18 梅干し




その日、仕事をすることをあきらめた波留はよろよろと

歩いていた。

彼女を見かけたあの警備員が

タクシーを呼ぼうと言ったがそれも断った。


マンションはすぐそばだ。

帰れると思ったが途中で息が切れて座り込んでしまった。


「お、波留ちゃんじゃねえか。」


近くの縁石に座って俯いていると男の声がした。

彼女がゆっくりと顔を上げると、

そこには以前モンちゃんで築ノ宮とビールを飲んでいた

男性がいた。


「酷い顔色じゃねぇか。ちょっと待ってろ。」


と言うと彼は走り出した。

しばらくすると彼とモンちゃんが走って波留の元に来た。

二人は彼女を助けながらモンちゃんまで連れて行った。


「ありがとう、後はあたしがやるよ。」


とモンちゃんが言うと男は帰って行った。

波留は椅子に座り俯いていた。


「びっくりしたよ、何事かと思ったら。」

「……すみません。」


波留が小さな声で言った。

モンちゃんはグラスに水を入れて波留の前に置いた。


「どうしたんだい。」

「……、気持ち悪くて。」


モンちゃんが一瞬何かを伺う顔をした。


「とりあえず水でも飲んで。」


波留は一口飲む。


「なんか食べるかい?作るよ。」

「あの、食べると吐いちゃって。」


波留がモンちゃんを見た。

泣いている訳でもないのに目が少しばかりうるんでいる。

モンちゃんが波留の横に座った。


「あんたさ、妊娠したんじゃない?」


波留がはっとした。


「つわりだよ、それ。生理来てないんだろ。」


波留が再び俯くと頷いた。


「しばらくちゃんと食べてないんじゃないか?

分かった、ちょっと待ってな。」


と言うとモンちゃんが奥に入って行った。

そしてしばらくすると白粥に一つ小さな梅干しが入った

茶碗を持ってきた。


「口に合うかどうか分からないけど、

あたしがつわりの時はこれだけは食べられたんだよ。

まあ梅干しに塩分があるけど、

何か食べないと参っちゃうからね。」


彼女はおずおずとそれを手にした。


白粥は温かい。器を通して手が温かくなる。

彼女は一口梅干しを齧った。

塩味と酸味が口に広がり粥を食べた。

それは思ったよりさっぱりとした味に感じ、

彼女はそれをすぐに食べてしまった。


「すみません。」


まともに食べたのは久し振りかもしれない。

まだ築ノ宮が家に来れば無理をしてでも何か作って食べただろう。

だが一人でいるとそんな気も起きなかった。

そして調子も悪かった。

モンちゃんは優しい顔をして波留を見た。


「赤ちゃんか。」

「はい。」

「あの人は知ってるのかい?」


波留は返事が出来なかった。

それを見てモンちゃんがため息をついた。


「言った方が良いんじゃないか?

