26 大禍時 2




そして築ノ宮は姿を消した二日後の夕方に姿を現した。

背広ではなく襟元をはだけたワイシャツ姿だ。

それも煤でかなり汚れている。ネクタイもない。

酷く憔悴した姿だ。


三五さんごビルの玄関にふっと現れるとゆらりと物も言わず中に入った。


近くにいた者が驚いて声をかけようとしたが、

それすら出来ないぐらい彼は凄まじい様子だった。

皆後ずさりして彼に道を開く。


築ノ宮が執務室に近づくと連絡が来ていたのか

驚いた顔で由美子が彼を出迎えた。

だが彼女が声をかけるのも躊躇う程の彼の様子だ。

彼女は立ち竦む。

築ノ宮は彼女を見た。


「叔父上を呼んでいただけますか。」

「は、はい……。」


声は思ったより静かだった。

だがそれすら恐ろしかった。

彼は怒っているのだ。


「式神を叔父上に何度も送りましたが返事がありません。

なので逃げないよう叔父上のマンションを囲みました。

そこから動く事は出来ません。場所は分かりますね。」

「ええ、分かります。」

「至急です。嫌がっても構う事はありません。

黒装束にお願いしてください。」

「……はい。」


黒装束は手段を選ばない。

そこを使うのはどんな手を使ってでもと言う事だ。

由美子の足元がすうと冷えて来る。




一時間もしないうちに橈米どうまいは黒装束に付き添われて

執務室に現れた。

乱れたシルクのパジャマのままだ

うっすらと髭が伸び顔には殴られた跡がある。

そしてその横には硬直したままの愛雷あいらが担がれて運ばれて来た。

目を見開いたまま身動きをしない。

容姿の良い女だが髪は乱れてその面影は全くなかった。


橈米は執務室の床に座り込み、愛雷はどさりと投げ落とされた。

容赦がない。


「お前、彬史ぃ……。」


彼はうなるように言うと顔を上げて築ノ宮を睨んだ。

築ノ宮は執務室の机に着き座っていた。

橈米の顔を見ても表情は変わらなかった。


「クソガキめ、俺様をこんな目に遭わせやがって。

二日間家から出られんかったぞ。

ただではすまさんからな。」


扉のすぐそばに由美子と二人の黒装束が立っていた。


「橈米様のマンションの外は式神だらけでした。

あれほどの数は初めて見ました。」


黒装束が小声で由美子に言った。

由美子はぞっとする。


その時築ノ宮がゆらりと立ち上がり橈米のそばに来た。

橈米は注連縄で後ろ手を縛られているが、

いきり立って築ノ宮に体をぶつけようとした。

だが彼の目を見て急に動けなくなった。


何か術をかけられたのではない。

彼の気配に怖気づいたのだ。


「街に住む物の怪の情報を

私が作った聖域に反対する物の怪に流したのは叔父上ですね。」


それを聞いた由美子や黒装束が驚いた顔をした。

橈米は口元を強く結ぶ。

そして気を戻すように首を振った。


「……ああ、そうだ。それがどうした。」

「橈米リストと言っていました。

街中の物の怪が消えるのを私のせいにするつもりだったと。

要するに私を引きずり下ろすつもりだったのでしょう?」


橈米の口元がぶるぶると震えている。

それでも彼は言った。


「ガキのくせに偉そうにしやがって。何が聖域だ。」

「私を首にした後に後釜に入ると。そう言う計画だったのですね。」


築ノ宮が彼に顔を近づけた。

橈米の顔が白くなる。


「あなたと繋がっていた物の怪は全て私が祓いました。」

「嘘だろ……、」

「先ほどの事は全て物の怪に聞きました。もう誰もいません。

それで叔父上は気が付いていましたか?」

「な、何のことだ。」

「どれだけ物の怪を消してもほとんどは人知れず消えています。

私に消えた責任を押し付けたくても

消えた事に誰も気が付いていなかったんですよ。」

「どう言う事だ……。」

「叔父上の働き損です。無駄でしたね。」


築ノ宮の表情は全く変わらない。


「波留に手をかけた物の怪も祓いました。」


それを聞くと橈米は後ろにいる由美子や黒装束を見た。


「聞いたかお前ら、

こいつはな、波留と言う物の怪の女を抱いていたんだ。

奴らの血を築ノ宮家に入れるつもりだったんだ。

穢れだぞ!!」


だが誰も返事をしない。

由美子は一体何の事かと不思議に思った。


「叔父上はこの女の言いなりになっていたんですよ。

何も考えられない様に操られて。」


築ノ宮がまじないを唱えると

橈米の横で横たわっていた愛雷の体の力が抜けた。

そしてはっと顔を上げて築ノ宮を見た。


「お前!」


愛雷は金切り声を上げると築ノ宮に飛びかかろうとした。

だがその寸前で動きが止まる。近寄れないのだ。

強い結界が彼女の行動を制限していた。


「あきふみ!殺してやる!」


それを聞いても築ノ宮の顔は変わらない。


「お前があたしの旦那を殺したんだ!

お腹の子も死んだ!絶対に許さない!

