罪悪

 ☆


「佐藤くん!? 佐藤くん!?」


「ぎゃァ!」


 名前を呼ばれて意識がはっとする。体を揺さぶられる感覚に、おじいさんがフラッシュバックして俺は手を払いのけて頭を押さえた。


「だ、大丈夫か?」


 所長だった。

 その顔はとても心配そうだ。


 恐怖は消えることがなく、意識せずにガタガタと震える自分の手が不思議だった。

 帰ってこない俺を心配した所長は配達ルートを見回りに来てくれたそうだ。そこでO団地の入り口で倒れている俺を見つけたらしい。


 O団地から帰る時に、「やっぱだめだったか」と所長がつぶやいたのを俺は聞かなかったことにした。

 そしてどこからか所長が連れてきた数人組がO団地を担当することになった。


 彼らは仕事内容は他の人よりも少ないのに『O団地』を担当して、同じくらいの給料をゲットしている。それを不満に思う人はもれなくO団地に配達に行かされて強制的に納得させられた。


 大学の図書館でパソコンを使ってO団地について調べてみた。

 そもそも公営住宅で、治安も悪い。そして飛び降りだとか、事故だとかそんなよく分からない噂がインターネット掲示板に山ほど書き込まれている。心霊スポットだ。


 本当かどうかも分からない。

 女を見た人もいるし、子供を見た人もいる。はっきりした姿はなく音だけだったり、影だけだったり、怪奇現象もさまざまだ。


 少なくとも、もう俺はO団地に関わることはないだろう。

 だが――。


「あ、あの」


 それでも俺は、所長が連れてきた数人組の一人に話しかけた。確か山内さんだ。


 彼らに関わることがO団地に関わることだというように、O団地組は営業所内で浮いていた。

 『ケガレ』がうつると言っていた人もいるくらいだ。


「あの団地っていわく付きなんですよ……」


 俺の言葉に山内さんは、小首をかしげた。曰くを知らないのか?

 そう思っていると、耳を指さした。


 少し考えて、そして山内さんが緑色の矢印のようなマークのバッジを見せてくれた。

 なんだ? 考え込んでいると、山内さんはカードを見せてくれた。「耳が不自由です」と書かれている。マークの下には『耳マーク』。


 聴覚に障がいがあるのか? 彼らはO団地まで車を運転して配達していたから気づかなかった。


 悲鳴や声が聞こえるから辞めてくからって解決策が最悪すぎるだろ。それにあれは、もうそんなレベルで収まるものじゃない。更地にしたって怪奇現象が起きそうなレベルだ。


「O団地は良くない噂があって……」


 ゆっくりそう話すと、山内さんはカラカラと笑った。


「所長から聞いてます」


「じゃあなんで……」


「あの団地には音がありますから」


 あっけにとられた俺に、山内さんは「心配してくれてありがとう」と新聞を車に積み込みはじめた。

 音がある……。……、あの団地の音は絶対に良い音ではない。


「足音も、人の声もして、とてもにぎやかですよ」


 俺の表情に何を思ったのか、山内さんはそんな事を言って配達に出かけて行った。


 何もできない。

 山内さんを本当に心配するなら、俺がO団地への配達を請け負うべきだ。

 だが、恐ろしくてできやしない。それに、あの団地に関われば確実に大学を卒業することはできないだろう。


 本人が良いから良いのか。俺にできることは何もない。


 俺に出来るのはにぎやかなO団地にあふれる声が、挨拶や子供の遊ぶ声、テレビの音、そんな普通の生活の音であることを祈るだけだ。


 自分の生活がある。他人を救えるほどの無尽蔵の力なんか俺にはない。だから『贅沢』を夢見てここにいる。


 それから山内さんとは挨拶をするようになった。

 彼はとても良い人で、話してみるととても気さくな人だった。


 O団地のことは心にチクりと刺さっていたが、それは考えないようにしていた。


 大学を卒業し、新聞奨学生を辞めた時、心底ほっとした。


 毎朝、山内さんの顔を見てほっとしていた。

 ああ、今日もO団地に行くのは俺じゃない。ありがとうございます。

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そこには音がある 夏伐 @brs83875an

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