あの人なら逃げたりしないだろ?」


モンちゃんが言う。

その通りだと波留は思った。


もし何事も無ければ波留は喜んで築ノ宮に伝えただろう。

だがあの闇を考えると

彼に伝えて良いのかどうか考えてしまうのだ。

そしてあの女。

あの人が言った言葉が彼女を今縛っていた。


「じ、事情があって……、」


そう呟くと彼女の目から涙が溢れた。

しばらくモンちゃんは何も言わない。

近くにあったティッシュの箱を彼女の前に置いた。


波留が占い師をしてから

自分の前でこのように泣く人を何人も見た。

苦しみ悩む人を前にして波留が出来るのは

ただ黙って寄り添うだけだ。

波留は助言は出来るが結論を出すのはその本人だ。


そして今は自分が結論を出す立場になっている。

モンちゃんは波留の背中に手を添えた。


「あたしは部外者だからね、

あああしろこうしろとは言わないけど、

あんたは今一人じゃない。よく考えてな。」


波留はしばらく休んでモンちゃんを出た。

帰り際にモンちゃんは容器に梅干しを入れて波留に渡した。


「あたしが漬けた小梅の梅干しだよ。

塩がバリバリに入ってるんだ。

今時の梅干しは味が薄いからね。

あたしはこのきついのが好きなんだよ。

まあ本当に塩味しおみが強いから一日一個にしなよ。」


波留は頭を下げた。

少しお腹に食べ物が入ったからかさっきよりは気分は良かった。

ゆっくり歩きマンションに戻った。


だがその時あの女の匂いがした気がした。

すうと足元が冷たくなる。

彼女は慌てて部屋に入った。




部屋に入ると午後の日差しが広がっていた。

気持ちが良い。

モンちゃんで食べたからだろうか。


彼女は梅干しを取り出した。

小梅だ。

モンちゃんは自分が漬けたものだと言っていた。

塩味えんみは強いがその強さが気持ち悪さを少し押さえた。


「ありがとう、モンちゃん。」


波留は呟くとスマホを取り出しそれを開いた。


ラインには彼からのメッセージが来ている。

一応それを見て返信はするが

彼女から先に何か送ったのは最近は無かった。


彼からのラインは忙しいのかそれほどない。

以前は見るだけで返信も出来ないぐらい忙しいのだ。

だが最近は多忙の中で波留にラインを送る。

おはようの一言でも彼には隙を見て送って来るのだろう。

彼の気持ちはそれだけでも分かる。

だが……、


彼女はスマホをずっと見ていた。




そして次の日、彼女は仕事に出かけた。


昨日モンちゃんが食べさせてくれたものを自分でも作ってみた。

それは食べられたのだ。

少しばかり調子が上がる。


これからどうなるか分からない。

だがとりあえず仕事は続けなければいけないだろう。

もしかすると築ノ宮とは別れるかもしれないからだ。


そうなると必要なものはお金だ。


そして彼女は子どもをあきらめる気は全くなかった。

それだけははっきりと決めていた。

もし彼が渋ったら自分一人で育てるつもりだった。

彼が自分から去っても子どもだけは残る。

心から愛おしい男性の子どもだ。


子どもはどんな事になっても彼女は産む決心をしていた。




その日の午後、波留の占い部屋に一人の男性が入って来た。


彼が来る前から外からは何か嫌な感じがあった。

それでも客は客だ。


「いらっしゃいませ。」


男はにやにやしながら波留をじろじろと見た。

そしてテーブルの上のトランプを見て少しだけ動きが止まった。

そして再び男はにやりと笑った。

波留は彼と目が合うと背筋が氷のように冷たくなった。


「いや、どうも失礼。」


薄笑いを浮かべたまま男はどっかりと椅子に座った。


「こちらは恋占い専門で女性の方がいらっしゃることが

多いので男性の方は……、」


波留は言う。

どちらかと言うと客は若い女性が多い。

だが男性でも恋占いはするので性別で断る気はないが、

この男は相手にしない方が良いと波留は本能的に感じた。


明らかに危険な人だ。


男は波留の前で軽く指を振った。

すると突然彼女の体が動かなくなる。


「よくもまあ化けたものだ。」


男は築ノ宮の叔父の橈米どうまいだった。


「物の怪のくせに人の顔をして彬史を騙したんだな。

子どももいるんだろ?