あたしはお前を殺す!」


築ノ宮がそれを聞くと彼女に近寄り、

顔を間近に寄せた。


「それはいつですか?」

「うるさい!」

「ご主人が亡くなったのは何年前ですか?」


彼女は牙を見せて唸った。

橈米がそれを見て驚いた顔になる。


「お前……、」


しばらく愛雷と築ノ宮は睨み合っている。

だが愛雷が絞りだすように言った。


「聖域が出来る前だ。12、3年前だ。」


それを聞いて築ノ宮がわざとらしくため息をついた。


「そうですか、その頃私は街に居ません。

お山で修業をしていました。

聖域が出来たのは10年ぐらい前です。」

「嘘をつくな!」

「本当ですよ。だからあなたのご主人を殺めたのは、

そこの叔父の橈米かその一派、

または私の父かもしれません。

父なら申し訳なく思いますが、父はもうこの世に居ません。」


愛雷の顔が愕然となる。そして橈米を見た。

橈米の顔は恐れに満ちていた。


「お前、物の怪だったんか……。」


愛雷が橈米に飛びかかった。

だがその瞬間築ノ宮が術を飛ばし、

手を愛雷に振ると彼女の体は砂になり崩れてどさりと落ちた。

築ノ宮が愛雷を祓ったのだ。


愛雷の顔は橈米を向いていた。

彼は彼女の今際の際を間近で目撃したのだ。

腰が抜けたのだろう、橈米はしばらく身動きしなかった。

築ノ宮が砂の山をじっと見た。


「お前の気持ちは分かるよ。私も一緒だからな。」


そして彼は橈米を見る。


「叔父上も物の怪を抱いていたんですね。

私と一緒ですね。気が付かなかったんですか。

鈍りましたね。どうしたんですか、あれほど物の怪を祓ったのに。

でも私は分かっていましたよ。

波留に物の怪の血が流れているって。

だから波留はかけがえのない女性だったんですよ。

それでこの二日で祓ったのはこのイタチで23人目です。数えていました。

これで関わった物の怪は全部です。

愛雷はただの手先です。下っ端は使い捨てで可哀想ですね。

叔父上もただの手先ですよ。

操っていたものがいますが私では手が出ません。

ですが私が本気なのは分かったはずなので何か起こるかもしれません。」


ゆらゆらと築ノ宮は橈米に近づいた。

橈米の顔色は真っ青だった。

口元がぶるぶると震えている。


「私は物の怪は今まで数えきれないぐらい祓いました。

ですが人に手を掛けた事はありません。」


築ノ宮は橈米のそばに立った。


「今なら躊躇無く出来ると思います。」


橈米の膝ががくがくと震え出した。

もう気を失う寸前だった。


「そして私が祓った物の怪から聞きました。

消えた物の怪はどうしたのかと聞くと食べる者がいると。

おおばくぬしですか?」

「……食べた?眠ってるんだろ?」


消え入るような声で橈米がやっと喋った。

その時築ノ宮の後ろに一人の老婆がすうと現れ言った。


「喰ってんだよ。」


彼女を見て橈米はぽかんとした顔になった。


「万年青、さま……、」

「大獏主か、それであたしの裏がかけたんだな。」


それを見た皆が思わず跪き首を垂れた。


「あたしがこんな事が起きていると知ったら

すぐにどうにかしたんだが、本当に何も分からんかった。

色々とお膳立てしたが全部無駄になったぞ。

あたしの眼を眩ませることが出来るのは大獏主だけだ。

お前、大獏主と繋がったらしいが、

ただで済むと思ってるのか?」


橈米は魂が抜けたようになり返事も出来なかった。

万年青は呆れたような様子で築ノ宮を見た。


「後はお前に任せる。好きにしろ。」


そう言うと万年青は姿を消した。

しばらく周りは異様な気配が漂う。


「叔父上。」


築ノ宮が静かに言った。


「父上の所に行ってもらいます。」


橈米は気が付いたように彼を見た。


「せ、聖域にか、」

「そうです。そこで父上の中に入ってもらいます。」

「待て、あそこは牢獄だぞ。」

「牢獄ではありませんよ。」


