【第二章:坂井かなえ(2)】

T大学はB市の中に三つのキャンパスがあり、今回の座談会ざだんかい会場かいじょうはB市中心にあるキャンパスの中の会議室かいぎしつであった。ただ、キャンパスという言葉が表すイメージとはことなり、B市中心にあるT大学キャンパスは二棟にとうのビルが併立へいりつしてっているだけであった。


この二棟は主に医学系いがくけい歯学系しがくけい生物学系せいぶつがくけいの研究用として使われており、ここには学部生がくぶせいはほとんど通っていない。そのため、その建物内たてものないにいるのは大部分だいぶぶんが大学院生やポスドクなどの研究員けんきゅういんであった。


坂井かなえが在籍ざいせきしている研究室は東側のとうにあり、高野恵美子の研究室は西側の棟にある。この日は、最初に東棟ひがしとうの入り口で田畑太一郎と真中しずえが坂井かなえに会うことになっていて、そのあとに3人で西棟にしとうの高野恵美子の研究室があるフロアの会議室で高野恵美子と合流ごうりゅうすることになっていた。


田畑太一郎たちが東棟の入り口に到着とうちゃくし、真中しずえが携帯電話けいたいでんわをポシェットから出そうとしたときに、「や、こんにちは」と突然とつぜんうしろから声をかけられた。ビクッとして二人がくと、そこには夏らしいあわい青色のワンピースを着た坂井かなえが明るい笑顔えがおで立っていた。


「あ、ごめんごめん。おどろかせるつもりはなかったんだ。入り口のところで二人を待ってようと思ってたんだけど、これ買うのにちょっと手間てまっちゃっておそくなっちゃった」と、両手に持っていた箱を少し上に持ち上げた。坂井かなえが手にしている箱は、ドーナツを十二個いれられるもので、箱の上側にはドーナツ屋のシンボルが大きくえがかれていた。


「これ、座談会のときにみんなで食べようかなと思って買ってきたんだけど、もしかしてドーナツはあんまり好きじゃなかったりする?」

「いえ、私ドーナツ大好きです!」


「良かった」と言いながら、坂井かなえは田畑太一郎の方を向く。


「えっと・・・田畑先生でしたよね。はじめまして。」

「あ、初めまして。田畑太一郎と言います。今日は土曜日なのに座談会への参加を承諾しょうだくしていただきどうもありがとうございます。えっと、僕はただの学生なんで、『先生』はちょっと違うかもしれないです。」

「そっか。ここら辺に研究で留学してくれる日本人ってお医者さんが多いから、ついつい先生って言っちゃうんだよね。」

「わかります。僕も留学して最初のころ、日本人研究者の集まりに出たときに、みんなが『先生』とつけて呼び合ってるのを聞いてちょっとびっくりしちゃいました。」

「だよね。じゃあ、君のことは田畑君と呼んでいいのかな。それともアメリカらしく太一郎君と下の名前で呼んでもいいのかな?」

「どちらでも大丈夫です。」

「じゃあ、太一郎君で決まりね。私のことも下の名前で呼んでいいからね。」

「あ、はい。じゃあ、かなえさんと呼ばせていただきますね!」


田畑太一郎はこれまで日本人の女性に下の名前で呼ばれたことはなく、女性を下の名前で呼んだこともなかった。しかも、田畑太一郎にとって坂井かなえは、真中しずえが言っていたように可愛らしく魅力的みりょくてきな女性にうつっていた。そのためか、田畑太一郎は坂井かなえとのこういったやり取りに少しれていた。そして、それに真中しずえが目ざとく気づく。


「あれ?田畑さん、もしかして少し照れてます?顔赤いですよ?」

「な、何を言ってるの真中さん。お、俺、別に照れてないよ。」

「私のことは苗字みょうじで呼ぶのに、かなえさんのことは名前で呼ぶんですね。」


田畑太一郎の顔がさらに赤くなり、何かを言おうとしたが言葉にならなかった。それを見て坂井かなえが「はは、若いっていいね。とりあえず中に入ろうか。今日は暑いからね」と、その場を軽くおさめるような発言をしてドアを開けて中に入った。そのドアは大きなガラスとびらで、中にはもう一枚いちまいのガラス扉があった。そして、そこを抜けると守衛しゅえい(ガードマン)が入館にゅうかんする人のセキュリティ・チェックをするためのスペースがあった。


「ハロー!」と明るい大きな声で坂井かなえが守衛に話しかける。この守衛はガタイの良い黒人だった。街中まちなかで会ったら目を合わさずにひっそりと距離きょりを置くだろうなと、田畑太一郎はふと思ったが、その次の瞬間しゅんかんにそんな考えをした自分自身に少し幻滅げんめつした。


坂井かなえは、その守衛とは顔馴染かおなじみのようで、彼女に話しかけられた守衛の表情は、その体格とはつかわしくない柔和にゅうわなものとなった。守衛との短いやり取りのあと、坂井かなえはゲスト用の入館者スティッカーを守衛から受け取り、それをそのまま田畑太一郎と真中しずえにわたした。


二人はそのスティッカーを左胸ひだりむねのところにり、坂井かなえに続いて建物たてものの中に入っていった。そのとき、真中しずえは坂井かなえがやったように、明るい大きな声で「センキュー!」とにこやかに守衛に話しかけた。守衛も笑顔で返した。


田畑太一郎も同じようにしたかったが、うまく言葉が出てこずに小さな声で「サ、サンキュー」としか言えなかった。その言葉は聞き取られなかったのか、その守衛は田畑太一郎の方は見向みむきもせずに、守衛スペースにある複数ふくすうのモニターの方を見ていた。


***


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