第51話 決断

「はぁ……」


 古びた木にヴァイオリンケースを立てかける。


 いつもの山湖。


 いつものうざったい暑さ。


 いつも通りじゃないひとり。


 満天の星空のもと、私はいつも『彼』が座っていた石に腰をかけた。


「来るはずないのにね」


 独り言が暗闇の湖に吸い込まれる。


 草木がさざめいては、耳につく。島崎くんといたある晩もこんな夜だっただろうか、と。思い出の数々はやはり忘れられなかった。


 ここに来たのは区切りのためだ。


 花火大会のあと、私が山湖に行き、神原さんはいつも車を停車させていた山の道中に行き、島崎くんが来るのを待つ。


 勿論、私のところに来るはずなんてない。そんなことは分かっている。


「時間か……」


 スマホで時間を確認すると、約束の零時を回ったところだった。


 今頃、神原さんと熱い抱擁、キス……それ以上のことをしているのだろうか。


「い、いや! 島崎くんはちょっとだらしないところあるから! 遅刻してるだけかもしれないわね」


 おのれの思考をかき消すように、誰にでもなく言い訳をする。


 来るわけがないという確証がある。それでも心のどこかで淡い期待はあった。


 もしかしたら漫画みたいに奇跡が起きるんじゃないかって。自分の描いた作品みたいなロマンチックな展開が、バカげた奇跡がなんとかしてくれるんじゃないかって。


 もしかして今までのことが全部夢で、まだ島崎くんといっしょにクリスマスの晩をラブホテルのベッドで過ごしているのではないかと。


 だから今までのことは全部ウソ。


 これから彼と楽しい冬休みを過ごして、期末試験でうめき声をあげて、春休みは遊園地や花見に行ったり、そんな楽しい思い出を作る。


 そんなありもしない、仮初の未来。


「いやだ、忘れたくない……」


 膝を抱えて泣きじゃくる。


 辛いこともたくさんあった。辛いことの方が多かったかもしれない。


 大好きな人にフラれて、大好きな人を傷つけて、現実の恋は上手くいかないことばかりだ。


 それでも島崎くんと寮ですごした数カ月を忘れたくない。


 この湖で釣りをしたこと、不器用な彼がヤマメを分けてくれたこと、バーベキューをしたこと、制服デートしたこと、海に行ったこと。


 そのすべてが辛い気持ちを塗りつぶしてくれた。


 私のキャンバスを彩ってくれたのだ。


「島崎くん……」


 彼が恋しい。会いたい。抱きしめてほしい。繋がりたい。


 当たり前の欲求が脳内を支配する。


「ッ‼」


 スマホが軽快な着信音を鳴らす。


 お菓子をもらう子供のように急いで手に取る。


 メッセージを送ってきたのは神原さんだった。






『師匠に、島崎潤一郎にキスをしてもらったっす』





 指輪の光が消え、夏の夢が夜空に散った。

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