築ノ宮はその時初めて薄く笑った。


「父上は聖域を守るために樹となりました。

そこで悠久の時を過ごしています。

父は現世は苦労ばかりだと言っていましたから、

聖域で物の怪達と過ごすのは楽しいらしいですよ。」

「待て、待て、俺はあんなところ……、」

「叔父上が手にかけた物の怪の知り合いも沢山いるでしょうね。」

「止めろ、俺は嫌だ。」


築ノ宮の顔は再び冷たくなった。


「そこに行かなければ大獏主様に死ぬまで悪夢を見せられますよ。

悪夢は大獏主様の大好物ですから。

悪夢に苦しめられて死にたくなければ樹の中に入るしかありません。

父が守ってくれますよ。死ぬまで。」


橈米は返事も出来ず情けない顔になった。

それを見て築ノ宮は黒装束に振り向いた。


「連れて行っていただけますか。」

「はい。」


黒装束は橈米を立たせると引きずるように部屋を出て行った。

それを築ノ宮が見送る。

その顔には感情は無かった。


「築ノ宮様……。」


しばらくして由美子が静かに声をかけた。

築ノ宮は彼女を見る。


「無断欠勤して申し訳ありませんでした。」


彼は由美子に頭を下げた。彼女はぐっとくる。

とてつもない事が彼に起きたのに彼は詫びるのだ。

それどころではないのに。


由美子はすうと息を吸った。


「それは構いません。

お車を呼びました。お休みください。

すぐに私が自宅までお送りします。」


築ノ宮の目が少しだけうろたえたように動いた。


「休んだ方が良いのでしょうか。」

「はい、そう思います。」


今彼はそれすら自分で判断できないのだろう。

何にしても彼を一人には出来ないと彼女は感じた。

休息させなくてはいけない。

事情を知るのはその後で良い。


とりあえず彼は生きて帰って来たのだ。






翌朝、築ノ宮はいつも通り出勤して来た。

何事もなかったように。

そして由美子に聞く。


「今日の予定は。」


それはいつもの事だ。

何も変わらない。

その変らなさが空恐ろしい気がした。

だが予定は待ってくれないのだ。


「はい、本日は……、」


ここのところ色々あり予定はしっかり詰まっていた。

とりあえずこなさなくてはいけない。

築ノ宮は淡々と仕事を進める。

そして社内はぴりぴりとした雰囲気に包まれていた。


築ノ宮は言われればいつも通り完璧に仕事をこなした。

人と会えば笑いもする。

だがそれが終わると途端に感情が無くなるのだ。


そして少しばかり余裕が出来た時に築ノ宮は休日を取った。

そしてその翌日も普通に出勤して来た。

だが以前のようにカプセルトイは持って来なかった。


由美子はだんだんと苦しくなって来た。


由美子は築ノ宮が女性と付き合っていた事は覚えていた。

そして妊娠した事も。


だが名前や電話で話した内容を思い出そうにも

彼女が言った事がどうしても思い出せなかった。


件の物の怪達は人と親しくしている物の怪を消していたらしい。

何百人とだ。

その中の一人が波留だ。

消された物の怪を直接知っている人は

彼らの記憶が全て無くなるらしい。

そして生活するために使っていた物も全部なのだ。

ともかく痕跡が全て無くなる。


だがこの事件に深くかかわっていた物の怪や

橈米や愛雷は覚えていたようだった。

多分彼らはこの事件の中心にいたので

消えない様に何者かが操作したのかもしれない。


この事件のきっかけは橈米だ。

彼がこの会社を去る時に物の怪の名簿を持ち出していたのだ。


それは10年前までの記録だ。

だから消えた物の怪達の中にはこの10年以内に

登録された物の怪は一人もいなかった。

波留一人だけだ。


そして橈米は愛雷と出会う。

それは偶然ではなく多分計画されたものだろう。

愛雷の復讐心を利用したのだ。


聖域を作ったのは10年前だ。

大方の物の怪はその場所については喜ばしく思っていたが、

