に左手には長い刃を携えた日本刀を持ち、腰ほどはある長い髪をたなびかせながら慧へ冷たい視線を送っていた。部屋が暗く慧にははっきりとは見えていなかったが恐らくは女性であろうというのは察しがついた。そして、返り血を浴びたのであろう、着ている袴には赤黒い血が大量に付着、同時に血の重く鈍い臭いが彼の鼻先へと流れ込んでくる。


「彼女は『エギアウイルス感染者』。しかも末期患者。どちらにせよ彼女の死は免れなかった」


 あくまでも冷徹に言葉をかける彼女に向けて慧は殺意の気持ちいっぱいに睨みつけた。


「だから…、だからって人を殺しても良いってのか!!ウイルスがあるからって…。まだ生きれたのに…!」


 叫ぶ慧。その瞳にはいつのまにか雫が浮かび、やがて一筋の軌跡を描きながら滴り落ちた。


「俺の…俺の大切な姉ちゃん…なんだぞ…」


 慧は今一度、桜へ視線を移し、その痛々しく変わり果てた姿に思わずギュッと抱きしめた。涙が次々と溢れ出し、姉の頬にポタポタと零れ落ちる。しかし、女の目はあくまでも冷静であった。

 わずかな沈黙の後、彼女は務めを終えたかのようにゆっくりと踵を返し、口を開く。


「君には悪いことをしたと思っている。だが、私にはそれでもやらなければならないことがある。


 彼女は慧たちには一瞥いちべつもくれぬままそれだけ言い残すと、ゆっくり一歩ずつ静寂の中に靴音を響かせながら慧達から去っていく。

その時…


「……な…」


 小さく掠れた声が部屋に響いた。それは慧の視線はおろか、女の足をも止めてしまう。そこには慧の姉が懸命に重いまぶたを開き、細いながらも女の方へと視線を向けていた。


「ダメだよ…。一人じ…ゃ…」


 途端に弱々しく咳き込み、息を荒げる桜。直後ひと際大きく咳き込むと同時に赤黒い血が口からあふれ出す。


「姉ちゃん!!姉ちゃん!!!」


 それと同じタイミング慧が叫ぶ。その声に我に返ったのか女は振り返ることも何か言葉を発するといったこともないまま再び歩き始める。そして、ベランダの手すりの上へと飛び乗って


「………………」


 慧達には聞き取れない程の小さな呟きを残して女は力いっぱい地を蹴り、夜の闇の中へと姿を消していった。

 桜はそのか細く力のない瞳で、しかしそれでも片時たりとも女の姿が消える最後まで目を離さず、ずっと見つめ続けていた。

そして、女の姿が消えると、そっと顔を慧へと向け、引きつりながらも精一杯に微笑みかける。


「ごめんね…。こんなことになっちゃって…」


 所々かすれ気味になる桜の声に慧はただただ首を横に振る。自分の姉の命の危機だというのに何もしてあげられないもどかしさと、こうしている間にも徐々に姉の命の灯が消えてしまっているであろうことに対する焦燥しょうそうが慧の心をただただ圧迫していく。


「…あの…さ」


 深刻な状況に血の気が引いている慧をまた違った意味で血の気が引いて青くなってしまっている桜はじっと見つめながら、桜は慧に呼びかける。


「もし、今…お姉ちゃんが…お願いしたいことがあるって言ったら、…聞いてくれる?」


 絞り出すような桜の声に慧は小さくうなずく。


「もし、あの子に…『かんな』に会えたら、慧のできる範囲で…いいから…あの子を助けてほしいの…」


 姉から発せられた言葉に慧は大いに動揺し、衝撃を受ける。


「なんで…なんでだよ!姉ちゃんをこんなにしたのあいつだろ!!?なんで……」


 震えた身体に震えた声で問いかける慧には心底理解できなかった。自分勝手に人の、それも自分を襲い、そのせいで今にも息絶えようとしているのに、なぜそれなのにも関わらず、よりにもよって襲った人間に寄り添えるのか。自然と語気も強くなる。


「…人間っていうのは間違う生き物だもの…。それに…あの子は『独り』だった…。独りっていうのはつらくて苦しいことだから…。誰かがあの子を助けてあげないと…」


 しかし、慧の怒りと憎しみがところどころ混じりながら発された疑問にも桜はあくまでも優しい表情、優しい声のまま答える。命の危機を前にしても変わらず他者を想うその姿勢はまさに聖人のそれであった。


「私はもう…あの子に何もしてあげられない…。だから、慧が…お姉ちゃんの代わりに…」


「何もしてあげられない」桜のその言葉が慧にとってトリガーとなった。姉が自分の死を察している。そう感じただけで慧の目から涙があふれ出て止まらなかった。


「無理だよ…。俺は優しくなんか…ない……」


 必死に涙をぬぐい、震えた声でそう答えるのが彼にとって精一杯だった。すると桜は震えながらも懸命に右手を持ち上げて差し出し、慧の頬に可能な限り優しく当てる。


「慧なら大丈夫…。だって慧優しい子だもん…私の自慢の弟だから…ね…」


「…慧のその優しさを…たくさんの人に分けてあげて…」


 姉の優しい声、そしてその願いに慧はこくりと小さく頷いた。

 その瞬間、桜はひと際細い目をしてとても穏やかで柔らかな微笑みを慧に向ける。


「最後に…ひとつ…」



「………ほんとうに…ごめん…ね」




そして…、彼女の手が慧の頬から滑り落ちた……




「…姉ちゃん?ねぇ…ちゃん?」


 呼びかけつつ懸命に揺り起こそうとする慧。しかし彼女の目はもう開かない…。次第に揺する力が強くなっていくが、それでも彼女に目覚める気配はみられない。


「起きてよ…。まだ寝ちゃダメだって…。寝てるんだろ?姉ちゃんいっつも時間があったら寝てたもんな。たまに寝たふりとかやってびっくりさせてさ。そうなんだろ?分かったから早く目開けてくれよ」


 揺すっても揺すっても、もう彼女は目を開くことも、意識を取り戻すこともなかった。そこには静寂がただひたすら漂っていた。

 『死』という現実とそのあまりの残酷さは彼の心にヒビをいれるなどいとも簡単で、それどころか容易く心そのものを粉砕することも可能であった。しかし、この現実逃避、いや、この問いかけをすることで疑似的に自分の心を壊すことで、彼の心が真に破壊されてしまうことをすんでのところで守っていた。

 そこに唐突に玄関の扉が激しく開く音が響く。救急がようやく到着したようで、彼らは慌てて慧のもとへ駆け寄る。


「君!?大丈夫か!!」


しかし、いくら呼びかけられ、肩を揺さぶられても、もはや彼は魂がすっぽり抜け落ちた人形のように一言たりとも声を発することはなかった。彼の表情や状況から事の重大性を察した救急隊員たちは、やむなく慧の手から桜を持ち去っていき、慧もまた、隊員の一人に担がれて赤ランプの灯った救急車へと連れ込まれていった。やがて扉が閉められ、大きめの揺れとわずかに聞こえるエンジン音とともに車が走り出す。その最中、彼は揺れ動く車内で朧げな意識と混乱する頭で、刻み付けるようにこう決意した。


(姉ちゃんを殺した張本人…『かんな』…。姉ちゃんは望まないのかもしれない……)



(だが、俺は必ず奴を殺して仇をとってみせる。絶対に…絶対にだ!!)

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