第52話 Re:シチリアーノ

 神原さんからの連絡のあと、私は木に立てかけていたヴァイオリンを手に取った。


 失恋したら弾こうと決めていたのだ。


「ダメなこと前提で用意してるのが、我ながら腹立たしいわね」


 自分に向けて恨み節を垂れる。


 彼がいたこの場所で、彼の温もりが残るこの岩の上で、目を閉じて独奏曲アリアを奏でる。


 曲はフォーレが作曲した『シチリアーノ』。


 放牧的だが、どこか悲しげで……フラれたらこれを引こうと決めていた。


 フラれる準備はしっかりしている自分に再度腹が立つ。


 目は開けたくなかった。彼がくれた指輪が見えてしまうから。


 目を開けたくなかった。彼がくれた温もりを感じられるから。


 目を開けたくなかった。彼がくれた思い出に浸れるから。


「バカバカバカ!」


 感情に任せて魂柱を走らせる。


 この気持ちはだれに向けたものかは分からない。自分への愚かさなのか、島崎くんへの八つ当たりなのか、神原さんへの嫉妬なのか。


 わからない。わからないけど。


 きっとぜんぶ自分が悪かった。


 もっと上手くやれたはずだ。そうすれば今ここに島崎くんといっしょにいられたはずだった。


 でも、いくら夢想してもそんな未来には辿り着けない。もう終わってしまったのだ、私と彼の関係は。


 これからどうしようか。


 大学を中退してしまおうか。島崎くんと顔を合わせたくない。


 また好きになったら彼を困らせる。私も困ってしまう。


 島崎くんに依存しているのだと、今更気付く。本当に今更だ。


 シチリアーノも終盤に差し掛かる。


 この曲は終盤になってもずっと穏やかな曲調が続く。凪いだ湖のように、ずっと、ずっと。


 それがいまの私には心地よかった。


 これを引き終わったら何を弾こうか。今晩はずっと弾き続けたい。この感傷に、失恋に浸って、彼を心に焼き付けたい。永遠に。


 目をつぶっていると、つい感情が溢れる。感覚も鋭利になって周囲の音がよく聞こえる。寄せては返す穏やかな波も聞こえる。


 そして、私の聴覚がとらえた音がもう一つあった。


「その岩は俺の特等席じゃなかったっけ?」


 馴染みのある声だ。


 嬉しくて嬉しくてたまらない。つい演奏が早ってしまう。


 それでも目を開けられない。彼を見るのが怖かった。


「天川の演奏は綺麗だ。満月の夜は特に」


 この瞼の先では、月明かりが島崎くんを照らしているのだろう。そんな彼に私は演奏を届ける。


 今までありがとう。


 好きになってくれてありがとう。


 楽しい思い出をありがとう。


 そんなたくさんのありがとうと共に、これからの彼にエール演奏を送る。


 それが天川詩乃にできる精一杯の『好き』だった。


「天川、ありがとう」


 その瞬間だった。


 唇に柔らかなものを感じて、演奏を止めてしまう。


 怖い。この感触の正体を確かめるのが怖い。


 自分が望んだものじゃないことが怖い。


 期待を裏切られるのが怖い。


 そんな恐怖を振り払うように、私は目を開けた。


 そこには同じく目を閉じて私に口づけをした島崎くんがいた。


「なん、で……」


 私はドラマチックに泣くことも、抱きしめることも出来ずに、ぽかんと疑問を口にした。


 本当に現実の恋は上手くいかない。


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