それに反対する物の怪達もいた。


橈米に近づいた愛雷は名簿を手に入れて、

その名簿を利用して世を乱す事は出来ないかと考えたのだろう。

聖域に反対する者達がいるのを知り彼らに名簿を渡したのだ。


そして築ノ宮が女性と付き合っているのも知る。

それが彼のウィークポイントであるのに

簡単に気が付くのは想像がつく。


だが由美子には全てを愛雷が考えたとは思えなかった。

彼女も多分利用されていたのだろう。

そして消えてしまった者達がどこに行ってしまったのか。


橈米と愛雷を執務室で問い詰めた時に万年青が現れた。


由美子は彼女の名前は何度も聞いた事があるが、

会ったのは初めてだった。

そして大獏主と言う名だ。

大獏主は悪夢を喰らうもので、大獏主と万年青は対のものだ。


その彼の名が出て来たのなら

消えてしまった物の怪達がどこに行ってしまったのか想像がつく。

そしてそれを実行するためには万年青を欺かなくてはいけない。


築ノ宮の後ろ盾は穂積師と万年青だ。

特に万年青は怒らせてはいけない人物だ。

全てを知り嘘を見抜く。

その万年青に知られずに物事を進められるのは大獏主だけだ。

そして築ノ宮も大獏主には手が出せない。


この事件の元凶は大獏主だ、と由美子は思った。

そしてそれは大獏主のただ何かを食べたいという欲求だけで

始まったのかもしれないのだ。


由美子はため息をつく。


築ノ宮が愛する波留は大獏主の食欲の為だけで消えた。

そして愛雷の恨みは築ノ宮が作ったのではなく別の者だ。


築ノ宮と波留には何一つ悪い所はなかった。

ただ巻き込まれただけなのだ。


彼女は無表情に椅子に座っている築ノ宮を見た。


彼を見ていればいつもならどうしたのですかと聞くだろう。

そして休み明けにはごっそりとカプセルトイを持って来る。


あれにはうんざりしていた。

だが今は彼は何も感じていないのだ。

このままでは築ノ宮は……。


「築ノ宮様。あの、昨日はどのように……。」


彼の目が少し動く。

プライベートだ。

それを聞いて良いのかよく分からないが

今彼を動かさなければどうなるか。

今まで彼が正しいと思っていた考えが

変わってしまうかもしれない。


それは物の怪と共存する世界だ。


だがその物の怪は彼の愛を暴力的な形で奪った。

築ノ宮は彼らを守ろうとしていたのに。


裏切られた彼が物の怪達に絶望し

前世代的な組織に戻るのが彼女は一番怖かった。


少し間が開いて彼は言った。


「昨日は色々と手続きをして来ました。」

「手続きですか?」

「マンションを手放しました。役所にも行ってきました。」


抑揚のない言い方だ。

マンションはハルと暮らしていた所だろう。

そして役所は彼女に関するさまざまな届けだ。


多分彼は淡々と全て進めたのだ。

そこに悲しみと言う感情はない。

常識だ、やらなければという気持ちだけだろう。

心が麻痺しているのだ。

彼の顔はずっと能面のようだった。涙も見せていない。


「……あの、築ノ宮様、」


由美子がおずおずと言った。


「僭越ながら申し上げます。

……その、泣いて、良いんですよ。」


しばらく彼は由美子を見ていた。


「泣くとは……。」

「私は忘れてしまったけど、

築ノ宮様は覚えていらっしゃるのですよね。」

「……、」

「でも好きな人がいた時の築ノ宮様は毎日がとてもうれしそうだった。

それは私は覚えています。」


彼の目が泳ぐ。


「渡辺さん……。」


彼女は深呼吸をした。


「今から一時間面会も電話も全てシャットダウンします。

絶対に繋ぎません。」

「渡辺さん、あの……、」

「泣きなさい、築ノ宮。そして彼女を思い出して。」


そう言うと彼女は踵を返して素早く部屋を出た。


築ノ宮は俯いたまましばらく身動きをしなかった。

後ろ姿が小さい。

そしてゆっくりと引き出しを開ける。