築ノ宮家に物の怪の血を入れるとは。穢れだ。

それにこのトランプ……、」


橈米は彼女に手を伸ばす。

その瞬間彼の思考が入って来た。

今彼が思い浮かべている事だろう。

トランプを使っている女性の姿だ。


その顔に波留は見覚えがあった。

男の中の女性の顔は恐怖に満ちている。

そしてそのトランプはすぐに舞い散った。


それを見て波留は気を失いそうになった。

そのトランプは自分の物ではない。

そしてその女性は自分ととても良く似ていた。


「俺達は物の怪を祓う仕事をしているんだ。

彬史も物の怪を祓うぞ。

俺達を探りやがって。お前はスパイだな、今祓ってやる。」


橈米の手から彼女に触れる寸前にバンと大きな音がした。

驚いた彼は素早くひっこめた。

そして彼女が胸元に付けているブローチが熱を持った。


「彬史め。」


彼は呟き忌々しげな顔をして波留を睨むと

部屋を出て行った。


しばらく彼女は動けなかったが、やがてすっと力が抜けた。

そして思わず机に突っ伏した。


彼女はあの男が誰だったのかは分からない。

だが彼は言った。

彬史と。


前に築ノ宮が話していた事を彼女は思い出した。

自分を彬史と呼ぶのは身内とごく親しい友人だけだと。

波留はあの男を思い返す。

とても築ノ宮の友人ではないだろう。ならば彼の身内か。


そして彼が言ったもう一つの言葉だ。

物の怪と言う言葉は自分が持つ疑問の答えなのかもしれないと感じた。


自分の中に潜む血。

かつて父親の記憶に見た母親の姿。

あの姿を今彼女はあの男の中に見た。

あのいやらしい男は自分の母親を知っているのだ。

その母親は恐怖に満ちた顔をしていた。

父親の記憶にあった穏やかな顔ではない。


そして築ノ宮に抱かれる度に悦びの中でも感じる何かだ。

初めて彼と出会った時にも感じたものは

自分が持つ不思議な力と関係していると分かった気がした。


物の怪と対峙する築ノ宮に

波留のもう一つの血は恐れていたのだ。

彼を愛する心と共にもう一つの心は彼を恐れている。

彼は物の怪を祓う者なのだ。

闇の中の目は祓われた物の怪達の恨みなのだろう。


それが分かる自分は何者か。

波留ははっきりと分かった。


自分は人である父と物の怪の母との間に生まれたのだ。






彼女はふらふらと立つと事務的に周りを片付けだした。

入り口の札を準備中に変えると

それを通りかかった警備員が見た。


「どうした、波留ちゃん。」


だが彼女はそれに答える事も無くゆらゆらとそこを去って行った。

警備員が心配そうにその姿を見るが、

すぐに人ごみに彼女は消えた。




そしてその日の夕方、築ノ宮が占いの部屋の前に現れた。

扉には準備中の札だ。

そこに波留に声をかけた警備員が通りかかった。


「あ、あんたか。」


彼は築ノ宮に近寄った。


「あんた、波留ちゃんの知り合いだろ?」


警備員が築ノ宮に小声で話しかけた。


「なんか昼過ぎに変な男が入ってその後波留ちゃんがふらふらと出て来たんだ。

なんか知ってるか?」

「変な男ですか。」

「なんか気障ったらしいじいさんだ。

俺はその男が部屋の近くにいたから妙だなと見てたんだよ。

波留ちゃんの占いは女の子ばかりだからな。」


築ノ宮は嫌な予感がした。


「その後波留ちゃんはぼんやりとした顔で行っちゃったんだよ。

まあ退出届は用事が出来たみたいだと俺が出しておいたけど。」

「ありがとうございます。」


警備員は難しい顔になった。


「なんか大変な事があったみたいなんだよ。

俺、心配でさ。様子を見て来てくれよ。」

「分かりました。教えて頂いてありがとうございました。」


築ノ宮が頭を下げてすぐにモールを出た。

酷い胸騒ぎがする。


警備員が言ったその時間の頃だろうか。

突然不安が彼を襲った。


それは波留の心だ。何かが起きたのだ。

彼にはすぐ分かった。

だがその時彼はどうしてもその場を離れる事が出来なかった。

要人と対面中だったのだ。


どうにかそれを切り上げて時間を作りモールに来たのだ。

何度か波留に電話をしたが彼女が出る事は無かった。





薄暗くなる中でマンションの部屋には電気がついていなかった。

いないのかもしれない。

だがそこには彼女の気配はあった。

しかしそれはとても弱々しく悲しげだった。


彼は急いで部屋に向かいそっと扉を開けた。

部屋の中は暗い。

その中で彼女はテーブルに突っ伏していた。


「ハル……。」


築ノ宮が静かに呼びかけた。

彼女は身動きしない。


「何があった?警備員の人が教えてくれたよ。」


彼女の体がピクリと動く。