そこには小さな宇宙人が付いたスマホと

綺麗なハンカチがあった。

彼は少し震える手でそのハンカチを手に取り開いた。


するとそこには歪んだブローチがあった。


彼はそれを握り締めた。

そしてもう電池が切れているスマホを見た。


それはもう二度と鳴らないのだ。

だから充電もせずに放っておいた。

鳴らなければ思い出す事も無い。


だが由美子は言った。

泣けと。

彼女を思い出して泣きなさいと。


なんと残酷な事を言うのだろう。

だがそれはとても優しい言葉だ。

築ノ宮はブローチを握り締めた。

そしてその背中が丸くなり微かに震えだした。


彼が波留を忘れなかったのは彼自身の力もあったかもしれない。

だが彼の手の内にあるブローチのローズクォーツには、

彼の加護と父親の博倫のまじないがかかっていた。

博倫は言った。

やくを結んだと。


二人の永遠を結ぶ約束が消えぬよう

博倫は祝福を込めて石に託し祈ったのだ。


石はその約を守った。

自分の身が砕けても築ノ宮の思い出を守ったのだ。


嗚咽が聞こえる。


彼は波留の柔らかな髪を思い出している。

そしてその髪に触れた事を。


そしてそれから溢れるように彼女の全てを思い出していた。


生き生きと鮮やかにそれは蘇る。

彼の心の中には彼女は今でも満ちているのだ。






やがて扉がノックされた。


「失礼いたします。」


由美子だ。手には熱いおしぼりと冷たいおしぼりがある。


「あの、渡辺さん、」

「まず熱いおしぼりで目を押さえて下さい。」


有無を言わせない言い方だ。

彼は仕方なくおしぼりを目に当てて上を向いた。

そしてしばらくすると彼女がそれを取り除いて

冷たいおしぼりを置いた。


「気持ちが良いです。」


築ノ宮が呟いた。

由美子が少し笑う。


「お客様に今お待ちいただいています。

30分の予定ですが20分で済ませましょう。

次も少しばかり急いで済ませます。

忙しいのできりきりとお願いします。」


築ノ宮がおしぼりを取って由美子を見た。


「渡辺さんは本当に優秀な秘書だ。」

「そうですよ。

ボスをガッツリと働かせる秘書です。」


築ノ宮が笑った。


「昔から手がかかる。私は本当に大変です。」


築ノ宮が立ち上がった。

そして由美子のそばに寄る。


「ありがとう。」


由美子がにやりと笑う。


「色々な意味で泣かせるのは得意ですよ。

さあ仕事で泣いて下さい。」


多分これで築ノ宮は少し歩き出せたはずだ。

由美子はほっとした。




その日一日大急ぎで仕事を進めた。

そして夕方近くだ。


「築ノ宮様、今日はここでお降り下さい。」


築ノ宮がふと顔を上げるとヒナトリ・アンティークの前だった。


「渡辺さん……。」

「今日のご予定はありません。」

「いや、まだあるでしょう。」

「全て少しずつ早めに済ませたので終わりです。

何かありましたらご連絡下さい。

ヒナトリ様にはお話してあります。

明日お迎えに上がります。」


表情も変えず由美子は淡々と言った。


「休みなさい。命令です。」


由美子はじっと築ノ宮を見た。

彼女がこのような態度の時は絶対に譲らないのだ。

そしてそれは彼女の心遣いだと築ノ宮は分かった。


「はい。」


彼は素直に言うと車を降りた。

そしてすぐに車は走り出す。

由美子はちらりと店の前に立っている築ノ宮を見た。

そしてバックミラー越しの運転手が由美子を見た。


「お疲れさん。」


運転手が彼女に言った。


「頑張ったわ。」


運転手がため息をついた。


「早く元気になって欲しいな。」

「そうね。」


車は静かに走る。

午後の光が少しだけ黄色くなる。






しばらく前の話だ。

由美子はヒナトリ・アンティークの扉を叩いた。


「あら、渡辺さん、いらっしゃいませ。」


更紗が彼女に気が付き笑いながら声をかけた。

午後の光が落ち着いた店内に入り込んでいる。


「こんにちは、あの、ヒナトリさんはいらっしゃる?」

「ええ、いますよ。」


来客に気が付いたのかヒナトリが奥から顔を出した。


「おお、渡辺さん、お久し振り。」


由美子が少しばかり寂し気に微笑んだ。

それを見てヒナトリと更紗が顔を合わせた。


「どうしました?」

「ちょっとご相談があって。」

「ああ、私はお茶を入れて来ますね。」


更紗が奥に入りかけると由美子が言った。


「更紗さんにも聞いて欲しいの。築ノ宮様の事で。」




「彬史の様子がおかしいのか。」


ヒナトリがため息をついた。


「ええ、この前の騒ぎはご存知ですよね。」

「ああ、街中の火柱な。彬史がやったんだろ?」

「そうです。理由はご存知ですか?」

「素鼠老が聖域に反対する物の怪を祓っていると言っていたが。」


由美子の顔が暗くなる。


「その反対する物の怪達が築ノ宮様が結婚しようとしていた女性も

消してしまったんです。」


聞いていた二人の顔がひどく驚いた表情になった。


「彬史さん、一度ここに連れて来ますと言っていたけど……。」

「お二人はその方にお会いした事がありますか?」

「いや、一度彬史がその方にプレゼントをするものを買いに来て、

連れてくると言ってそれっきりだ。」

「お名前も聞いていないから覚えているんですね。」


ヒナトリは素鼠老が言った事を思い出す。

消えてしまった物の怪を知っている者の

それに関する記憶は消えると。


「渡辺さんはあった事があるんですか?」

「私は電話で一度話した事があるの。

でも名前と話した内容が全く思い出せなくて。

でもあとから報告書を読んでお名前を知ったわ。

波留さんと言うの。」


三五の組織ではある程度は波留の事は調べてあったようだ。


「でも築ノ宮様は全部覚えているみたい。

それでこれに関わった物の怪は全て築ノ宮様は一人で祓ったわ。

そして身内も関わっていたけど、

その人も築ノ宮様が処分を下したの。」

「処分って彬史が手を汚したのか?」

「聖域に送ったのよ。

あそこで死ぬまで閉じ込められるわ。」


皆は黙り込む。


「それで、その、渡辺さん、俺達に話ってなんだ?

あいつの様子がおかしいんだよな。」

「築ノ宮様の心が壊れかけているみたい。」

「好きな人がそんな風に消えちゃったら……、」

「それにどうも波留さんのお腹に赤ちゃんもいたみたいで。」


更紗が息を飲んで口元を手で押さえ、ヒナトリがくうを見た。


「……あいつ仕事してるのか?」

「ええ、いつも通り。」

「泣いたりしたか?」

「……いえ、多分あれから全く感情は動いていない感じです。」


ヒナトリが難しい顔でしばらく考え込む。


「分かった。渡辺さん、あいつをここに連れて来てくれ。」

「お願い出来ますか?」

「ああ、もちろん。」


由美子はほっとした顔をした。


「助かります。

ほんと毎日能面みたいな顔でお仕事されて痛々しくて……。

元々真面目な方ですが真面目過ぎてお気の毒過ぎます。」


ヒナトリがふっと笑う。


「あいつは自制心が強いからな。

無茶苦茶我慢しているんだよ。超クソ真面目な仕事馬鹿だ。

渡辺さん、どうにかしてあいつ泣かせてやれよ。」

「泣かすんですか?」

「俺もあいつの事はよく知っているけど

渡辺さんも知っているだろ?

俺とは違う方法であいつの心に響くことが出来るかもしれないぞ。」

「難しいわ……、どうしよう。」


ヒナトリが彼女を見た。


「案外と直球の方が効くんじゃないか?」




由美子は車外の流れる景色を見ながら

ヒナトリの言葉を思い出す。


「そうね、直球が効いたわ。ヒナトリさん、後はお願い。」


彼女は呟いた。








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