「派手な格好をした男の人が来たと。」


彼女が顔を上げた。

その瞳が暗い部屋で光る。


「……その人はあなたの事を彬史、と言っていたわ。」


築ノ宮が彼女を見た。


「あなたの身内の方でしょ?」


築ノ宮にはその男が誰であるか今は分かった。

叔父の橈米だ。


「そしてその人が私に物の怪のくせにと言ったの。」


築ノ宮の足元が冷たくなった。

しばらく立ち竦んだ後彼はそのテーブルの椅子に座った。

二人が何度も一緒に食事をとったテーブルだ。


「多分私の叔父の橈米と言う人だ。」

「そうなのね。」

「それで、その、物の怪とか言っていたみたいだが……、」


築ノ宮が言いかけると彼女が手をそっと上げてそれを制した。


「知ってたわ。」

「知ってた?」

「あなたの記憶が見えたの。」


築ノ宮は愕然とした。


「知ってたと言うかあなたの記憶が何度も見えたのよ。

あなたに抱かれている時に。

アキは強い人よ、心もガードも強い。

でもあの時は心がむき出しになるみたい。」


彼女は築ノ宮との夜を思い出す。

二人が同じ波に乗り高め合うのだ。

その瞬間満ち足りたものを二人は感じていた。

その時は何も隠せないのだろう。


だが今のこの深刻な場面でもそれを思い出すと

彼女は体の中が熱くなる。

あの時に戻れたらと彼女は思った。


「それを見てアキの仕事が何となく分かったの。

物の怪を祓うんでしょ?

あなたの奥には闇があるの。沢山の目がこちらを見ていたわ。

それが何なのか今まで分からなかったけど。」

「……、」

「でもそれをアキが面白がってやっているとは思っていないわ。

大事な事なのよね。」

「そうだ。」


そして波留は寂し気な顔になる。


「私、最初からアキがすごく気になっていた。

でもどこかで怖い人と言う気持ちもあったの。

それがどうしてか分からなかったけど、

あの人が来て物の怪と言った時にそれが分かった。

私の半分がアキを怖がっているのよ。

それにあの人は穢れた血を築ノ宮家に入れるなとも言ったわ。」

「ハル、それは違う!」


彼が少しばかり大きな声で言った。


「でもね、」


波留は築ノ宮を見た。

その眼には涙がいっぱいに溜まっている。


「でも半分はアキと離れたくないの。絶対に。」


彼女の胸元でローズクォーツが光る。

築ノ宮がテーブルの上の彼女の手に触れた。


「ハル、叔父が何を言おうと関係ない。

私もハルと離れるなんて考えられない。」

「もしかするとアキは最初から私がこんな体だって

分かっていたんじゃないの?」


築ノ宮が複雑な顔になる。


「実はそうだ。気配で分かった。」

「教えてくれたら良かったのに。」


波留がふっと笑う。

涙がぽろぽろと零れた。


「最初はどうしたらいいのか私も分からなかったんだ。

でもハルは知らない様子だったから何も言わなかったけど、

そのうちそんなことどうでも良くなった。

今まですっかり忘れていた。

もうそれは関係ないと思っているよ。」

「そう……。」


二人はしばらく何も言わない。

カーテンを閉めていない窓の外に

街の明かりがぽつぽつと見えた。

部屋の中は真っ暗だ。


「……それでそのおじさんの記憶が見えたの。」

「叔父の?」


彼女が強く目を閉じた。


「トランプを持った女の人をあの人が打ち祓ったのよ。

トランプが散ったわ。」

「叔父がハルに何かしたのか?」


彼女が首を振った。


「その女の人は私のお父さんの記憶にいた人よ。

多分私のお母さん。

橈米と言う人が私のお母さんを祓ったのよ。

お母さんは怯えた顔をしていたわ。」


しんと空気が沈む。


築ノ宮の目の前が暗くなり何も言えなくなった。

橈米は波留の親に手を掛けたのだ。

何年前か分からない。

だがそれは確かな事なのだろう。


「ハル、私は……、」


築ノ宮は何も言えなかった。


「今日は帰って、お願い。」

「でも……、」


こんな様子の彼女を一人には出来ないと彼は思った。

だがもう何も言わず俯いて黙り込んだ彼女は

全てを拒否している様だった。


築ノ宮はそのまま座っていたが、

やがて諦めたように立ち上がった。


「ハル、今日は帰るよ。

でも絶対におかしな事はしないで。私は……、」


築ノ宮が彼女の手を強く握った。


「どんな事があっても私は君を離さない。

皆が何を言っても絶対に。」


彼女は全く動かなかった。

築ノ宮はしばらくそのまま彼女の手を握り、

そして静かに部屋を出て行った。








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